初七日が終わりました。
享年94歳の大往生でした。
うちの奥さんが、介護をしてくれました。
20年前に母を、そして、三年前から父を看てくれました。
全く、頭が上がりません。
父は、デイサービスやショートに行くと、なかなか人当たりがよく、職員の方々にも評判はよかった?(≧▽≦)
奧さんは、介護のために、自分の自由時間を捨てました。
毎日、1~2時間ごとに父の様子を看てくれました。
もちろん、シモの世話も···。
自分の親なのに、私は、「出来ませんでした···(😭)」(男はダメですよね。)
円通寺さんでのお通夜とお葬式。
コロナウイルスのせいもあり遠方の親せきは誰も参列できず、また、父の兄弟や親族がすでに亡くなっていたり、高齢で参列できない、ということで、わずか20数人だけのお通夜でした。
そのかわり、香典はたくさんの方々からいただきました。
ありがとうございました。
初めて、父の経歴を知りました。
日記があり、そこに、自分史がありました。
大湊海軍工作部、静岡浜名海兵団、大湊海兵団、横須賀海兵団、宮城県海軍火薬庁、など海軍畑を歴任?(海軍のたらい回し…かな)
主戦後はむつ電報電話局を退職(現在NTT)になりました。
穏やかに老後を過ごして、買い物、裁縫、好きな読書など楽しんでいました。
孫(娘)たちが帰省してくると、思いっきりの笑顔で、お小遣いをあげていました。
孫(娘)の願いは5年間かなえられました。
認知症を患ったときは、義姉(60数歳の妙齢)にまで、お小遣いをあげようとして、慌てて止めました。(笑い)
92歳という大往生でした。
その日、病院の先生と「看取り介護」の話し合いがありました。
治療や手術をしても、ただ苦しめるだけだと。また延命治療をしても、助かる可能性は低い、と。
安らかに、母の元(父の妻)に逝かせてほしい、と伝えました。
そのあと、面会しましたが、やはり息があがってきていました。意識ももうろうとしていました。
その2時間後、施設から電話があり、「呼吸が停止しています」・・・。
駆けつけてみると、安らかな寝顔?
看護師さんが、説明してくれましたが、実は、死んだのが信じられず、つい「あれ、死んでいるんですか?」と訊ねてしまいました。(泣き)
それだけ、寝顔と間違えるくらい安らかでした。苦痛にゆがんだ顔では、なかったのが幸いでした。
父との思い出は、あまりないものの、これで母・父を亡くした寂しさを痛烈に感じています。
「笑顔がかわいい」(和尚様)、「素敵な笑顔でした」(施設の職員さん)という言葉に救われています。
さようなら。あの世でまた息子にしてください。