marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(835回) (その33)絶版にしてはならない、井筒俊彦著「意識と本質」

2021-03-24 07:22:03 | 小説

 <(その33)としての余談>(2014年3月第33刷)なので相当読まれのだろうけれど、こいういう内容なものが読まれているのはこの日本は滅びないぞ!と本当に思ってしまう。これはカテゴリー小説ではなく”思想・哲学”になるかと思うが、哲学や宗教に係わる人で言葉で思考、議論しようとされる方の必読の書ではないかと思う。10年ほど前に購入したが、文庫で出版され容易に手にはいるようになったことが嬉しい。全集として当然、そのまま読んでも何やらだろうが、哲学のように前理解としての知識がないと、何のことやらであろうけれど、イスラム教の大家であるし、語学万能のあった方で副題が”精神的東洋を索めて”とあるので、まさに僕が語ってきた”その方面”をストレートに初めに当然のように語っており、その意味合いを言葉で考察していると思われたのである。◆これは、本来、あの批評家も文学や批評をとおして、つまり文字と言葉を求めて、人としての核となるような普遍的な精神性を追求すること、その方向だろうと。大江が(〔A〕6章 引用には力がある)のp107に井筒が訳した『コーラン』を引用していたので、これも気になったところだった。井筒を引用なら、彼の著作の原動力となっている、この『意味と本質』の書いた動機を思わなければならないだろう。それはあの批評家が述べ、僕が”その方面”と書いてきたものでもあると思う。***「経験界で出会うあらゆる事物、あらゆる事象について、その『本質』を捉えようとする、殆ど本能的とでも言っていいような内的性向が人間、誰にでもある。これを本質追求とか本質探求とかいうと、ことごとしくなって、何か特別のことでもあるかのように響くけれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の『本質』認知の上に立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中にそれの最も基本的な部分として組み込まれている。」(「意識と本質Ⅰ」<p8>)***◆それは内面の基軸<G>である。しかし、大江はその内面には向かわず破壊するように思考が外へ向かったと思う。


世界のベストセラーを読む(834回) (その32)ニーチェ:「ツァラトゥストラはかく語りき」

2021-03-22 09:11:12 | 小説

(その32)として余談>・・・◆ニーチェが著した「神は死んだ」「善悪の彼岸」「ツァラトゥストラはかく語りき」etc・・・などを読めば、彼が肉体を賛美したことは、当時のキリスト教を背景にしたものだったことが理解されるはずである。相手にされることがなくても、どうしても書かねばならない動機があり、牧師の息子でもあり、非常に優秀で若くして大学教授までなって、当時の社会に大いに悩みを抱えていた時代背景に最後は狂ってしまうのだが、我らは今でも普遍的にも感動的な啓示をうけるのは、僕にしてみれば、その表現の「異化」よりも「人が霊を持つという異界」に触れていたからであろうと思う。その苦悩を思えば、彼が悩み、神の言葉を引き下ろし満足する人と言う生き物は何なのか?観念的に救済の空論として上ばかり見ている人という生き物は何様なのか?彼は大いに悩んだ。”神は死んだ”のだ、と。この地上の肉体に試練の中にも我々が力強く生き、権力志向、超人を求めたのは故の無いことでは決してなかった。これに近いことをにおわせているのは大江も〔A〕(四章 詩人たちに導かれて<p77>)にも書いていることでもある。◆こういう時代背景とニーチェの苦悩を知り、若いころに見た映画、アサー・C・クラークの”2001年宇宙の旅”に出てくるモノリス(時間の壁であろうと思われる)が現れるバックミュージックのR・シュトラウスのツァラトゥストラをyoutubeでも聞いてみて欲しい。サラウンドなどお持ちの方は、大音量で聞いて欲しい。歳をとった僕などは涙腺が緩んでしかたがない。批評家小林秀雄が言っている危険とは、そういう背景は表面的なつまみ食い的な読みからは決してその深層に触れることができない、と言っているのである。


世界のベストセラーを読む(833回) (その31)僕が求めてきたのはその方面への個人の核(芯)

2021-03-22 07:16:33 | 小説

<(その31)としての余談>。人と言う生き物は、無神論と表明してもそれは所詮無理なのだ。ここで突然にそもそもの判断既定としての人の言葉についての話にのめり込む。それは、伝言するという機械的な言葉から、コンピュータ言語の(0・1)などのマシン言語でもいいのだが、無論それを越えたものであるのだから。哲学は、その言葉の厳密さをも追求してきた。科学(経済でも)ではマクロからミクロという言葉があるように言語学では、論理哲学のウットゲン・シュタインのそれは記号までいくか、戦う言語学者チョムスキーの言語学まで行きつく。それは僕が半世紀前に思ったことだから今はもっと進化している内容だろうけれど。それは有機的なそれが醸し出している人と言う生き物の磁場というものさえ削いでいく。しかし、その学問の動機は、心情的に推測するなら、人とは何か、言葉によって共有化が図られれば、相手との相違も理解でき、より平和になるのではないかとすべてこの地上に住む人に係わるものなのだと僕は考えたい。◆自信を語るには、成熟が必要で、あちこちつまみ食いをするには危険でさえあると解釈できる批評家小林秀雄の言葉は、理解できるところである。自己を知るには成熟が必要な、その自己を知る「核」を求めるということが、もともと僕がこのブログで求めてきたことでもある。で、その危険性がどこにあるかと言えば、その例を示したい。また、大江さん出番。***〔B〕(4章 基本的な手法としての「異化」(二)<p4>)「ニーチェの遺稿の中の、肉体を方法として尊重する言葉のうち、次のような「異化」の働きを考える上でヒントを与える。《本質的なことは、肉体から出発し、肉体を手引きとして利用することである。・・・肉体を信ずることは、精神を信ずることよりもずっとしっかりした根拠がある》(白水社全集版)文学において、精神や魂に関わることを表現する時には、ものを提示するわけにはゆかない。ただ、言葉しか頼りにすることができない。その際、ずっとしっかりした根拠をもとめるために、僕らは肉体的なものを言葉につき合わせる仕方で、表現を確実にしようとする。そのような仕方で、「異化」を行うのである。」***◆書かれた文字からどのようなインスピレーションを受け活用しようとも構わないだろうが、ニーチェが聴いたらくしゃみするかもしれない。・・・・


世界のベストセラーを読む(832回) (その30)⑩新しい書手へ・・・「最後の小説」

2021-03-21 19:54:14 | 小説

◆「新しい文学のために」〔B〕の結論ともなる、「15章 新しい書手へ(一)」の中にも引用を用いて大江は解説しているのだが、『建築文化』(彰国社版)建築家原広司の世界観と建築理論の要約が、文学を作り出そうとするこれからの若者への活性化の言葉となると紹介している。そして、最後の16章 新しい書手へ(二)には、欧米の「核の冬」を憂えるというジョージ・ケナンの文書をひきつつ、ようやく僕があいまいとして書いてきた大江健三郎の「その方面に向かっていく」内面の在り方が書かれているのである。***◆「・・・僕ら無信仰の者らは、何らかの宗教の伝統の中で祈る人々に学ぶべきではないか?・・・アジア、日本にも現に生きる伝統としてキリスト教の信仰はある。仏教についてはなおさらである。・・今日の日本人が―若い人たちをも含めて、むしろ彼らを中核においてー「核の冬」ではなく、「生命の春」の明日に向けての祈りの態度をつよく保ちうるように、無信者の者にも有効な基盤を求めたい。そして僕はその基盤こそがヒロシマ・ナガサキの日本人の経験だと考えるのである。・・・「最後の小説」・・人間らしい威厳・再生への希望について総ぐるみ表現するものとしたい。それをつうじてこの大きい祈りに自分の声を合わせるようにしたい。・・・障害のある息子との新しい苦しみとともに、ヒロシマの被爆者たちのーすでに多くの死者たちであるー懐かしい声への答えともしたい。それは僕の文学というより、このように生きてきた自分の生の結論ともなるだろう。」(〔B〕p217-218)***◆いずれいかなる人も、地上の命を終え、必然的に次の世界に行かねばならないのだ。グローバル世界となっても、自滅する行為をなぜ人は、是認しているのかという絶望は、気づけば世界いたるところに蔓延している。人間とはなにか、神に創造されたと言われる世界と人は何なのか、どうすればいいのか、あからさまに言葉にできなくても、文学はそういうものを人類がこの地上に生存して言葉を持ち続ける限り追求していかなくてはならないと思うのである。ノンキ坊主の若いころに大いに脳みそをゆすぶってくれた、そしてその後、ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんへの偉ぶった批評は、まだ書きたいことはたくさんあるけれどこれで終わろうと思います。名前は時折、顔出すでしょうけれど・・・。


世界のベストセラーを読む(831回) (その29)⑨「自己を知るには成熟する必要がある」

2021-03-21 18:54:36 | 小説

〔B〕(「2章 様々なレヴェルにおいて」<p23>)の中には、多くのレヴェルという言葉が出てくる。糧の為に仕事で”ものつくり”に関わることができた僕にとっては、言葉の定義を定めない、これもばら撒きのようなこのレヴェルという言葉も何故か気に掛かってくる。一つの言葉のレヴェル、ひとかたまりの文章のレヴェル、人物のレヴェル、主題のレヴェル、全体のレヴェル・・・。見定められた領域での段階のステージという言葉と違っても、定義の書かれていない”レヴェル”ということばの使い方は、これでいいのだろうか? レヴェルという言葉は、その中でも細かな段階がつけられてからの用い方のように思うのだが。◆欧米のできあがった作品からの「異化」という小説の手法を聞き取ろうとすることは、そもそも引用する作品の、作家の本来のその意識までは入り込まず、完成品からのスタートだと大江は受け取っているのである、このこと自体が「異化」の手法を述べたシクロフスキーの語っている主旨〔A〕(p87)とは観点が違っているのではないかと思うのだが。だからというか、あらゆる引用の紹介は僕らにとっては、知識が増し、感謝なことではあるけれども、頭は冴えたとしても胃袋に吸収されてこないのだ(すくなくとも僕には)。◆「元来理屈から言って、自己の姿などというものはいつまで経っても見えるわけのものではない。己を知るとは自分の精神生活に関して自身を持つということと少しも異なった事ではない。自身が出来るから自分というものが見えたと感ずるのである。そしてこの自身を得るのにはどんなに傑れた人物でも相当の時間を要するのだ。成熟する事を要するのだ。」(「文科の学生諸君へ」:小林秀雄)◆文学を勉強するということは、いろいろなものの真似をする、そのような装をする、ふりをする習性を努力していくことである。それは大変いい勉強になり、大変役に立つことである。しかし、そのために実際自分で身をもって経験することの重大さを忘れてしまう。多くの小説を読みあさり、すべての経験は知っているような気持になってしまう。それが危険なのであって、実際の努力、忍耐が必要なのであり、この世は実際やってみなければ分からぬことがいっぱいあるということを、よく知らなければならない、と大江をコケにした(批評家、江藤淳もダメ出ししてたんだけれども)批評家小林秀雄は、文科の学生に申しておられているのでありました。