ぺんてる筆ペンが書きよい。中字、極細、薄墨の3種類を使う。のし袋を書くのに使用するのだが頻度はすこぶる少なく、すぐインクというか墨汁がどろっとしてくる、あるいは無くなる。そこで、ホルベインの水生アクリル塗料ブラックを使ってる。インキが無くなったら、これを数滴チラシなどに垂らせばOK蘇る(もちろん墨汁でも可だが固まるかもしれない)。もともと筆部分は悪くなってはいない。ものは大事に使わねば。聞いたことある言い回し、ダッシュ村だ。
名前、住所、御祝、御仏前、御供、御香典、餞別だけは練習しておかねばならない。習字を習ったことがないので「冠婚葬祭 表書き毛筆辞典」柏書房 中原哲監修を参考に書く。習字を習うというのは表現がおかしい。字を習うのが習字だ。しかし、習字には筆をつかうという了解があり、漢字を習うのは国語で、習字とはすなわち書道のことをいう。書道の指導を受けることが、習字と言うことだ。高校まで習字の時間はあったから正確には習ったことになる。従って先の「習字を習ったことがない」といのは特別な指導を受けてないという意味。でも日本人なら書が分かる。いい字は見ていて気持ちがいい。
クローズアップ現代で無頼派棋士、名誉棋聖・藤原秀行氏の死に直面した書を見た。迫力ある字だ。最後に弟子達に贈った言葉が「強烈な努力」。まったく恥じ入るしかないが、努力できるのも才能と言うことにしておこう。ドーパミンが出続けるため、止めることが出来ないのだ。誰しも快感には服従するしかない。問題なのは快感が何によってもたらされるかだ。数学の難問を解く快感とピーナツを食べて得られる快感が同じはずはない。私の座右の銘「紐はどこが切れてもそこが端」。