今日紹介するのは、ポール•オースターさんです。ゾラやバルザック以上に大好きな作家で、彼の本と出会って以来、活字嫌いが活字中毒になりました。
アメリカの”若き前衛”と称された、戦後生れのアメリカを代表する超実力派の作家です。フランスの詩にも精通し、ゴーストライターや映画監督の経験もある、実に多彩なアーティストでもあります。
ポーランド系ユダヤ人の両親の元で生まれ、12歳の時に叔父から預かったダンボール一杯の本を読み耽り、文学に興味を覚えるんですが、作家になるには勿体無い程のコロンビア大学院出の秀才なんです。
このエピソードは実は、今回紹介する「ムーンパレス」にも重なります。
そういったガチな秀才&多彩のオースターも、大の日本贔屓で、子供の頃は、ゴジラと日本製品と日本人を悪役にした戦争映画に囲まれて育った。特に、日本の映画に興味を持ち、そのメンチさに圧倒されたという。
とにかく、質の高い作品を提供し続ける、現代アメリカ文学を代表する、オースターの底力を感じさせる一冊であリます。
”失い続けた先に何があるのだろう。孤独でもやもやした青春――名手オースターの人気No.1作品”との、大袈裟な宣伝は本当だったんです。
オースターの全作品を通じて言えるのは、"無"そのものに尽きる。とにかく全てにおいて”無垢”なのだ。
主観的な要素を出来るだけ排除し、偶然の重なり合いだけで奇抜で想外な展開を創り出す。お陰で、読者を混乱の闇に落とし込み、最後には"無"そのものに収束させる。
この作品を通じて、人生というものが”野望の無益さと空虚への飛び込み”でしかない事を教えられた気がする。
つまりこの物語は、”罪悪感と欲望の絡み合った錯綜せるダンス”なのだ。
訳者の柴田元幸氏は、"偶然による愉快な展開のすぐ横に混沌の暗い深淵がぽっかりと口を開けてる古典的なイギリス小説を思わせる"と、この作品の立ち位置を捉えてる。
また、"コメディーは、いつ陰惨な悲劇に転じても、不思議ではない事が見える時、正当な切実さを獲得する"と見事に解説し、オースター自身唯一のコメディー作品となるこの一冊を"物語の欲望を目一杯満たしてくれる"と、手放しで評価する。
マーコ•フォッグとムーンパレス
主人公は、典型の自虐的貧乏学生であるマーコ•フォッグ。
その特異な響きの名前と悲しい生い立ちからして、シリアスで陰鬱な物語と思いきや、滑稽な物語と悲劇的な展開が折り重なり、読者を翻弄する。
人類が月に着陸した年に、コロンビア大学に入ったフォッグは、”月は未来であり、地球は現実で太陽は過去”という占いに出会い、以降、月(ムーン)の存在が彼の全てとなる。
特に、美しく聡明なキティー•ウーの存在は、彼の人生においても、ストーリーの色彩においても大きなアクセントをもたらす。いや、読者にとっても非常に魅力ある存在だ。二人を中心に物語は動いていく。
彼女はフォッグの全てであり、彼の全てを支配する。彼女の支えなしに、フォッグの人生は先に進みやしない。彼女こそが”ムーンパレス”(安価でささやかな贅沢を提供する学生街の中華食堂)そのものであり、この名物食堂のネオンと同じく、常に彼の目の前で輝き続ける月なのだ。
フォッグはムーンパレスで食事を取り、毎晩の様に月を眺め、キティー•ウーを頼りに生きていく。
父親も知らず、母親も小さい頃に死に別れ、ビクター伯父だけを頼りに生きてきたコロンビア大学の秀才は、ビクターの死を境に彼の後を追うように、飲まず食わずのホームレスの生き方を選択する。
ホームレスの日々と奇怪な老人
その伯父から1000冊ほどの蔵書を譲り受けるが、それも段ボールに入れっぱなしで、殆ど読まない。伯父が亡くなると、今度は片っ端から読んでいく。
全てを読み終わると、今度はこの伯父の遺産となった蔵書を切売りしながら、ぐうたらな日々を送る。蔵書がなくなると今度は、マンハッタンのセントラルパークでのホームレスの日々が続く。
このホームレスでの物乞いの描写は、実に興味深い。
このトマス•エフィングという老人は、徐々に自らの過去を語り始める。
老人はジュリアン•バーバーという死亡した筈の画家だったと明かし、グレシャム兄弟が強奪して来た金を、彼らを殺害した上で持ち去ったと告解する。
全くこの”プチ物語”も実によく出来てるんです。
オールスターお得意の入れ子式の”物語内物語”の手法に、読者は全くのお手上げですね。そして、ここからがオースター劇場の始まりです。
トマス•エフィング老人の、この萬話に近い生涯の物語に浸るうち、フォッグは少しずつ自分に目覚め、生きる目標を見出すようになる。この奇抜な老人に、もう一人の自分を未来(月)を見出すのだ。
ソロモン•バーバーと出会い
老人の死後、フォッグはこの老人の息子であるソロモン•バーバーと出会う。これまた、漫画に出てくるようなキャラの超肥満の歴史学者に、フォッグはまたも引きずり込まれる。
フォッグの物語が、悲しくも貧しい郷愁が備わった水墨画とすれば、エフィング老人もその息子ソロモンも、紅一点のキティーも、滑稽な世界に生きるポスターカラー調のイラストみたいで、しんみりとした色調の中に、鮮やかで奇抜な色彩を加えている所は、見事であり、オースターの美学を支えてる。
しかし、キティーとの暮しも安泰ではなく、彼女はフォッグの子を身籠るも、若過ぎるとの理由で中絶してしまう。彼女は一時の激しい情愛を与えてくれた太陽(過去)に過ぎなかった。フォッグは彼女と別れ、ソロモンのアパートに居候する。またまた、悲壮で抽象的な湿っぽい展開が続くと思いきや、ここから流れが大きく激変する。
実は、この肥満体の大男ソロモンこそがフォッグの実の父親なのだ。
突然の衝撃的なソロモンの告白に、フォッグはうろたえ自暴自棄になりかける。このソロモンこそがフォッグの現実(地球)であったのだ。
ここにて、月(エフィング老)、地球(ソロモン)、太陽(キティ)の関係が明らかになリます。
無に収束するエンディング
太平洋を目の前にして、自身の闇から抜け出し、"無"という月に終束するエンディングは、何とも言えない郷愁に嵌ってしまう。
ずっとずっとそこに留まっていたい気持ちになる。嗚呼、この光景は、何という無垢な贅沢であろうか。
どんなに滑稽な人生も、どんなに悲惨な青春も、最後には”無”に収束する。読み終えた後の無垢な恍惚に永遠に浸っていたくもなる。
全くオースターには何時も負かされ放しですね。
私もオースターの大ファン。このムーンパレスの響きがいいね。部屋から見えるこのネオンの魅惑な輝きがいい。
売春宿を何となくイメージさせるこの安価な中華食堂、ムーンパレスというロゴとキティー・ウーという中国系アメリカ人の組み合わせは絶妙。
少しヘンな日本語ですが。カンベンネ。
おはようございます。
はじめましてです。
オースターは、日本贔屓というか、アジア贔屓というか。非常にセンチな物語が多いですね。それでいて、萬話的で恐ろしく自虐的で、掴み所のない展開に、思わず我を忘れる程に惹き込まれます。
これからも、読書ブログ共々宜しくです。