marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(247回目)ローマ人への手紙(15章1~6節)

2017-01-25 20:52:32 | 日記
聖書が世界のベストセラーといって、その中でも更にパウロのこの”ローマ人への手紙”は、筆頭すべての人が自分の言葉でイエスの言葉を会得する為になんども何度も読まれて、また研究されてきたものである。
16章で終わりですから、この15章は異邦人伝道の為の使徒とされたパウロの勧めの頂点ともいうべき内容ですね。
イエスを信じる群れとしての共同体を形成いくにわたしたちはどういう心構えでいなくてはいけないかを説く。隣り人の徳を高めよと。
◆わたしたちは、ひとりでの信仰というものはあり得るだろうが、最もふさわしいのは、この地上において、目には見えないがキリストのからだなるエクレシア(有機的共同体)の形成にあるわけです。それが進展して広がっていく。しかし、そこには内にも外にも見えないほころびが当然のごとく顕れてくる。さらにこれは後の手紙に多く顕れてくるがキリストの十字架の前には、みじんも障害とはならない。それが降りかかるときはキリストへふりかかったのと考えるのだ。とすれば、われらにかかるそしりはキリストにかかったのだ。キリストは死に勝利した。神の前に正しく生きようとする努力は、必ずしも罪人の世界では正当に報われるわけではない。(詩編69:9)この言葉の採用は、イエスの”宮きよめの箇所”(ヨハネ伝2:17)にもででくる言葉である。
◆パウロは、ここからいままでの書いてきたまとめに入っていきます。
(14:4)これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの救のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである
(14:5)どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ、
(14:6)こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせてくださるように。・・・

世界のベストセラーを読む(246回目)ローマ人への手紙(14章13~23節)

2017-01-24 18:17:05 | 日記
14章の最後までを読むと結局、食べ物のことであれやこれやの問題が、しかもかなり重大な事として問題化されていたことが理解されますね。それは、第一に”裁く”という行為によって旧来のユダヤ人達が優位性を持つという分離が起こってきた、否、起こるであろうこと。異邦人伝道の使徒としての召命を受けたパウロとしては、これは何としてもきちんと判断基準を明示しておかねばならない問題であったのですね。
◆パウロはまず自分はイエスにあってしっかり確信していると述べる。(キリスト者達が祈りの最後に「イエスキリストの名によって祈ります」の言葉を必ず言うのも同じ事となってくるのだが)イエスの名を語り述べるということは極端に言えば、それに命を掛けているということにもなる。何故といって、考えても見よ・・・先に述べたが2017年の現在も書店に行けば購入でき、読める哲学書、そのまさに知識人にはそれらが周知されていたであろうまっさかりの時代にパウロはイエスを伝えたのである。ひとりの人間が、人の理性に普段に語っても絶対に理解されず、見向きもされないであろうその内容に、その言葉に命をかけて語らなければ、誰が見向きをするものか・・・である。しかも、それに先行する先の時代にこれまたユダヤ人のデアスポラ(離散)があって、神の言葉を広めるための土台を神が作られたと考えたらどうだろう。その地域の土台には、それこそかたくなな神の民が、しかも神の言葉に生きているユダヤ人達が準備されていたというのであるとすれば・・・。その中でパウロは言う。(14:14)「わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。」(これは何でもかんでも口に入れても問題ないと言っているのでは当然ない。みんなが食べている物の中であれば良い、これは駄目というような規制すべき物は何もないということです。) ※僕なりに解釈すると、食物の事だけではなく、今も多くの不満や人への批判は自分で気づかぬ自己なりの思いこみで作ってしまっているものなのではないかということですね。
◆パウロの異邦人の為にもイエスは十字架に掛けられたのだということの軸のぶれは全くない。この軸からパウロはすべてを語る。つまるところ、これも先の回に書いた永遠の命からの視点である。十字架の神学、それを克服した復活の神学である。その目線からの常なる評価なのである。”この頂まで常に上れ、そこから見なさい”である。(14:1)「ただ、意見を批評する為であってはならない」と今の僕らのいかような事態にも考えられる言葉が冒頭に述べられている。
◆だから、後半の内容は食物の規制から、パウロは常にその高みからの視点で語りかけるのである。常に配慮を持ってすべてに分裂が起こることのないようにと奨励する。
(14:17)神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。(14:18)こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ人にも受け入れられるのである。(14:19)こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。※(14:17)神の国は朽ちていく肉体そのものの維持に関するあれこれではなく、「喜び」(これは肉の五感に訴えるものではない)にあるということですね。(大切なものは目にみえないだ!)
◆そして、最後に食物に関しての目の前の事実に対しては信仰によりすべてを行いなさいと締めくくられます。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(245回目)ローマ人への手紙(14章1~12節)

2017-01-23 22:28:20 | 日記
第14章に入りました。ローマ人への手紙は第16章までですからここでは実践倫理のような物言いでの佳境です。といっても実は何度も書くけど第12章あたりからはとても難しい内容ではなかろうか。それはパウロの勧めの言葉の中に、実践倫理ともなれば判断基準となるような言葉が多く出てくるからです。善と悪や例えばここに出てくる信仰の弱い人、強い人。その判断基準は何なのだろうかということ。今の僕らも読んでいて何とはなく分かる。けれども、当時のパウロの判断基準はそれはそれで、今も僕らの判断基準とは異なっていたのではないだろうか。第一にここにおいても「信仰から信仰に至らせる」(1:17)のローマ人への手紙の主題ともなる「信仰による義人は生きる」の言葉の深化が示されているのではなかろうか。
◆それは、イエスを知ること。復活されているイエスと共に今も生きることの理解といってもいいものだと思うがその理解は信仰の群れの維持においても個人の信仰の確立、成長の土台ともなるべきものであると言っていい。それがしっかりある者を信仰の強い人と言っているのであろうか。しかし、まずパウロが一つの勧めを強調する時は、その内容の背景があるということを理解することなのです。ここにおいては、他を裁く人々がいたということなのである。(14:4)「他人の僕(しもべ)をさばくあなたは一体何者であるか。」(14:10)「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。」また例えば、その言葉から普遍性を引き出すのは困難ではないかと書いた第13章1節から7節などは、実際にそのローマでの実際の自体に対する対処、考えを述べたものなのである。
◆先の回に戻ってしまうが第13章は、パウロの第一の目的を達成し前進していくのは当時の権威に逆らうのは、無駄な浪費を裂けるためであるから「この世と妥協してはならない」(12:1)としつつ、世の中の仕組みに適応して義務をなせ、そうでなければよけいな労力に第一の目的を果たすエネルギーをスポイルされるぞということが述べられているのである。
◆そしてまた、第14章のここに見られるパウロの論理の混乱とも思われ、ここの文章からだけでは前後のつじつまが合わず、よじれた書き方がされているのは具体的な実際にあった事件や困難に対しての具体的な勧めなのである。だから、おそらく当時の人々は、この日は何の日であるなどの旧約時代の食物規制が顔を出してきて、第一の目的の障害が生じて来ていたということなのである。
◆ここで僕らは、パウロの一つの大きく脱皮するような考えが示されていることが分かるのではなかろうか。そして、それは、イエスが来るまで読み継がれるであろうこのローマ人への手紙を、将来の人々がいついかなる国、いかなる時(時代)に読んでも、否定されず普遍性をもってくみ取れる考えであるといえるものである。それは、つまり、煎じ詰めて言えば、朽ちていく肉体を規制するようなことがらに束縛されてはならないし、束縛してもいけないということであるのだ。必要だと思う人はなせばいいし、そうでない人には強要してはいけない。人それぞれであるということ、こう書いたからといってむげにしている訳ではなくおのおのが大切に思うならばそれを大事にせよということなのである。
◆つまり、ここでパウロの一段上のイエスが来られるまでのと先に述べた総括が7節から12節まで書かれているのである。ここはそれまでの書いた内容から急にという感じでよじれた内容のように読み取れるが、そうではなく、結局、地上で生命ある僕らは生きているというこの肉体があって、それに付随するあれやこれやにも拘束されているのであるから、第一に思うべきは我々の命は必然的に地上においては死を迎えるのだということ、そして、我等のイエスへのかかわり、関わって頂いているその意味をよくよく覚えよということなのである。(14:9)読まれたし。
◆「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」(14:12)ここにaccountという言葉が出てくる。以前書きましたが Accountability という言葉が聖書から来ていると、どうかこの言葉だけでネット検索で出てきますので読まれてください。品質要求事項ISO要求では、リーダーシップに於ける説明責任と訳されています。今も生きている言葉なのです。・・・


世界のベストセラーを読む(244回目)脱線 ドナルド・トランプの神学

2017-01-22 18:54:19 | 日記
アメリカの大統領が、共和党のトランプ氏に。しかし、反対の暴動も今までに考えられないように起こっているというニュース。いずれ政治に疎い僕らにとっても理性も利益もないのではないかと思われる暴言と矛盾だらけと思うね彼の言動は。それにしてもどうしてこの人がなったという感じですね。選挙う~む、操作だなきっと。これからは国民投票といえどpcで集計していく限り、仕組みはどこまでも途中に人が介在しているわけだから、もっと上の世界政府の方たちが世界のあちらこちらをある方向に導いてそろそろ変化をと地球の行く末を実験をしているように僕などは思ってしまうな・・・。
◆ところで、岩波の「世界」1月号にこの日記の表題名で国際基督教大学教授(哲学・宗教学)の森本あんり氏の論文が載っていました。詳しくはそちらを読んで頂くとしてその抜粋を各表題ごとに簡単に書くと、
◇元祖「積極的思考」:17世紀に新天地を求めて渡ってきたピューリタン以来、アメリカのキリスト教史に一貫して流れる神学的な論理、「富と成功」である。
◇キリスト教の土着化:ヨーロッパ大陸からのキリスト教がアメリカに渡り、様変わり。アメリカン・ドリームを助長し、神が肯定しているからの繁栄供与と理屈付けが行われてきた。
◇勝ち組の論理:「勝ち組」の論理で「負け」を説明するには難しい。アメリカはそもそも負ける経験をしたことがない。負けるという不条理を経験することから本来の「神義論」が発達するのだがこれがない。
◇成功は目的か:もしアメリカがこれまで「偉大」だったとしたらそれは、国内だけでなく世界の正義や人権や民主主義といった目的理念を掲げていたからである。アメリカは目的を持つことで統一を作り出してきた国である。それがなくなればどのような国に成るのだろうか。
◇石が叫ぶ(「ルカによる福音書」19章40節) 「人々は反トランプのデモを行う。人が黙れば石が叫ぶであろう」と で締めくくり。
◆そもそも、僕らが中学の時、アメリカの自動車産業のメッカと教わったデトロイトはなぜ破産したのか。労働組合が強く、また経営者ももうけ第一で物作りに真摯に対応しなかったのだね。これなら人件費の易い国外へとなる。BMWもTOYOTAと共にたたかれたがBMW曰く「良い物を作れば売れるのである」というのは正論です。もう40数年前、某自動車メーカー三●自動車がクライスラーと提携し日本でアメ車を販売使用としたとき、異臭がするのでドアの内張はがしたらパンの食いかけが出てきたとか、ボンネットをあけると溶接部がまずくて手を切ったとことがあったと言うことを聞いた。とにかく、労働者の主張を飲んでもらおうと大変な労使のバトルがあって、それで品質が後手になったのだな。いずれ、国内に引き戻し雇用を確保するであれば、人の物つくりに対する質を相当上げないと結局、値段は高くなる、質は悪いで経済も低迷していくのではないだろうか。
◆つまり、信仰という事もそういうこと、生きて語りかける神に真摯向き合い、自分の言葉で語らないと(祈らないと)いけないとうことなのだねぇ。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(243回目)ローマ人への手紙(13章11~14節)

2017-01-21 20:26:37 | 日記
(13:11)なお、あなた方は時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、既にきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである
(13:12)夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
(13:13)そして、宴楽と泥酔(でいすい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
(13:14)あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
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◆(13:11)の言葉は、今、これを読む人々にも語りかけている言葉にもなります。イエス・キリストを信じることには、常に前進があります。聖書の言葉には、過去のこと、それを信じて死んでも守ろうとするような、僕らから見れば外界との接触が無かったが故に、当時はそれが外界よりすぐれていたが故に優位が保たれていたと見られるもの、それは民族律法としてあったが、歴史が下るににつれ外界との接触が時間の中で起こるにつれて、神の啓示の中で普遍律法として位置づけがあるものとして外界にも知られ優位をもつようになってきました。それを読むと今の僕らも開眼する訳です。例えば、紀元前で今も僕らが読めば開眼する想いにさせられるギリシャの哲学者プラトンなどの著作・・・こういう中で2017年今でもモーセが神から授かった「十戒」において、正直、どれが最後に残るものかと思えば、第一戒のみではなかろうか。何らのかたちで残り、その他の九戒は、多くの破れが見えているのが正直な所ではないだろうか。
◆その第一戒とは、「神のみを第一とせよ」であった。いきなり、異邦人が「神のみ」といわれても先理解の事項がないといかんともしがたい。その神とは天地創造から、選ばれた民族がエジプトを脱出するまでの働きと奇蹟を示した神ということです。第一戒、煎じ詰めれば、神の言葉は人間がつくったものではなく、それは神から与えられたものであるということになります。だから自己解釈で都合よく変えたりすることはできないものということです。これに命をかけて来ている訳です。さらにこれは、時代が経過するにつれ、いつかはこのままではパラダイスを知らない(死後の世界を知らない人間の)ままではなく、永遠の世界に生きるには、いずれ不完全な肉としてのこの身体からをも抜け出して(エクソダス)いくそのルート、法則が開示されたのであると・・・。
◆そこでパウロの言葉です。(13:11)「救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」とは、2016年11月21日の第182回の日記に書いたローマ人への手紙第1章17節「信仰に始まり信仰に至らせる」がここでも述べられていると僕は思うわけです。時間的経過の中で僕らは、イエスの霊、そして聖霊というものを聴かされたわけですから、それを受領すべく自分の肉体を整えねばなりませんということを勧めていると受け取れる訳ですね。だから、「この事を励まねばならない」とパウロは、今の僕らにも激励しているのです。今の僕らは、眠りからさめるべきときが既に来ているとは、イエスによってその法則が示されたのであるからと言うことですね・・・。
◆いずれ、この肉体の復活です。その障害としての肉体の快楽とも呼ばれる、つまりここでは自然な神が造られし規則、方法から不自然なものに変形させて、その逸脱を快楽としていると、霊と肉は相反するものであるから、この肉体に関するすべての欲情に肉体と思いがスポイルされてはならないと勧めをしているのです。・・・なぜなら、この肉体を持って僕らが復活に預かるときは霊的な肉体となっているわけだから地上での肉体的快楽があるとすれば、次の世では、欠けてところが多い霊的な肉体という事になる。だから、”イエスに出会うことがこの地上の目的であった”こととしてこの恵みから(クリスチャン用語)漏れないように励まねばなりませんよということになります。・・・Ω