じょしこうせ「い」→「い」のせんと(イノセント)
18歳から26歳くらいまで、映画の自主制作サークルを立ち上げていた。
現代のようなネット社会ではなかったので、雑誌の投稿ページで参加者を募ったりして。
市民ホールの小さな会議室を借りて、上映会なんかしたりして。
その過程で、沢山の映画監督志望に出会った。
上映会は、彼らの作品なども流して1日をかけておこなわれる。
彼らの大半は、大学か専門学校で映画術を学んだものたち。
しかし授業で「NG」とされている描写を多用していて、こだわりなくそういう描写を入れることが「いちばん嫌い」だった自分は、よく彼らと喧嘩をしたものである。
登場人物が交通事故に遭って、ドラマが動き出すという安易な展開であるとか。
すぐに近親相姦を持ち出したりとか。
そして、いちばん困るというか、「またか…」と思ったのが、「無垢なる存在」の登場。
innocent(イノセント)とは、簡単にいえば「純粋」「無垢」「純潔」「潔白」の意味。
AVのイメージ映像なら分かるが、年頃の女子が白いワンピース着て、ウサギかなんかのぬいぐるみを抱っこしている―そんな、安い描写を多用するひとが「ヘドが出るほど」多かったんだ。
分かるよ、そういうことしたくなる気持ち。
そういう恥ずかしい映像を創り、辱めを受けて(?)ひとは、大人になるのかもしれないし。
でもちょっと、安易に過ぎやしませんか? と。
無垢なる存在の描写は、ほんとうは、ひじょうに難しいはずで。
みながよく知っているキャラクターを挙げれば、それはやっぱりフォレスト・ガンプになるのだろう。
「あんた、バカなの?」
「バカなことをするひとがバカなんだって、ママがいってた」
ガンプは知能指数が低い、というキャラクター。
学校ではいじめられ、幼馴染みのジェニーとの初体験も失敗、しかしどういうわけか軍人としては優秀だった。
面白いというか、これが本作の優れたところなのだが・・・
ジェニーも、両足を失ったダン中尉も、ガンプのもとを去っては再び現れ、また去って現れる、、、ということを繰り返す。
どういうことかというと、
これは批評家ピーター・トラバースがいっていたことだが、あまりに純粋な存在を前にすると、我々は同じ場所に留まることが出来ない―らしい。
あぁなるほど。
もっとアケスケにいえば、汚れたウチらには、イノセントは眩し過ぎるということ。
すげー分かるな、この感覚。
『フォレスト・ガンプ』(94)は、じつはあんまり好きではないが、このことを踏まえた構造になっていたとするならば、映画としてはたいへんに優れていると思う。
黒澤の『白痴』(51)に登場する亀田(森雅之)も、イノセントなキャラクター。
265分の超大作として完成させたものの、松竹が大幅にカットし166分の短縮版が公開され、それを知った黒澤が「切りたいなら、フィルムを縦に切れ!!」と激怒した―そんな逸話が残る異様な傑作。
トム・ハンクスもそうだが、こういう映画を観ると俳優さんってすげぇな!! と思う。
森さん、ほんとうに(敢えてこう表現するが)少し頭が足りないようなひとに見えるんだもん。
『トト・ザ・ヒーロー』(91)で、全世界の映画小僧たちを歓喜させたジャコ・ヴァン・ドルマルによる『八日目』(97)。
こちらは主人公の相棒という形で、ダウン症の青年が登場する。
偽らざる本音をいえば。
プロによる映画でさえも、こういうキャラクターが登場したときに受け手「の何割か」は、構えてしまうというか、困惑してしまうというか、どう見ていいか分からなくなるもので。
そのくらい難しいキャラクター造形なんだもの、セミプロが安易に登場させたら火傷するよ、気をつけましょう。
次回のしりとりは・・・
いのせん「と」→「と」り。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『ボックスかソフトか』
18歳から26歳くらいまで、映画の自主制作サークルを立ち上げていた。
現代のようなネット社会ではなかったので、雑誌の投稿ページで参加者を募ったりして。
市民ホールの小さな会議室を借りて、上映会なんかしたりして。
その過程で、沢山の映画監督志望に出会った。
上映会は、彼らの作品なども流して1日をかけておこなわれる。
彼らの大半は、大学か専門学校で映画術を学んだものたち。
しかし授業で「NG」とされている描写を多用していて、こだわりなくそういう描写を入れることが「いちばん嫌い」だった自分は、よく彼らと喧嘩をしたものである。
登場人物が交通事故に遭って、ドラマが動き出すという安易な展開であるとか。
すぐに近親相姦を持ち出したりとか。
そして、いちばん困るというか、「またか…」と思ったのが、「無垢なる存在」の登場。
innocent(イノセント)とは、簡単にいえば「純粋」「無垢」「純潔」「潔白」の意味。
AVのイメージ映像なら分かるが、年頃の女子が白いワンピース着て、ウサギかなんかのぬいぐるみを抱っこしている―そんな、安い描写を多用するひとが「ヘドが出るほど」多かったんだ。
分かるよ、そういうことしたくなる気持ち。
そういう恥ずかしい映像を創り、辱めを受けて(?)ひとは、大人になるのかもしれないし。
でもちょっと、安易に過ぎやしませんか? と。
無垢なる存在の描写は、ほんとうは、ひじょうに難しいはずで。
みながよく知っているキャラクターを挙げれば、それはやっぱりフォレスト・ガンプになるのだろう。
「あんた、バカなの?」
「バカなことをするひとがバカなんだって、ママがいってた」
ガンプは知能指数が低い、というキャラクター。
学校ではいじめられ、幼馴染みのジェニーとの初体験も失敗、しかしどういうわけか軍人としては優秀だった。
面白いというか、これが本作の優れたところなのだが・・・
ジェニーも、両足を失ったダン中尉も、ガンプのもとを去っては再び現れ、また去って現れる、、、ということを繰り返す。
どういうことかというと、
これは批評家ピーター・トラバースがいっていたことだが、あまりに純粋な存在を前にすると、我々は同じ場所に留まることが出来ない―らしい。
あぁなるほど。
もっとアケスケにいえば、汚れたウチらには、イノセントは眩し過ぎるということ。
すげー分かるな、この感覚。
『フォレスト・ガンプ』(94)は、じつはあんまり好きではないが、このことを踏まえた構造になっていたとするならば、映画としてはたいへんに優れていると思う。
黒澤の『白痴』(51)に登場する亀田(森雅之)も、イノセントなキャラクター。
265分の超大作として完成させたものの、松竹が大幅にカットし166分の短縮版が公開され、それを知った黒澤が「切りたいなら、フィルムを縦に切れ!!」と激怒した―そんな逸話が残る異様な傑作。
トム・ハンクスもそうだが、こういう映画を観ると俳優さんってすげぇな!! と思う。
森さん、ほんとうに(敢えてこう表現するが)少し頭が足りないようなひとに見えるんだもん。
『トト・ザ・ヒーロー』(91)で、全世界の映画小僧たちを歓喜させたジャコ・ヴァン・ドルマルによる『八日目』(97)。
こちらは主人公の相棒という形で、ダウン症の青年が登場する。
偽らざる本音をいえば。
プロによる映画でさえも、こういうキャラクターが登場したときに受け手「の何割か」は、構えてしまうというか、困惑してしまうというか、どう見ていいか分からなくなるもので。
そのくらい難しいキャラクター造形なんだもの、セミプロが安易に登場させたら火傷するよ、気をつけましょう。
次回のしりとりは・・・
いのせん「と」→「と」り。
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明日のコラムは・・・
『ボックスかソフトか』