marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(242回目)ローマ人への手紙(13章8~10節)そのⅡ疑問

2017-01-20 07:12:40 | 日記
聖書の中の言葉の意味について考えもせずそのまま読み過ごそうと思えば、イエスの言葉から派生してきた使徒の言葉とは言え、その時代的制約、その語る人間のそれまでの環境、性格、気質により、語ろうとする内容が実際は深い意味あいにおいて、受け取り、読む時代時代によって異なるのではないかと疑問が生じてくる、僕などは。
◆漫然と過ごし、雑念の中で自分の心の有り様を整えられないとき、そういうときは、少なくともほんの少しでもいいからこうして静かな時間をもとめるの。僕は、永遠不変の命の言葉をイエスは、また、使徒たちの手紙の中からの語りかけを思うのだが、これは時代制約があるのではないかとすんなり心に入ってこない言葉があるね。特に、使徒たちがその自分たちの生きていた時代にアッピールする言葉などを用いたときに・・・。すべての言葉に普遍性を求められないと思うのね。それは、時代、社会背景、その人の環境、生まれつきの境遇などによって、特に普遍的な言葉を使用するとき、その厳密な言葉の定義からはじめなくては、現代の僕らには一般的に受け入れられないということになる。だから、本当に良い気分にそして勇気を与えてくれるパウロの手紙の言葉においても、ただそれが気分に押し流されたり、情緒的に浮ついたりしては決していけないものだと・・・パウロの辛酸をなめて死ぬ思いまでしての苦労の上での十字架に貼り付けられきた思いの言葉であることを しかと受け止めておかないといけないということなのだな。
◆モーセが神から授かった「十戒」、前の4項は神に、あとの6項目は人に対してという戒めの言葉以降、抽象的観念的言葉も生じてきて、紀元前からギリシャには現代でも読める著作のある著名な哲学者が沢山いたわけだから、この中でパウロは当然、それらの言葉に接して、その言葉をも用いてイエスのことを宣教した訳だ。その世界に流布されて善きものはすべてを使う。その「十戒」以降に用いられる、人の群れの中での規定や心構えをその流布されていたであろう言葉で述べようとする文書に接する時、当時の意味合いでつまり解釈されていたであろう意味をくみ取って読まねばならないということになる訳だね。だから、僕が思うに、パウロの手紙にもその当時の信者に訴えるものと普遍的に後代に少しく調べても時代下って先にのべたこれまた今でもダントツ著名なアウグスティヌスは新プラトン主義の影響を受けていたと言われているから、まして、パウロはすべての道はローマに続くのあの大都市への、しかも最もおそらくすべての哲学者の話が流布されていてもおかしくないあのローマに向かっての第12章からの実践倫理のような内容の手紙であったわけだ。
◆どうしてこうくだくだと書くのか。それは、キリスト者はやはりいつの時代もこの肉体からの脱出を(それは次の神が保証してくれているパラダイスの世界へ)考慮してのこの世での生き方というものを自分自身の課題として生きていくということになると思うのだ。煎じ詰めるとこうだ。これは後の手紙でパウロが言っていることである。「私は日々、死んでいるのだ。私はキリストと共に十字架につけられた。もはや、私が生きているのではない。キリストがわたしの内で生きてるのだ。こうして日々、わたしが生きているのは、信仰によって生きているのである」と。
◆それは、一段とレベルアップされた、生来の肉として孤軍奮闘して克己する精進とは異なり、それらは死んで全く新しい霊的ルートに浮上してそれに併せて生きる、精進と言えば言えないこともないものだ。それが、パウロのアンビバレンツな言葉の中に現れているのだ。(ローマ 12:2)「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」(ローマ 13:1)「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。」(コリントⅠ 15:24)「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち(王)、すべての権威と権力を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。」(エペソ 6:12)「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(241回目)ローマ人への手紙(13章8~10節)

2017-01-18 19:54:02 | 日記
(13:8)互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は律法を全うするのである。(13:9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というこの言葉に帰する。(13:10)愛は隣人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである
    ***********************
◆他の箇所もそうなのであるが、パウロが書いた実践倫理ごとき手紙の奨めの言葉は、心もちいい思いにさせてくれるように思うが、実のところよく考えてみると、難しいことでもあり、また、留意しないといけないこともその奨めの言葉の中にはあって真摯に受け止めないと人間関係がこじれるようなことがらも含まれているのだなということが解るのね。僕などは、この手紙から2000年以上も経って、パウロが伝えた時代からかなりの時間がたち、彼の手紙の言葉から実に多くの人の心を、考えを紡ぎだす、哲学や心理学などが歴史上生まれてきたのだと思わされるだけれど、言葉の雰囲気に酔ったり、許しなさいとばかりに何か勘違いしてるんではないのとか思ったりすることがあるのだね。そういう緩みは、いつのまにか気づかぬうちに自分の都合のいい言葉に転落しているのであって、そういう烏合の衆から悪魔に隙を与えてしまうようなことになってしまうのだな。真摯に考えてきた人々は、多くいるのであってその人たちの学問は、神の業について(考えた人はそんなことは思わないだろうけれど)、いや、ニーチェやキェルケゴールなどは、もろに戦った人だけど、その他多くの人達の戦いも僕らには大いなる励みになっているのだと思うね。
◆さて、ここにきてどうしてこのようなことを書くのか。心にいい思いもパウロにはキリストの十字架と復活の希望が背後にしっかりあるからなのだね。それを信じての他者との交わり、神を信ずる共同体の群れについての心構えを述べていくのです。・・・ 

世界のベストセラーを読む(240回目)ローマ人への手紙(13章1節)注意したいところ

2017-01-17 22:50:22 | 日記
キリスト教が今や普遍的世界宗教となったとはいえ、また、この異邦人伝道者として立てられた使徒パウロの書いたローマ人への手紙がとても著名で研究されているとはいえ、2017年の今から見れば時代的制約があったことは否めない訳ですが、当然、当時は制約など無くまったくない中でのパウロの手紙であったということになるのです。
◆それは、パウロが語っている第13章のところです。ここでパウロは、その手紙を書いているその時を神がその状況を設定され動かされていると信じて書いているのです。
     **************************
(13:1)すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
     **************************
◆あれから2000年以上は経過しています。いろいろなことがキリスト教の歴史にもありました。生きている政治状況、経済的繁栄など、真実を書くとすれば、その時代を受け取って書くと言うことになるでしょう。パウロが生きて書いた時は、まさに第13章のこの節に書かれた通りを信じてもおかしい時代(時)ではなかったのです。(それは神がそう設定されたということに成るのでしょうけれど)
◆キリスト教の歴史と、使徒などの働き、また以降の伝道者や隠遁生活、修道院とかのあり方などを或程度知っている今の時代から見れば、どうして(12:2)で”あなたがたは、この世と妥協してはならない”と書きつつ、(13:1)で”上の権威に従うべきである”などとあえて書くのかが自己矛盾のように読めますが、しかし、それは今から読めばの話です。パウロは、(12:2)のように彼岸的な味方、終末論的な考えも当然ありましたが、第13章1から7節は今という時(その当時)に十分生き、動き、働かれている神を目で見て、さわって生きる現実、パックス・ロマーナの世界に適応できる考え、その具体的指針を身をもって提示した人だと言うことになるのだと思います。そのパウロもその後、上の権威によって殉教しました。プロテスタントはしたがって、上の権威についてはそれがキリスト教となのっても最も自分に語りかけるイエスの声を重視することとなるのです。”「いつも祈れ、絶えず喜べ、すべてのこと感謝せよ」”と生きている神に。
◆パウロはその時(時代)を十分に今生かせるチャンスを優先して活用すべく手紙に書いたのでした。ですから、僕らが注意すべきは当初の布教伝道時代、燃えに燃えていた時代の聖人像に、後世のの清貧、隠遁、修道院などのいろいろな宗教問題も抱えることとなった聖人像を重ねて同時に理解してはいけないということなのです。400年後の聖アウグスティヌスなどの時代とは全然異なる創世の時代にあたるのです。ローマ時代といっても紀元前からの長い歴史があります。先の塩野七生さんの本の後にもローマの年表が記載されてますが、パウロが活躍したこの時代は、ローマの帝政がアウグストゥス帝によって確立、パックス・ロマーナの活気のある興隆期の時代であった訳です。貧困、争乱のあった時代ではなく大変な事業だあったけれど宣教に励むにふさわしい時であったことです。
◆こような時代背景でなければ、パウロは地の果てスペイン(イスパニア)にまで行きたいと述べることはなかってでしょう。地中海一帯はローマ帝国の支配下にありましたから・・・。使徒言行禄にパウロが、聖霊によってマケドニア(ギリシャ)に伝道に導かれる場面がでてきます。ヘブライズム、ヘレニズムの中にもまれて、やがて、すべての道はローマに続くといわれたローマ帝国の宗教になっていき、アルプスをこえてゲルマン民族に手渡され、プロテスタントは太平洋を越えてやがて日本にくるのです。・・・ 

世界のベストセラーを読む(239回目)ローマ人への手紙(12章19~21節)

2017-01-17 21:30:06 | 日記
(12:19)愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主は言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。(12:20)むしろ、「もし、あなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。(12:21)悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
     **************************
◆キリスト者の実践倫理のような第12章以降には僕の好きな言葉が結構たくさんある。上の節もそう。僕がローマ人への手紙を一番初めに読んで心をひかれた所は、19節から21節でした。19節「復讐するは我にあり」これ文語だけど佐木隆三の小説にこの題名のがあったので印象がありましたね。
◇そこでちょっと告白、中学時代なんだけれど僕の好かない奴がいてね。学校で試験が終わって点数が付けられると、お前何点とったのかとその都度しつこく訊いてくる奴がいてね、少しでも訊いて自分の方が点数がいいと喜ぶんだね。勝った、勝ったという感じで。そのとき、そのままではいいこと無いぞとほんとに思ったものだ。神様見てるからねと。数年後、落ちぶれた彼のアルバイトしている姿を見かけたものだ、なにやら進学有名高校に入ったのはいいけれど、周囲が優秀すぎてか、自分が比較をする相手もなく高校をドロップアウトしたとかだった。些細な話だけれどこの箇所読むとそのときのことを思い出すの。
◆だから、いじめにあっている人たちいたら、どうぞこの神様を信じて欲しいなと思うのよ。気に入らない奴がいたらね。そいつの事を思って、こう念ずるの「神様、頼みます、あいつ好かないから・・・」、自分はめげないで生きている神様信じて生きてご覧なさい。そして数年後、そいつの噂をきくのさ。きっと、この神様の言葉を信じられるようになるからね。信じて神様に任せることだね。
     **************************
そして、自分は”悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。”を心がけて生きるのさ・・・数年後、他の人よりなぜか精神的にレベルがあがった自分を発見すると思うよ。イエスの神様は生きて、働いて、動いていることを実感できると思う。・・・ 

世界のベストセラーを読む(238回目)脱線 ローマ人へ20の質問(Ⅲ)塩野七生 

2017-01-16 20:16:57 | 日記
パウロが第12章に入り、急に現在でも真摯に唯一の神(歴史上言われてきた古びたキリスト教という意味合いでなくて、今あなたに真摯に語る、すべてのしがらみから解放されたあなたの口にある、あなたの心にある神)を思うならば、先のようなローマの時代にですね、パウロがどうして、このような手紙を心からのホットな手紙を書いたのかわかるような気がしませんか。パウロさんは、ユダヤ人でありながら今のトルコの南、地中海に面した都市タルソで生まれ、生まれつきローマの市民権を持っていた。これはパウロの宣教時、この権威は大いに役にたった。それでは・・・
     *****************************
◆質問11:ローマ法について
問)「どれほどローマを非難する人でも、法とは何かを明確にし、現代までつづく法治システムを創造したのがローマ人であることでは、意義を差し挟むことはできません。それで、当のローマ人は、法というものをどう考えていたのかを説明して欲しい。」→(ここで、ユダヤ人の十戒を上げて説明)結論づけて言えば、「ローマ文明とキリスト教文明の本質的な差異は、多神教と一神教の差異にあると考えます。法律に話を戻すとユダヤの法とローマの法の最大のちがいは、神がつくったか、それとも人間がつくったかにあります。つまり、神がつくったがゆえに絶対に変えてはならないユダヤの法と、人間の作になるがゆえに、不適当となれば改めるのが当然とされているローマ法の違いです。言い換えれば、法に人間を合わせるユダヤ的な考えと、人間に法を合わせるローマ的考えの違いなのです。」(p110)
「歴史の検証を生涯の仕事とした以上、民族と法の関連に想いをめぐらせないではすまないのです。それに人間は、行為の正し手なしには社会が成りたたない生き物でもある。それを何に求めたかは、その民族の鍵になりうるではないか。古代の三大民族ならば、次のようになります。人間の行為の正し手を、宗教にもとめたユダヤ人。哲学にもとめたギリシャ人。法律にもとめたローマ人。
宗教には共にしない人々には通用しない限界がある。哲学も限界がある。知的議論などその日暮らしのアテネ住民には知ったことではなかった。法律は宗教にも、知的関心の有無にも関係なく、多種多様民族であったから共に生きていくルールにすぎなかった。しかし、それだからこそ普遍妥当性をもてるのであって、法律くらい、普遍帝国を作ったローマ人にふさわしい創造物もない。」(p114)
◆その後で、日本の憲法改正についての見解についても問われ、意見を述べておりますが、話がさらに脱線しますので以降は立ち読みで。
古代にはキリスト教は入らない訳で、それだからこそ、僕が思うに前述の三大民族の正し手といわれていることを、個人の自由を表明して宗教たらしめてたのがキリスト教ということにならないだろうか。(今は、イエスの言葉は宗教というしがらみの枠からも解放されつつあると思う)パウロはローマで殉教し、その後のずっと後に・・・、
「紀元528年になって、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによる『ローマ法大全』の編纂が始まります。この時代には西ローマ帝国は既に滅亡し、東ローマ帝国はキリスト教の帝国でローマ人は存在していなかったのです。多民族からなる帝国に、ローマ法の有用性は認めざるを得なかったから。この『ローマ法大全』は次の一文で始まります。-----われらが主、イエス・キリストの名において----
ローマ人によって打ち立てられた法の精神は、良しとなれば敵のものでも模倣することを恥じなかったローマ人と似ていなくもないキリスト教の柔軟性のおかげで、現代まで受け継がれることになったのでした。」(p112)
     *****************************
このようなローマの時代背景をよくよく思い浮かべて、パウロのローマ人への手紙、特に12章以降を読んで欲しいと思う。その時代、パウロはどうしてあのような、実践倫理ごとくの内容も特に13章あたりはよく理解できるのではないだろうか。・・・Ω