第19部「コーエン兄弟の物語」~第1章~
「コーマック・マッカーシーの小説を、痛恨の念を持って、世界が腐敗しつつあるという感覚で撮られています。
20年前ならこの映画を制作しましたか。それともこういった悲観は、年齢が増したことを意味するのでしょうか?」
「(笑う)この映画は、完全に悲観的というわけではないよ。映画の終わりでトミー・リー・ジョーンズのいうセリフのなかにかすかな希望の光がある。
だがそうだね、確かにこの映画と原作には、時が過ぎ行くこと、古びゆくことや変わりゆく物事について、描かれているところがある。そのテーマについて我々が魅力を感じたことは、今の我々が共感できる物の見かた、いや、20年前なら共感出来なかったであろう物の見かただった」(イーサン・コーエン、『ノーカントリー』を語る)
…………………………………………
よく喚き、よく踊る。
タランティーノの映画?
たしかに「QTあるある」のような気がするが、その元祖といえばコーエン兄弟である。
コーエン兄弟の映画で「ひたすら寡黙」だったのは『バーバー』(2001)と、最新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』(2013)の主人公くらいで、ほかの映画の主人公たちは「一度や二度は」喚くか踊るかしている。
兄、ジョエル・コーエン。
54年11月29日生まれ、まもなく還暦を迎える59歳。
弟、イーサン・コーエン。
57年9月21日生まれ、現在56歳。
ともに眼鏡をかけ、若いころから落ち着いていた彼らは知性的な監督と評されている。
たしかにそう。
今年でちょうどデビュー30年だが、そのあいだに(短編を含めて)18本の映画を撮り、わずかに失敗作もある―賛否分かれるとは思うが、『レディ・キラーズ』(2004)と『バーン・アフター・リーディング』(2008)だろうか―が、多くの作品が海外の映画祭で「なんらかの」賞を受賞している。
だがオスカー常連になったのは『ファーゴ』(96)からであり、それまでは母国の米国では「知るひとぞ知る」みたいな存在であった。
最初の10年間は主にヨーロッパと日本で評価されていた。
日本での評価は今野雄二らの激賞によるところが大きいが、この先見の明は米国に対して誇っていいと思う。
しかし本シリーズの括りは「怒れる監督」である。
落ち着いた兄弟監督に「怒り」は似合わない―10年前であればそう思っていたのだが、『ノーカントリー』(2007)を観て、そんなことはないかもしれないと考えを変えた。
激高はしていない。
でも、なんとなく怒っている「ようにも」見える。
そう、静かに怒っているのではないかと。
…………………………………………
米国のインディペンデント映画は60~70年代に開花し、80年代に入って「いったん」幕を閉じる。
スピルバーグ印が席巻した時代である。
頭に「良くも悪くも」とつけるべきかもしれない。
いわゆるビッグバジェットは映画館離れを食い止めることに成功したが、それに「ノレなかった」映画小僧たちを救うことは出来なかった。
いつの時代だって、そんな映画小僧たちは存在する。
彼ら彼女らは「出来たてホヤホヤ」のレンタルビデオショップに駆け込み、過去の作品で自分を慰めていた。
コーエン兄弟がプロになるのは、まさにこのころだった。
ジョエルはサム・ライミと知り合い、彼の『死霊のはらわた』(81)で編集助手を務める。
ここで低予算映画の「短期間撮影術」を学び、それを自作に取り込もうと考えた。
こうして出来上がったのが、処女作『ブラッド・シンプル』(84)である。
『死霊のはらわた』が米国のインディペンデント映画「復活前夜」だとすれば、『ブラッド・シンプル』は、あきらかに「夜明け」だろう。
だからこの日本版予告編におけるコピーは、誇大広告とはいえないと思う。
※このバージョンアップ版は公開初日に渋谷シネマライズで観たが、筆者を含めた「ほぼ全員」が「いかにもな映画小僧」であり、その熱気は凄まじいものがあった
…………………………………………
一部の映画小僧が歓喜した『ブラッド・シンプル』は、疑惑と誤解が渦巻く乾いたサスペンスである。
妻の不貞を疑った男が探偵に調査を依頼する。
不貞は事実であったが、男が探偵に殺人まで依頼したことから話がこじれ「ムダ、と思われる血」がいくつも流れるという物語だった。
繊細な音作りと大胆なカット割り―とくに放られた夕刊? が、網戸に当たるショット!!―に驚いたものだが、コーエン兄弟は以後も「これとよく似た物語」を制作している。
偽装誘拐やら恐喝やら連鎖殺人やら・・・。
「人間は、おかしくて、哀しい」―『ファーゴ』(96)のキャッチコピーだが、これは彼らの映画に一貫するテーマでもある。
『ファーゴ』の婦人警官は殺人犯にこう話しかける。
「馬鹿なことを。きょうは、こんなにいい日なのに」
繰り返される殺人。
それが金目当てか怨恨によるものかのちがいはあるかもしれないが、新聞の三面記事の内容は、日本と米国とで「それほど」変わらない。
こんなにも素敵な日に、どこかでは殺人が起こっている。
視点を変えれば、そのサマは滑稽で、そして、呆れるほどに愚かでもある。
まさに人間は、おかしくて、哀しい。
コーエン兄弟はときにユーモラスに、ときにシリアスに、ときに静かな怒りを宿して、このテーマと向き合っているのだ。
…………………………………………
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『いつかギラギラする日』
「コーマック・マッカーシーの小説を、痛恨の念を持って、世界が腐敗しつつあるという感覚で撮られています。
20年前ならこの映画を制作しましたか。それともこういった悲観は、年齢が増したことを意味するのでしょうか?」
「(笑う)この映画は、完全に悲観的というわけではないよ。映画の終わりでトミー・リー・ジョーンズのいうセリフのなかにかすかな希望の光がある。
だがそうだね、確かにこの映画と原作には、時が過ぎ行くこと、古びゆくことや変わりゆく物事について、描かれているところがある。そのテーマについて我々が魅力を感じたことは、今の我々が共感できる物の見かた、いや、20年前なら共感出来なかったであろう物の見かただった」(イーサン・コーエン、『ノーカントリー』を語る)
…………………………………………
よく喚き、よく踊る。
タランティーノの映画?
たしかに「QTあるある」のような気がするが、その元祖といえばコーエン兄弟である。
コーエン兄弟の映画で「ひたすら寡黙」だったのは『バーバー』(2001)と、最新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』(2013)の主人公くらいで、ほかの映画の主人公たちは「一度や二度は」喚くか踊るかしている。
兄、ジョエル・コーエン。
54年11月29日生まれ、まもなく還暦を迎える59歳。
弟、イーサン・コーエン。
57年9月21日生まれ、現在56歳。
ともに眼鏡をかけ、若いころから落ち着いていた彼らは知性的な監督と評されている。
たしかにそう。
今年でちょうどデビュー30年だが、そのあいだに(短編を含めて)18本の映画を撮り、わずかに失敗作もある―賛否分かれるとは思うが、『レディ・キラーズ』(2004)と『バーン・アフター・リーディング』(2008)だろうか―が、多くの作品が海外の映画祭で「なんらかの」賞を受賞している。
だがオスカー常連になったのは『ファーゴ』(96)からであり、それまでは母国の米国では「知るひとぞ知る」みたいな存在であった。
最初の10年間は主にヨーロッパと日本で評価されていた。
日本での評価は今野雄二らの激賞によるところが大きいが、この先見の明は米国に対して誇っていいと思う。
しかし本シリーズの括りは「怒れる監督」である。
落ち着いた兄弟監督に「怒り」は似合わない―10年前であればそう思っていたのだが、『ノーカントリー』(2007)を観て、そんなことはないかもしれないと考えを変えた。
激高はしていない。
でも、なんとなく怒っている「ようにも」見える。
そう、静かに怒っているのではないかと。
…………………………………………
米国のインディペンデント映画は60~70年代に開花し、80年代に入って「いったん」幕を閉じる。
スピルバーグ印が席巻した時代である。
頭に「良くも悪くも」とつけるべきかもしれない。
いわゆるビッグバジェットは映画館離れを食い止めることに成功したが、それに「ノレなかった」映画小僧たちを救うことは出来なかった。
いつの時代だって、そんな映画小僧たちは存在する。
彼ら彼女らは「出来たてホヤホヤ」のレンタルビデオショップに駆け込み、過去の作品で自分を慰めていた。
コーエン兄弟がプロになるのは、まさにこのころだった。
ジョエルはサム・ライミと知り合い、彼の『死霊のはらわた』(81)で編集助手を務める。
ここで低予算映画の「短期間撮影術」を学び、それを自作に取り込もうと考えた。
こうして出来上がったのが、処女作『ブラッド・シンプル』(84)である。
『死霊のはらわた』が米国のインディペンデント映画「復活前夜」だとすれば、『ブラッド・シンプル』は、あきらかに「夜明け」だろう。
だからこの日本版予告編におけるコピーは、誇大広告とはいえないと思う。
※このバージョンアップ版は公開初日に渋谷シネマライズで観たが、筆者を含めた「ほぼ全員」が「いかにもな映画小僧」であり、その熱気は凄まじいものがあった
…………………………………………
一部の映画小僧が歓喜した『ブラッド・シンプル』は、疑惑と誤解が渦巻く乾いたサスペンスである。
妻の不貞を疑った男が探偵に調査を依頼する。
不貞は事実であったが、男が探偵に殺人まで依頼したことから話がこじれ「ムダ、と思われる血」がいくつも流れるという物語だった。
繊細な音作りと大胆なカット割り―とくに放られた夕刊? が、網戸に当たるショット!!―に驚いたものだが、コーエン兄弟は以後も「これとよく似た物語」を制作している。
偽装誘拐やら恐喝やら連鎖殺人やら・・・。
「人間は、おかしくて、哀しい」―『ファーゴ』(96)のキャッチコピーだが、これは彼らの映画に一貫するテーマでもある。
『ファーゴ』の婦人警官は殺人犯にこう話しかける。
「馬鹿なことを。きょうは、こんなにいい日なのに」
繰り返される殺人。
それが金目当てか怨恨によるものかのちがいはあるかもしれないが、新聞の三面記事の内容は、日本と米国とで「それほど」変わらない。
こんなにも素敵な日に、どこかでは殺人が起こっている。
視点を変えれば、そのサマは滑稽で、そして、呆れるほどに愚かでもある。
まさに人間は、おかしくて、哀しい。
コーエン兄弟はときにユーモラスに、ときにシリアスに、ときに静かな怒りを宿して、このテーマと向き合っているのだ。
…………………………………………
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『いつかギラギラする日』