スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

わが恩人を語る3「貧乏人生」

2011年01月30日 | Weblog
師匠芥川氏が30歳で私が22歳の頃に本拠地は仙台、会社名は「東京冷熱サービス」、スタッフは二人で旗揚げとなるのではあるが、資本となるお金は無く、売上に繋がるお客様もないわけで、その日暮らしの貧乏人生が始まった。

幸い師匠が10年間余り携わったユーザーからボチボチではあるが仕事を頂けるようになるが、仕事先は南は関東から北は本州の果て青森大間までにまたがっていた。
仕事を選べる訳もなく、今日は北へ明日は南へと身を粉にして東日本全域を駆けずり回った。

当時、唯一の財産であった日産セドリックのポンコツ中古車を兄(当時は日産のセールスマン)から格安に提供して貰ってのドサ回りとなる。
車は高値の花でサラリーマンが車など持てる時代ではなかった。
 
事務所も車、寝泊まりも車、下り坂ではエンジンを切り、何とかかんとか生きていた頃である。
それぞれの居を構えていた仙台や盛岡には、たまに帰る程度で仕事さえあれば休みなどなかった。



当時はまだ石油燃焼機や暖房機の技術者が地方には殆どいない時代だったので、どのメーカーでも、どんな種類の機器でもこなせる我々のビジネススタイルは時代に受け入れられ始め、ニュービジネスのように面白いほど仕事が増えて行った。
 
この頃の時代背景は東京オリンピック~大阪万博、東海道新幹線やらで日本経済は高度成長の最盛期へと向かっていた。
政治も所得倍増計画をぶち上げて地方経済にも波及し始めてきた頃である。
その内に温水ボイラーメーカーとして当時の雄、巴ボイラーからも声が掛かり、益々多忙さを加えて行った。
 
次第に金回りも良くなり仕事もしたが遊びも半端じゃなかった。
師匠はそちらの方の才能も一流で、ダンス、ボーリング、競馬、麻雀、何でもこいであった。
酒は強くはなかったがキャバレーは大好きで、タンゴを踊らせればどこのキャバレーでも人目を引いていた。
社用族が溢れている頃で夜の社交界も大盛況の頃である。
当然女にモテモテで浮いた話も多かった。

新婚の奥様は理解がある方で「モテない男より、モテる男の方が仕事をするみたいだから」と寛大であった。
その奥様は仙台のミス七夕にもなった方だから、容姿端麗なのに人間が出来た方で、今思えばダンナを上手く操っていたんだろうと思う。
男が成功する影には良妻賢母ありということである。



やがて師匠に子供も授かり、ビジネスの基盤は仙台中心にと築かれてきていた。

ー続くー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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