帝国陸軍上層部には、バカが多かったと揶揄される。
しかし、陸軍で著名な軍人もいたのだが、失脚したり左遷されたりで、優秀な人材が枯渇していた状況にあるのもまた事実。
特に、優秀な逸材は東條英機に疎まれた。逆に、東條のオキニであった木村や牟田口、富岡などが”やらかした”結果、陸軍が愚将だらけと言われる事となる。
一方で海軍人事は硬直の極みで、戦時にも拘らず適性を無視した慣習通りの人員配置をやり、色々と問題となった(ヤフー知恵袋より)。
戦後アメリカで、”陸の三馬鹿”と大笑われ者になった有名な3名の陸軍幹部がいた。寺内寿一大将、牟田口廉也中将、富永恭次中将の3人。
因みに彼らは、特にイギリスでは”日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える”との、ブラックジョークまで出る始末。
牟田口の無能は既に、”インパール悲劇その1”と”その2”と”その3”に渡り、詳細に長々と紹介しました。
故に今回は、寺内大将(写真左)と富永中将(写真右)の2人を紹介する。
以下、ウィキとevnara.blogサンの”陸の三馬鹿”を参考にします。
寺内寿一大将の無能
最終階級は元帥陸軍大将で、勲等は勲一等、爵位は伯爵で山口県出身。”昭和の妖怪”岸信介や”平成のゾンビ”安倍と同じですね。
この寺内寿一は、第18代総理大臣を歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一、陸海軍を通じ、親子2代で元帥府に列せられた人物だ。
南方軍総司令官時、牟田口中将の無謀な”インパール作戦”を黙認したのもこの人だ。
1944年10月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せた。
この無能なエロ親父は、前線から遠く離れた、ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に司令部を置き、旧フランス総督の豪邸で優雅なエロ生活をしながら、命令を出し続けてたのだ。
寺内は、ルソン島での総力戦を構える上司の山下奉文大将に対し、レイテ島への兵力分散を命じ、約37万人という太平洋戦争最大の犠牲者(87%が餓死)を出す。
因みに、レイテ島への戦力分散は海軍の責任も重大だが、寺内はこのフィリピンでの戦いの失態を訴追される事はなかった。
一方、山下奉文大将は、部下達と共に空腹でフラフラしながら、フィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦ってたのにだ。
日本軍幹部のトップには、現地の女性を愛人として囲った者はいただろうが。日本本土から芸妓を軍用機に乗せ、呼びよせた人間は寺内以外にいなかったとされる。
なぜ?豪遊と冒涜が許されたのか?
長州閥に敵愾心を燃やした東條英樹と、長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内寿一との対立は当然、殺伐としたものがあった。
つまり、寺内寿一大将と東條英機首相との間柄は極めて険悪だったのだ。
因みに、東条英機の父•英教は、日露戦争で寺内寿一の父•寺内正毅首相から失格の烙印を押された。それに当時は長州閥が陸軍を支配してた為、出世を妨げられてた。故に、息子の東条英機は長州閥を敵視し、長州閥の解体に尽力したのだ。
太平洋戦争開戦はその格好の機会だった。陸軍大臣を兼ねる東條首相は、寺内大将を南方軍総司令官として、遠く南冥の地に追いやった。実質の左遷です。
お陰で寺内は、シンガポールやサイゴンから一歩も動けない立場に置かれた。豪遊や冒涜が許されるのも無理はなかったのだ。
その寺内の子分が牟田口だった。”混ぜるな危険”の最悪のケースが、南方軍の惨劇に繋がったのだ。
しかし、そういった醜いお上事情は、最前線で戦う兵士が知る筈もない。彼らはバカな上司の為に戦ったのではなく、最前線の仲間や故郷の家族の為に戦い、そして大半が死に絶えた。
特攻隊司令官の富永恭次中将の無能
長崎出身の富永恭次中将は、自身の敵前逃亡疑惑など、”陸軍史上最悪の軍人”だと批判する声もある。
東條英機の”腰巾着”と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進した。故に、東條の評価を下げたとも言われる。全く、東條のお人好しにも反吐が出ますな。
富永は、参謀本部長に就任した1940年9月の北部仏印進駐に際し、参謀総長の命令と偽り、軍司令官の間で合意した西原•マルタン協定に違反した。その上、強引に軍を進め、数百人の死傷者を出した為に、停職処分となる。
1944年の東條内閣総辞職と共に失脚し、マニラに左遷された冨永は、フィリピン決戦にて、陸軍初の特攻”万朶隊”の出撃命令を出す。以後62回、400機近い特攻機を続々と出撃させ、パイロット全員を戦死させた。
富永は中央勤務が長かった為に、実戦経験が乏しく、航空戦の知識は皆無であったが故の、大きな惨劇でもあった。
生存者の証言によれば、特攻前になると”一升瓶をぶら下げ、訓示を垂れるしか能のない”アホな司令官だったらしい。
でも、こういう上司はどこにでもいますな。朝礼や会議の時だけ、偉そうにしてるクソ親父が。全ては陸軍特有の縦社会の弊害と惨劇なんですね。
敵前逃亡の真実
レイテ島が陥落すると、前述の南方軍司令官の山下奉文大将は、マニラを放棄し、ルソン島山中に後退せよと命じた。
しかし富永は、”すでに多くの特攻機を送り出してる、マニラを離れる訳には行かない”と主張し、マニラ放棄を拒否する。
心身共に疲弊してた冨永は、視察を名目に、上級司令部にも無断で、突然フィリピンから台湾に単独で逃亡する。
結果、約1万の航空残存将兵は地上部隊に編成替えされ、脆弱な歩兵部隊となり、その大半が戦死した。
当然、山下大将からは、”部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!”と面罵された。因みに、逃亡に使った軍用機には、芸者とウイスキーが積まれてたという。
アララ、富永よアンタもか!
この富永の奇怪な行状は、逃亡先の台湾でも知れ渡り、昼間から芸者を軍の乗用車に乗せて走り、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。
本来であれば軍法会議で銃殺刑なのに、何の処分も下されなかった。流石に陸軍中央でも問題になり、待命と予備役編入の処置がとられた。
しかし、”死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にし、戦争から解放するのはおかしい”という批判が噴出し、某師団長として満州の敦化に赴かせた。
終戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留され、1955年に帰国。その5年後、東京の自宅で心臓衰弱のため病死(68歳)。
かつて特攻隊員に、”諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する”と語った本人は、戦後15年間の68歳まで生き、恥を晒した結果となる。
この富永の敵前逃亡は、フィリピンに残った兵士たちの怒りと嘲笑を買い、現地で軍歌”若鷲の歌”の替え歌が流行った。
♫命惜しさに 富永が
台湾に逃げた その後にゃ
今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
でっかい爆弾に 身が縮む♫
息子の殉職と天皇の評価と
富永恭次中将の息子•富永靖少尉は、特別攻撃隊として戦死した(享年22歳)。父親の事は何も触れず、立派に死んでいったという。
その堂々たる態度に、参謀が下士官に”あれは誰か?”と尋ねると、”富永閣下の息子です”という答えが返ってきた。
富永少尉は、父の挙動により生じた家の汚名を晴らそうとしたのだ。
因みに彼は、陸軍特別操縦見習士官(特操)試験不合格ながら、当時陸軍次官だった父•恭次中将の権力で合格させてもらったが。最後は皮肉にも特攻出撃となる。
昭和天皇は戦後、東條英機に一定の好感を与えてる一方で、東條の評判が悪化したのは、富永の様な”兎角評判の良くない且部下の抑えのきかない者”を使った事が、原因の一つであると述べている。
”陸の三馬鹿”と世界で笑いものにされた3人だが。贔屓目で言えば、共に過酷で劣悪な南方に回され自暴自棄になった結果でもあろうか。
彼らがA級戦犯を逃れられたのは、単にGHQが彼ら”三馬鹿”を調査するのにウンザリしたのかもしれないし、時間と労力の無駄と思ったのかもしれない。
”人は見かけによる”じゃないが、この三馬鹿ともドアホ顔の上に見事なツルッ禿だ。遺族には悪いが、南方戦線で一番最初に死ぬべき逸材?だったろうに。皮肉にも世の中は真逆に出来てる。
死ぬべき人が温々と生き残り、死んではいけない人が真っ先に死ぬ。戦争とは何時の世もそんなもんだろうか。
安倍と麻生と、あとはダレだっけ
軍閥は何時の世もバカを生みますね。自民党の派閥も同様です。
岸も安倍もそうですが。コイツラ三馬鹿も書いてて、呆れて厭になりますな。何のために死刑制度があるのか?書くのがツラい?
コメントありがとうです。
角栄も岸も芸者には惚れ込んだ
安倍も麻生も同じだろう。トランプやケネディは遥かその上を行く
権力者は国家の危機にあっても女遊びはやめない。彼らを罰則する法律が実質ないからだ
安倍も今のパンデミックの事態でもノホホンとしてるよいい身分だね
でも安倍はハゲてないから人気があるんでしょうか。
角栄も総理になるまではそこそこ良かったんですが、頂点になった途端ボロが出ました。
岸と比べると出自は全く異なりますが、やってる事はあんまり変りませんね。
アメリカのポチで終わるなら芸者遊びで誤魔化せってヤケバチになったんでしょうか。