あのひとなら大丈夫。
まちがっても、おかしな方向に行くことはないだろう。
なんといっても磐石のひとだから。
安心と信頼の職人作家―刺激は得られないかもしれないが、リチャード・アッテンボローはそんなイメージを持つ映画監督であった。
92年までは。
その映画キャリアは、俳優業からスタートする。
おそらく最も有名なのは『大脱走』(63)のビッグXこと、ロジャー・バートレットの役だろう。
頭が切れ、脱走トンネルのアイデアを出したキャラクターである。
この映画の演技が気に入られたのか、スティーブ・マックィーンの信頼を得て、『砲艦サンパブロ』(66)でも共演を果たしている。
若い映画ファンには、『ジュラシック・パーク』(93)の実業家といったほうがピンとくるにちがいない。
そう、あのテーマパークを作った張本人だ。
72年に監督業に挑戦。
デビュー作は逆説的なタイトルが素晴らしい反戦映画、『素晴らしき戦争』。
デビュー作にすべてが出る―というのはアッテンボローにも当てはまり、基本的には社会派のひとだった。
77年、『遠すぎた橋』を発表。
高校の担任に「牧野! 『遠すぎた橋』って知ってるか? あれは素晴らしかった。牧野には、ああいうものを創ってほしいなぁ」といわれ、学校帰りにレンタルビデオ店に走ったことを思い出す。
映画監督としての評価を決定的にしたのが、82年の『ガンジー』だった。
ガンジーの生き写しと見紛う俳優、ベン・キングスレーを発見した時点で成功したようなものだが、きのうの読売追悼記事にあったように「制作国のイギリスと、舞台となったインド」双方が納得出来るバランスを保てたことが素晴らしい。
たとえれば伊藤博文の映画を創ったとして、日本と韓国の双方が満足するように出来るのかって話である。
それをアッテンボローはやってのけた。
だからこその、オスカー独占受賞であったのだろう。
85年、舞台を映画化した『コーラスライン』を発表。
87年、アパルトヘイトを扱った『遠い夜明け』を発表。
自分はこの映画でアパルトヘイトを知り、学校の自由作文で取り上げた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/24/eba8e1b457fb031f3d30a9c0697834f7.jpg)
92年、『チャーリー』を発表。
これは制作段階から期待していた。
なんといっても、チャールズ・チャップリンを描いた映画なのだから。
そして、話は冒頭に戻ってくる。
…………………………………………
あのひとなら大丈夫。
まちがっても、おかしな方向に行くことはないだろう。
なんといっても磐石のひとだから。
…………………………………………
チャップリン役に、名優ロバート・ダウニー・Jr。
母ハンナに、チャップリン実の娘ジェラルディン。
ほか、ダグラス・フェアバンクスにケビン・クライン、ポーレット・ゴダードにダイアン・レインという豪華な布陣がそろった。
しかし。
これが、興行批評の両面で失敗したのである。
とくに、批評の面において。
実際、退屈な映画だった。
いくつかのエピソードを駆け足でなぞったに過ぎず、チャップリンが立体的に浮かび上がらない。
はっきりいえば、『知ってるつもり?!』(日本テレビ)のチャップリン特集のほうが内容が濃く楽しめた。
どうしちまったんだアッテンボローよ、よりによってチャップリンの伝記映画で!! と失望した。
自分自身が多感な時期だった所為もある、失望は怒りへと変わり、その年のワーストに選んで周囲に「あんなクズ映画!」と喚きつづけた。
多感な時期、遅くね? だと?
いや思春期は過ぎていたが、映画小僧として最も熱い時期という意味である。
観たのが上京直後だったから。
躓くことだって、あるよね―そう思えるようになったのは、それから随分と経ってからのことだった。
93年―『永遠の愛に生きて』を発表し、アッテンボローは「きちんと」復活した。
2004年12月26日―。
インドネシア・スマトラ島大震災・大津波が発生、孫娘など複数の親族が犠牲となる。
アッテンボロー本人は老人ホームに入り、ここ最近は「ほぼ」引退状態だった。
そして8月24日、90年の人生に幕を閉じた。
・・・と、ここまで書いて一服していると、映画監督・曾根中生の訃報が入った。
今月は沢山の映画人が鬼籍に入るなぁ、、、と寂しい思いを抱く。
曾根中生に比べれば、アッテンボローの映画人生は穏やかなものだったのかもしれない―と一瞬思ったが、
いいや、映画小僧から勝手に磐石のひとと信頼され常に期待されることは、(そういう仕事だったとはいえ)大変なプレッシャーだったのではないだろうか。
いまはただ、ありがとう、ゆっくり休んでください―といいたい。
そして『チャーリー』公開時、周囲に「あんな映画、観なくていい」といいまくってごめんなさい! と謝りたい。
誰かにとっては、大切な映画になったのかもしれない、、、のにねぇ。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(90)』
まちがっても、おかしな方向に行くことはないだろう。
なんといっても磐石のひとだから。
安心と信頼の職人作家―刺激は得られないかもしれないが、リチャード・アッテンボローはそんなイメージを持つ映画監督であった。
92年までは。
その映画キャリアは、俳優業からスタートする。
おそらく最も有名なのは『大脱走』(63)のビッグXこと、ロジャー・バートレットの役だろう。
頭が切れ、脱走トンネルのアイデアを出したキャラクターである。
この映画の演技が気に入られたのか、スティーブ・マックィーンの信頼を得て、『砲艦サンパブロ』(66)でも共演を果たしている。
若い映画ファンには、『ジュラシック・パーク』(93)の実業家といったほうがピンとくるにちがいない。
そう、あのテーマパークを作った張本人だ。
72年に監督業に挑戦。
デビュー作は逆説的なタイトルが素晴らしい反戦映画、『素晴らしき戦争』。
デビュー作にすべてが出る―というのはアッテンボローにも当てはまり、基本的には社会派のひとだった。
77年、『遠すぎた橋』を発表。
高校の担任に「牧野! 『遠すぎた橋』って知ってるか? あれは素晴らしかった。牧野には、ああいうものを創ってほしいなぁ」といわれ、学校帰りにレンタルビデオ店に走ったことを思い出す。
映画監督としての評価を決定的にしたのが、82年の『ガンジー』だった。
ガンジーの生き写しと見紛う俳優、ベン・キングスレーを発見した時点で成功したようなものだが、きのうの読売追悼記事にあったように「制作国のイギリスと、舞台となったインド」双方が納得出来るバランスを保てたことが素晴らしい。
たとえれば伊藤博文の映画を創ったとして、日本と韓国の双方が満足するように出来るのかって話である。
それをアッテンボローはやってのけた。
だからこその、オスカー独占受賞であったのだろう。
85年、舞台を映画化した『コーラスライン』を発表。
87年、アパルトヘイトを扱った『遠い夜明け』を発表。
自分はこの映画でアパルトヘイトを知り、学校の自由作文で取り上げた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/24/eba8e1b457fb031f3d30a9c0697834f7.jpg)
92年、『チャーリー』を発表。
これは制作段階から期待していた。
なんといっても、チャールズ・チャップリンを描いた映画なのだから。
そして、話は冒頭に戻ってくる。
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あのひとなら大丈夫。
まちがっても、おかしな方向に行くことはないだろう。
なんといっても磐石のひとだから。
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チャップリン役に、名優ロバート・ダウニー・Jr。
母ハンナに、チャップリン実の娘ジェラルディン。
ほか、ダグラス・フェアバンクスにケビン・クライン、ポーレット・ゴダードにダイアン・レインという豪華な布陣がそろった。
しかし。
これが、興行批評の両面で失敗したのである。
とくに、批評の面において。
実際、退屈な映画だった。
いくつかのエピソードを駆け足でなぞったに過ぎず、チャップリンが立体的に浮かび上がらない。
はっきりいえば、『知ってるつもり?!』(日本テレビ)のチャップリン特集のほうが内容が濃く楽しめた。
どうしちまったんだアッテンボローよ、よりによってチャップリンの伝記映画で!! と失望した。
自分自身が多感な時期だった所為もある、失望は怒りへと変わり、その年のワーストに選んで周囲に「あんなクズ映画!」と喚きつづけた。
多感な時期、遅くね? だと?
いや思春期は過ぎていたが、映画小僧として最も熱い時期という意味である。
観たのが上京直後だったから。
躓くことだって、あるよね―そう思えるようになったのは、それから随分と経ってからのことだった。
93年―『永遠の愛に生きて』を発表し、アッテンボローは「きちんと」復活した。
2004年12月26日―。
インドネシア・スマトラ島大震災・大津波が発生、孫娘など複数の親族が犠牲となる。
アッテンボロー本人は老人ホームに入り、ここ最近は「ほぼ」引退状態だった。
そして8月24日、90年の人生に幕を閉じた。
・・・と、ここまで書いて一服していると、映画監督・曾根中生の訃報が入った。
今月は沢山の映画人が鬼籍に入るなぁ、、、と寂しい思いを抱く。
曾根中生に比べれば、アッテンボローの映画人生は穏やかなものだったのかもしれない―と一瞬思ったが、
いいや、映画小僧から勝手に磐石のひとと信頼され常に期待されることは、(そういう仕事だったとはいえ)大変なプレッシャーだったのではないだろうか。
いまはただ、ありがとう、ゆっくり休んでください―といいたい。
そして『チャーリー』公開時、周囲に「あんな映画、観なくていい」といいまくってごめんなさい! と謝りたい。
誰かにとっては、大切な映画になったのかもしれない、、、のにねぇ。
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(90)』