marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(270回目)信仰とは生きることである(M・ルターについて)

2017-02-23 18:27:39 | 聖書・聖句
 信仰とは生きることである神を信じることによって支えられて、人間として生き抜くことである。少し難しく言うなら、神について語ること、すなわち神学は、神だけについて語ることについて終始するのではなくて、必然的に人間について語ることを含んでいる。その意味でルターの信仰と神学の営みの中では、人間が大きな主題のひとつであった。
 神について知ることは、この神の前での人間について冷めた眼で知ることである。その意味でルターは人間について、深い洞察をもつことができたのだと言うべきだろう。人間の現実、ありのままの姿を、おおい、包み隠してしまうことなく、冷静に深刻に見つめ、とらえたのだった。すべての人間は生来、神なき人間であるが、そのような神なき人間の姿をその罪の深みでとらえた深刻な理解は、他に例を見ないであろう。「すべきである」という神の命令は、なによりもまず「することができない」人間の実態をあらわにすると考えるのである。このようなルターの人間観を、ペシミスティックな人間観と受け取る者もあろう。
 しかし、ルターには、福音そのもののもつ逆転がある。神について知ることは、神の恵みについて知ることだからである。聖書が「すべし」を語るとき、人は自らの無能力、いや、その逆をする罪の実態を示される。しかし、聖書は第二の言葉、より決定的な言葉、福音を告げるのである。「あんたの罪は許された」ということである。「私はあなたを、そのあるがままの姿で、キリストの故に受け入れた。あなたは今は私に属するものになったのだ」という神の宣言である。神の恵みについて知る者は限りなく深く、オプティミスティックである。ルターがキリスト者について語るとき、そのような明るさがある。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)は小冊ではあるが、ルターの人間観、それゆえその背後にある神理解を鋭く明らかにしている。
 だが、ルターは単純に、人間の現実を直視しないでオプティミスティックなのではない。『キリスト教的人間の自由』(キリスト者の自由)の中でも論理的に美しく整わない一部があるのはそのためである。キリスト者が理想的人間であって、一度そうなればもうその状態にあって、安泰であるとは、ルターは思わなかったからである。そういう安泰をルターは「人間的な確かさ(ゼクリタス)」と呼んだ。人間が自分の手で打ち立てて確保する「安全保障」である。そうではなくて、人間の実態は、キリスト者であっても、たえず新たにキリスト者になっていくことの必要を、ルターは真剣に考えていた。95箇条の第一条の主旨と同様である。この地上で生きる限り、キリスト者は自動的に理想的人間の軌道を走りうるということはない。キリスト者がたえず新たにキリスト者になろうとすれば、一方ではたえずキリストの恵みに帰ることが必要であり、他方ではそれに支えられて、自らを訓練し、節制することが必要だった
 ルターの人間理解を把握するためには、彼の言う「試練」を理解するべきであろう。それは、神によってひき起こされる、人間の実存的危機というように言ってよいだろうか。キリスト者であることは、そのような「試練」の中に身を置き、そのような「試練」を突破していくことである。「試練」はルターにとって、生涯をとおして、概念ではなくて、信仰の体験であった。試練と試練の突破の中で、キリストに大胆に賭けていく生を、彼自身生きた。それゆえにこそ、そうした内容をもった著作も、魂に慰めを与える書簡も書くことができた。キリスト教的人間について語るルターを、完全な理想的な聖人のひとりと想像するならルターははげしくそれを拒絶するであろう。苦悶し、破れ、試練にあえいだ者でありながら、それにもかかわらず、それを越えて、神の恵みの確かさに賭けた生身の人間が著作の背後に見てとれるのである
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p114)・・・ Ω 
 

世界のベストセラーを読む(269回目)ローマ書講義 Ⅴ 「信仰義認」(M・ルター)

2017-02-21 18:25:49 | 日記
◆キリスト教における(パウロにおける)信仰とは、地における人間の下から上(神)への信じて仰ぐばかりの行為ではなく、その行為は神(上)から下(人間)への行為(キリストの事実、聖霊としての今も現存するという行為)でもあり一体となっているものであるということになります。したがって、信仰を持つとは、その人間が(無意識であろうけれど)そもそもが神の行為と一体となることであるとなります。これは、キリスト教(僕個人的には宗教ジャンルの一つに分類されるようなこの言い方を好ましく思わないのですが)が他の宗教と断然に異なるところだと強調しておかなくてはなりません。それは、第一のやはり、イエスが地上に人の形をとって来られたという事実につきるように思います。神と人が一体となるところ・・・ 従って、「信仰義認」とは、神が人に対しての承認と同時に神ご自身がご自身に対して存在証明なる事実の言葉でもあるのです。「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる」(ローマ 1:17)ここに極まれりです。
◆パウロは言います。「生きることはキリスト。死もまた益なり」「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない。キリストが私の内にあって生きるのである。私が今このように生きているのは信仰によって生きているのである」と。この言葉は、パウロの人生上の究極のことばであったろう。
◆神が地上に人間を創造した時、神は非常に喜ばれた。しかし、その後、離反する。地上の人は、犠牲を捧げて神に許しを請う。長い歴史を通して、神はその犠牲に自分の独り子を地上に遣わされた。滅び行く地球からの人類の脱出、すべての障害、人間一人一人の中にある障害をも含めて、彼はすべてのそれらを担って父の元に帰って行かれた。聖霊を送り、信ずる者に声を今もかけられている。それは、独り一人の内なる霊に。罪の払う値は死なり。死はすべての人は必然のこと。彼を信ずる者は、肉体がこの地上で死んでもかの世で永遠に生きると。
◆歴史の中で確かに、たくさんの宗教組織がキリスト教に生まれ、多くの人から誤解や嫌気や確かに歴史において人間は失敗も犯してきました。しかし、今やひとりひとりが自分に語りかける神の声に帰る時だと思います。
◇ここまで来て、以上のようにキリスト教の信仰とは、他の宗教で普通言われる「信仰」と言われるものと異なるのではないかと思われきました。それは、言葉を発する際のその人の先理解の内面を考える際に、おそらく普段の何気ない会話「客観的対象について情報を伝達する言葉」と呼ばれる以外の言葉の要求がキリスト教において求めらているように思われるからです。それは、例えば、聖書を読むとか祈りをするとかの場合です。何とはなくとか、お題目を唱えるとかということは、キリスト教ではまずあり得ないからです。自分が常に確認されるのです。プロテスタントの場合の祈りは、自分の今の言葉を要求するからです。それは、何も困難なことではあません。普段、生活でいいのす。そこに「信仰」あるのです。
◇僕がいつも励まされる言葉:復活した朝にイエスがいなくなった墓の前で主の使い(マルコでは若者となっている)が、こういうところ。
 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』(マタイ28:7、マルコ16:7)
 福音はガリラヤから始まった。弟子たちが漁をする普段の日常生活のあった場所から始まったのです。復活したイエスには、そこで会えると言っているのです。それは、今日も私、そしてあなたのいるその場所・・・ 

世界のベストセラーを読む(268回目)ローマ書講義 「信仰義認」(M・ルター)Ⅳ

2017-02-20 20:44:25 | 日記
今回はとてもむずい(難しい)ので、神学などに興味のある方のみ読まれることを推奨します。たいそうなことは書いておりませんが(このような言い回しをするとその道の方からすごく怒られそうですが)問題箇所としてはとても重要なのです。
◆ルターさんが「信仰義認」を開眼したローマ人への手紙第1章17節。口語訳は次の通りでした。
     ******************************
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてある通りである。」
     ******************************
◆聖書が理解困難であるのは、書かれている言葉自体が、対象物を指示する誰しもが明確にわかる指示言語、あるいは共有化された対象物を示す言葉でないことです。それに対して宗教で語られる言葉は観念言語というか、分かってわからないような言葉が使われており、パウロさんのこの箇所は、特にわかってわからないような箇所のように思われるのですね。ペテロさんが自分の手紙の中で、「パウロの手紙はよく分からないところがあるけれども」(ペテロの第二の手紙第3章15-16節)と言っているのは、重要なこの箇所のことも指しているかもしれません。
◆聖書を読むと時折「こう書いてある」とか「こう言っている」とかの記事が見られますが引照のある聖書では、見開き中央の小さな文字を見ると聖書のどの箇所から引照されているかが分かります。ところがその箇所を見るとそのままの引用でないところもありますね。それがまさに引用者(記者)の解釈によるものでしょう。で、この箇所「信仰による義人は生きる」と書かれているのは、旧約聖書のハバクク書(2章4節)に書かれていますが、まさにこの箇所もそのままではないのです。「しかし、義人は彼の信仰によって生きる」となっています。旧約のハバクク書では「義人」が条件としてすでに規定されている、その人は「信仰によって」・・・となっているのです。それを、パウロは「イエスがその業を示したからには、その『信仰による人は義人となり生きる』であろう」と読めるのです。
◆僕のブログを読まれてきた方は昨年2016年11月22日(183回目)の神学者K・バルトさんがこの節の「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる(これはギリシャ語で実際にこうなっている)」を「真実から信仰に至らせる」と訳していたのを、偉そうに「違うんではないか」と書いたのです。どうしてバルトさんはそう訳したのだろうとそれを僕はずっと考えてきた訳。ところがです・・・調べていくと
◇旧約原典はヘブル語ですが、古い旧約聖書のギリシャ語(70人訳といってとても有名)訳ではハバクク書のその箇所は「しかし、義人は私の(神の)信実〔ピスティス〕によって生きる」となっていると言うのです。つまり、彼(人)と神がひっくりかえっていると・・・”神を見上げる信仰(ピスティス)による人”と”神が上から与える信実(ピスティス)”に逆転があるということ。パウロはこれを知っていたはずです。つまり、後者の神が上から与える信実(ピスティス)とは、キリストのことなのだと解釈されるのです。その彼が地上に与えられることによって義人は生きるであろうと解釈したに違いないのです。 (これは僕の解釈だけれど・・・)
◆パウロは、その中の前半の旧約聖書のヘブル語での言葉「彼の」と後半のギリシャ語での「神の」のいずれの言葉も消したのです。『信仰による義人は生きる』・・・それは下から、上から一体のものであるとパウロは解釈したに違いない。そこには、パウロを生かしめていたキリストが同時に働かれた言葉であると思います。そうすればバルトの「真実から信仰へ至らせる」の「真実」とは「神が地上へキリストを送ってくださった」その「真実」ということになるだろうと。僕は当初「信仰に始まり信仰へ」を時間的経緯での旧約から新約への神を知ること、新約においては信ずることの神の言葉への深まりとして理解していたのですが、パウロの中には圧倒的にキリストがその中で生きて働いて信ずる誰にでも当てはまる言葉に残したのだと、そう僕は信ずることにしたのです。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(267回目)ローマ書講義 「信仰義認」(M・ルター)Ⅲ

2017-02-19 19:57:44 | 日記
今回はいきなりM・ルターさんのローマ書講義56・169-172を書きます。数値は先の回に述べたとおりですのでワイマール版ルター全集の巻とページ。前回の続きに掲載されている箇所です。ルーターさんはヴィッテンベルグ大学の神学教授でもありましたから膨大な著作がありますが、特にこの異邦人伝道の使徒パウロの著した「ローマ人への手紙」は、20世紀最大の神学者、K・バルトさんの「ローマ書講義」は今でもこれだけで特に有名ですし、また多くの神学者が取り組んで来ました。なぜならキリスト教の開祖、パウロの神学論文というようなものでもありますし、特に宗教改革者M・ルターがそのプロテスタントの要ともなる「信仰義認」がこの箇所には著されているからです。それでは・・・、
     ******************************  
◆神の義が啓示されている〔第1章17節〕
「人間の教えにおいては、人間の義が、すなわち、誰がどのようにして自分に対しても人々の前でも義であり、義となるかということが示され、教えられる。しかし、神の義(すなわち、だれがどのように神のみまえで義であり、義となるかということ)は、ただ福音において、神の言葉を信じる信仰のみによって啓示される。マルコ福音書の最後の章に「信じて洗礼を受ける者は救われる。信じない者は罪に定められる」〔16:16〕とあるとおりである。つまり、神の義は救いの根拠である。ここでもまた、「神の義」とは、それによって神ご自身が、ご自身において義でありたもう義ではなくて、それによって私たちが神ご自身から義とされるような義として、理解されるべきである。このことは福音を信じる信仰によって生じるのである。ところで聖アウグスティヌスも『霊と文字について』第11章で「神の義とは、神が義を分かち与えて義なる人を造ることを言う。同じく、主の救いとは、それによって主が救われる人を造ることである」と言っている。また、同じ書の第九章でも同じことを言っている。そこでは、種々の行いをもって成り立つ人間の義と神の義との違いが語られている。行いによって成り立つ人間の義については、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第三巻で明らかにしているが、彼によれば、義は行いの後に続き、行いから生じるものである。しかし、神によれば、義は行いに先行し、行いは義から生じるものである。」訳は徳善義和(日本ルーテル神学大学)
     ******************************
◇パウロの「ローマ人への手紙」を読んできて、特に今から500年前1517年10月31日(現在、この月日は宗教改革記念日となっています)が宗教改革の開祖、M・ルターが「信仰義認」の言葉を会得して開眼した箇所です。「信仰義認」の教理はまさに教会がそれによって、立ちもし倒れもする条項だと言ったとおりのことです。さて、第1章17節については、以前にK・バルトさんのところに書きましたが改めて次回書こうと思います。
◆ところで、ルターの先の文章を列車にまだ乗り込んでいない人々にどのように説明しようかと考え、僕なりの「例え」を書きたいと思います。(よい例ではありませんが)例えば、ラジオの電波は目には見えませんが、空中を多くの周波数の電波が飛んでいます。僕らの世界の放送局はわかりますが、例えとして神からの特殊な周波数の電波がすべてのものに注がれていると考えます。信仰するとは父なる神からの周波数に対してきちんと波長を合わせること、チューニングする行為と考えてはどうでしょうか。波長を合わせると神の声がよく聞こえるようになる。うまく合わせられないと雑音が大変入ってきますね。つまり、そのよく聞こえてくるとその人が内側から変えられてくる。それが”神の言葉を信じる信仰のみによって啓示される”ということになるという「例え」です。つまり、外側を整えても波長は芯までは届かない、その人の第一なる「信仰により」波長が合わせられるので内心まで波長が届き、神の言葉がきちんと届くことによって、それが外側に反映されてくるのが正しいあり方で、信仰が大優先、そのような手順をとるのである、との解釈です。・・・ 

世界のベストセラーを読む(266回目)ローマ書講義 56・169-172(M・ルター)Ⅱ

2017-02-18 11:05:14 | 日記
M・ルターを読もうとすれば、全く先の回から言えば、信仰という列車のそちら側に乗り込んだ人達の話になって、まだ、乗り込んでいない人は、違和感を持つか、我関係なしと思われる方もいらっしゃるであろう。けれども、聖書の学びはアメリカがくしゃみをすれば日本は風邪を引くと昔、言われてましたが、今は全世界が風邪を引くようになってしまって、昨今は特にひどい症状になるのではないかと言われますね。こういうことが、何を信ずるかはともかく世界の動きを推察することができるように思われます。
◆アメリカ経済、政治動向、それから世界の動きなども今では聖書を学べば、そちらに乗り込む、乗り込まない如何に関わらず、自分を知ることと、人間を知ることと、世界の歴史を推察することと、それから仕事のこと、そして大切な死んでからのことなど(これは飛躍ですけれど)知ることができるように思われます。前回に述べたことは漫然と書いたようで自画自賛ではありませんが異邦人の僕らにとって、まったくキリスト教は外国の宗教と思っておられる方について、ふと、自分の言葉で考えて見ようと思われてた方には大切なことであると認識していただいてかじりついていただければと思っています
◆そこで、世界の動きには興味がないと言われても、あなたの日常の生活に影響を与えているのですと言われれば、よい意味でとられる方は少ないとは思いますが、日本と言わず、世界のそれぞれの国は自国だけでは豊かな生活で延命できないのは、明らかなことなのですから、聖書の影響の歴史などを学んでいただければ、人間社会のあらゆるジャンルに影響を与えてきたと言えることが理解されると思われます。そして今や、その宗教牲の脱色までが言われています。それはある人々から言わせれば、天地創造の父なる神が今や直接に人類社会の宗教生という組織体を越えて(浸透してといたらいいか)直接に、いかなる地上の人々にも求める人に直接の語りかけを開始し始めたのだ言うことになります。さて、M・ルターのロマ書講義の第1章16節から、当然、そちら側の方ですから難しい言い回しですが・・・
◆福音は神の力である。(ローマ書第1章16節)
「注目すべきは、この箇所で「力」とは(潜在的な)力また能力、一般にmuglickeit可能性と解されているものと同じものと理解されていることである。「神の力」とは、それによって神ご自身が、ご自身において実質的に力があるというものではなくて、それによって神ご自身が能力ある者、力ある者を造り出すものである。「神の賜物」、「神の造りたもうもの」「神のこと」と言われているのと同様に、「神の力」について言われる(つまり、神からくる能力なのである)。〔・・・・・〕
 次に注目すべきは、「神の力」は人間の力と区別されていることである。人間の力とは、それによって人間が力あるものとなり、肉に従って救われ、肉に属することをなしうるようになる能力である。しかし神は、ご自分の力を与えるために、キリストの十字架によって人間のこの力をまったく無効にされた。この神の力によってこそ霊は強くなり、救われ、れにに属することをなしうるようになるのである。」
◆(これ以降は僕の見解):1月22日(244回目)に書いたアメリカの大統領トランプさんの神学によれば、神の力の結果が実際的にこの実を持って体験しなければ(この地上において今・・・実現しなければ)何を言ってもそれが証明されたとは言えないだろうよということになる。アメリカの神学はこのように変質してきて実際的なものになってきたのです。中世の宗教改革者にして神学者、M・ルターの講義内容も今の僕らにとっては抽象的概念のようだけれど、トランプ氏も神の与えたもう能力なのさ、そもそも大統領になったこと自体・・・などと始まるといかようにも自己肯定ができる訳なのである。だから、詰まるところこの人間社会の3次元事象での肉においても我々は身をもて戦いを始めなければいけないのです。それで、列車の中にいる人々はどういう目的地へ向かう列車なのかということをしっかり見据えているのです。・・・