古くは大島渚監督と批評家の田山力哉とか、
北野武とプロデューサーの奥山和由とか、
ベネチア取った武に噛みついた津川雅彦だとか、
自分が師事していたこともある脚本家の荒井晴彦なんて、「年がら年中」監督あるいは原作者と揉めていたし。
MCU擁護派と批判派の諍いについてもいえるのだけれど、こういう喧嘩や議論を好まないひとも「ある一定数」は居るでしょう、
その逆に、自分のように「もっとやれ!やれ!!」っていう向きも居て。
格闘家同士の「リング・ケージ以外の喧嘩」は、いいかげんにやめてほしいと思っている。
なぜなら、そこからは「なにも生まれないから」。
しかし表現者同士は、なにか生まれるのかもしれない。だって、なにかを生み出すことを生業としているわけでしょ―という希望的観測を持っているのよね、
壮大な喧嘩、大歓迎。
でも、まちがっても死者が出ない方向で・・・。
漫画『セクシー田中さん』は連載開始当初から評判がよく、毎話とはいかなかったが可能なかぎり目を通していた。
地味なOLはしかし、夜になると魅惑のベリーダンサーとなる…うん面白い。
ドラマ化への流れも納得、ただ誰が演じるのかが問題だなぁと思っていたら木南晴夏さんだっていうじゃない。完璧なキャスティングだ!
というわけで。
『量産型リコ』ほど熱心とはいえなかったが、初回から最終回まで視聴したのだった。
29日、原作者の芦原妃名子さんが自死―コトの経過は、Yahoo!などで確認してもらうとして。
小学館と原作者 VS 日テレと制作陣という対立構図のはずが、
原作者 VS 脚本家という個人の対立と捉えられ、「原作レイプ」などという過激な文言とともに脚本家への風当たりが強くなっている、、、のが現状か。
見つかった遺書には記してあるのかもしれないが、なぜ自死を選んでしまったのかは分からない。
圧力を勘繰る向き、無言の抗議と解釈するものも居るが、脚本家へのバッシングに責任を感じて…みたいなところがあるんじゃないか。とは思っている。
このあたりは推測の域を出ないので、これ以上は突っ込まない。
ただ連載中であったことから「原作に忠実に」「別の物語にはしないように」という要求を出し、それが悉く守られなかったことから最終前話と最終話を自ら脚本化する―という経緯があったことは事実。
あぁ、やりきれないなぁ。。。
自分の子どものようなもの。
だから原作者が改変を好まない傾向にあるのはたしかなところで。
しかし脚本家としてみれば、脚色にこそ「わが能力」を示すことが出来るやりがいが宿っているのであって、ただ原作をなぞらえるだけでは自分自身を表現することが出来ない。
そのせめぎ合いは、原作があるものを映像化するようになってから、ずっとずっと繰り広げられてきたこと。
完成品が発表されたあとも、延々と延々と揉めているケースもあるにはあるが、みんなどこかで折り合いをつけたりするもので、それっていうのはたぶん「充分な話し合い、あるいは喧嘩」によるものなのだろう。
コトの経過を追っていくと、この話し合い・喧嘩がきっちりなされていなかったことが分かる。
(最終話が経過したのちの)当人同士が交わらぬSNS投稿では、ガチンコの喧嘩なんか出来やしないんだ!!
ひとが死ぬくらいだったら。
たとえみっともなくとも、おとなの喧嘩のほうを見たかった。
ただただ、残念です。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『かーちゃん超えを果たします。。。 + 2024年01月コラムの目次』
北野武とプロデューサーの奥山和由とか、
ベネチア取った武に噛みついた津川雅彦だとか、
自分が師事していたこともある脚本家の荒井晴彦なんて、「年がら年中」監督あるいは原作者と揉めていたし。
MCU擁護派と批判派の諍いについてもいえるのだけれど、こういう喧嘩や議論を好まないひとも「ある一定数」は居るでしょう、
その逆に、自分のように「もっとやれ!やれ!!」っていう向きも居て。
格闘家同士の「リング・ケージ以外の喧嘩」は、いいかげんにやめてほしいと思っている。
なぜなら、そこからは「なにも生まれないから」。
しかし表現者同士は、なにか生まれるのかもしれない。だって、なにかを生み出すことを生業としているわけでしょ―という希望的観測を持っているのよね、
壮大な喧嘩、大歓迎。
でも、まちがっても死者が出ない方向で・・・。
漫画『セクシー田中さん』は連載開始当初から評判がよく、毎話とはいかなかったが可能なかぎり目を通していた。
地味なOLはしかし、夜になると魅惑のベリーダンサーとなる…うん面白い。
ドラマ化への流れも納得、ただ誰が演じるのかが問題だなぁと思っていたら木南晴夏さんだっていうじゃない。完璧なキャスティングだ!
というわけで。
『量産型リコ』ほど熱心とはいえなかったが、初回から最終回まで視聴したのだった。
29日、原作者の芦原妃名子さんが自死―コトの経過は、Yahoo!などで確認してもらうとして。
小学館と原作者 VS 日テレと制作陣という対立構図のはずが、
原作者 VS 脚本家という個人の対立と捉えられ、「原作レイプ」などという過激な文言とともに脚本家への風当たりが強くなっている、、、のが現状か。
見つかった遺書には記してあるのかもしれないが、なぜ自死を選んでしまったのかは分からない。
圧力を勘繰る向き、無言の抗議と解釈するものも居るが、脚本家へのバッシングに責任を感じて…みたいなところがあるんじゃないか。とは思っている。
このあたりは推測の域を出ないので、これ以上は突っ込まない。
ただ連載中であったことから「原作に忠実に」「別の物語にはしないように」という要求を出し、それが悉く守られなかったことから最終前話と最終話を自ら脚本化する―という経緯があったことは事実。
あぁ、やりきれないなぁ。。。
自分の子どものようなもの。
だから原作者が改変を好まない傾向にあるのはたしかなところで。
しかし脚本家としてみれば、脚色にこそ「わが能力」を示すことが出来るやりがいが宿っているのであって、ただ原作をなぞらえるだけでは自分自身を表現することが出来ない。
そのせめぎ合いは、原作があるものを映像化するようになってから、ずっとずっと繰り広げられてきたこと。
完成品が発表されたあとも、延々と延々と揉めているケースもあるにはあるが、みんなどこかで折り合いをつけたりするもので、それっていうのはたぶん「充分な話し合い、あるいは喧嘩」によるものなのだろう。
コトの経過を追っていくと、この話し合い・喧嘩がきっちりなされていなかったことが分かる。
(最終話が経過したのちの)当人同士が交わらぬSNS投稿では、ガチンコの喧嘩なんか出来やしないんだ!!
ひとが死ぬくらいだったら。
たとえみっともなくとも、おとなの喧嘩のほうを見たかった。
ただただ、残念です。
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明日のコラムは・・・
『かーちゃん超えを果たします。。。 + 2024年01月コラムの目次』