ここ最近、テレビ局への取材が異様に多い。
大物俳優やアイドルより、たとえば夏目三久嬢やTBSの枡田絵理奈アナを目撃して喜んでいる自分もアレなんだが、
ひとつ、面白いなぁと思うことがある。
映画のスタッフと、テレビのスタッフ。
映像畑という点では同じ住人のはずなのに、ずいぶんと雰囲気がちがうんだ。
誤解を恐れずにいえば、テレビ畑のほうが軽やかっていうか明るいっていうかね。
話しかたも動きかたもそう。
良いとか悪いとかではなく。
時間がないのはテレビも映画も同じだろうが「より」時間がない、足りないのは前者のほうだろう。
だから立ち止まっていられない、そのありかたが話しかたにも表れているということ、、、なのかもしれない。
かつては敵対する存在であったはずのテレビと映画は、いつのまにか境界線がなくなり、それはたぶん80年代くらいからだと思うが、共存共栄の関係になっていた。
もっといえば、なんとなくテレビが主導権を持っているようにも見える・・・というのは、日本だけの現象じゃないのではないかな。
そんなわけで今宵は、「映画のなかで描かれるテレビ」を特集してみよう。
(1)『ネットワーク』(76)
この映画が誕生して、まもなく40年。
テレビを背景にした作品で、これを超えるものは未だ誕生していない。
視聴率戦争を描いた社会派だが、群像劇としても優れており、多くの職人監督たちに愛され、そして参考にされ続けている。
(2)『狼たちの午後』(75)
ワンツーフィニッシュを決めた映画は、偶然にも、どちらもシドニー・ルメットの監督作!!
テレビを味方につければ、犯罪者だってヒーローになれるのだ。
(3)『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(94)
そんなテレビの狂気性を、極端な形で物語にしたのが本作。
(事件を起こす直前の)オウム真理教とテレビとの関係性を思い起こすと、想像の物語と片付けることは出来なくなる。
(4)『身代金』(96)
求められるものは、映像的なインパクト。
ハダカや血が映されなくとも、積み上げられた札束だけで視聴者のテンションは上がったにちがいない。
「この金は、お前の首の賞金だ」
さあどうする、誘拐犯よ。
面白い、じつに面白い。
(5)『ダイハード』(88)
暴走したテレビリポーターは、最後の最後に当然の報いを受ける。
主人公の妻に殴られた彼はしかし、その殴られたシーンも「撮ったか?」とカメラマンに聞く。
笑えるほどに呆れるし、ある意味では超のつくプロフェッショナルである。
(6)『ブロードキャスト・ニュース』(87)
局内の三角関係を描いた大人のドラマだが、おそらくいちばん有名なのは、ジョーン・キューザックがスタジオを走り回り、ビデオテープを再生するまでのコミカルなアクションだろう。
(動画を検索したが、見つからなかった…)
(7)『アンカーウーマン』(96)
アンカーウーマン(キャスター)に憧れるミシェル・ファイファーと、その上司レッドフォードの恋愛物語。
とは書いてみたものの、セリーヌ・ディオンの主題歌しか覚えていないのだった。
(8)『クイズ・ショウ』(94)
実際に起こったヤラセ騒動をもとにしているが、知性派の監督レッドフォードはそれをスキャンダラスに描くことはなく、50年代の米国の雰囲気そのものを再現することに力を注いでいる。
そしてこの映画に関しては、その演出意図は「うまくいっている」ように思う。
(9)『トゥルーマン・ショー』(98)
全米の視聴者に見守られながら生きてきた男による、「父親」への決別の物語。
重箱の隅をつつこうと思えばいくらでも出来そうな映画だが、それをやるのは野暮というものでしょう。
(10)『白痴』(99)
日本映画からひとつ。
坂口安吾の名作を手塚眞が大胆に映像化、それがうまくいっているかどうかは「??」だが、テレビ局で働く主人公を描いた前半だけは面白かった。
※本日のタイトルは、もちろんこの曲から
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(240)寺島進』
大物俳優やアイドルより、たとえば夏目三久嬢やTBSの枡田絵理奈アナを目撃して喜んでいる自分もアレなんだが、
ひとつ、面白いなぁと思うことがある。
映画のスタッフと、テレビのスタッフ。
映像畑という点では同じ住人のはずなのに、ずいぶんと雰囲気がちがうんだ。
誤解を恐れずにいえば、テレビ畑のほうが軽やかっていうか明るいっていうかね。
話しかたも動きかたもそう。
良いとか悪いとかではなく。
時間がないのはテレビも映画も同じだろうが「より」時間がない、足りないのは前者のほうだろう。
だから立ち止まっていられない、そのありかたが話しかたにも表れているということ、、、なのかもしれない。
かつては敵対する存在であったはずのテレビと映画は、いつのまにか境界線がなくなり、それはたぶん80年代くらいからだと思うが、共存共栄の関係になっていた。
もっといえば、なんとなくテレビが主導権を持っているようにも見える・・・というのは、日本だけの現象じゃないのではないかな。
そんなわけで今宵は、「映画のなかで描かれるテレビ」を特集してみよう。
(1)『ネットワーク』(76)
この映画が誕生して、まもなく40年。
テレビを背景にした作品で、これを超えるものは未だ誕生していない。
視聴率戦争を描いた社会派だが、群像劇としても優れており、多くの職人監督たちに愛され、そして参考にされ続けている。
(2)『狼たちの午後』(75)
ワンツーフィニッシュを決めた映画は、偶然にも、どちらもシドニー・ルメットの監督作!!
テレビを味方につければ、犯罪者だってヒーローになれるのだ。
(3)『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(94)
そんなテレビの狂気性を、極端な形で物語にしたのが本作。
(事件を起こす直前の)オウム真理教とテレビとの関係性を思い起こすと、想像の物語と片付けることは出来なくなる。
(4)『身代金』(96)
求められるものは、映像的なインパクト。
ハダカや血が映されなくとも、積み上げられた札束だけで視聴者のテンションは上がったにちがいない。
「この金は、お前の首の賞金だ」
さあどうする、誘拐犯よ。
面白い、じつに面白い。
(5)『ダイハード』(88)
暴走したテレビリポーターは、最後の最後に当然の報いを受ける。
主人公の妻に殴られた彼はしかし、その殴られたシーンも「撮ったか?」とカメラマンに聞く。
笑えるほどに呆れるし、ある意味では超のつくプロフェッショナルである。
(6)『ブロードキャスト・ニュース』(87)
局内の三角関係を描いた大人のドラマだが、おそらくいちばん有名なのは、ジョーン・キューザックがスタジオを走り回り、ビデオテープを再生するまでのコミカルなアクションだろう。
(動画を検索したが、見つからなかった…)
(7)『アンカーウーマン』(96)
アンカーウーマン(キャスター)に憧れるミシェル・ファイファーと、その上司レッドフォードの恋愛物語。
とは書いてみたものの、セリーヌ・ディオンの主題歌しか覚えていないのだった。
(8)『クイズ・ショウ』(94)
実際に起こったヤラセ騒動をもとにしているが、知性派の監督レッドフォードはそれをスキャンダラスに描くことはなく、50年代の米国の雰囲気そのものを再現することに力を注いでいる。
そしてこの映画に関しては、その演出意図は「うまくいっている」ように思う。
(9)『トゥルーマン・ショー』(98)
全米の視聴者に見守られながら生きてきた男による、「父親」への決別の物語。
重箱の隅をつつこうと思えばいくらでも出来そうな映画だが、それをやるのは野暮というものでしょう。
(10)『白痴』(99)
日本映画からひとつ。
坂口安吾の名作を手塚眞が大胆に映像化、それがうまくいっているかどうかは「??」だが、テレビ局で働く主人公を描いた前半だけは面白かった。
※本日のタイトルは、もちろんこの曲から
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