昭和30年、小学3年生から本校に行くようになるが、10歳くらいで片道4kmを歩いて登校するのは相当きつかった、まして舗装もしていない道である、自転車が通常の交通手段であるこの田舎では、この程度歩くのは当たり前の頃である、鉄道も蒸気機関車であったから固形燃料(炭・亜炭・石炭)がエネルギー源であった。下校の際に馬車や馬そりに盗み乗りしてよく叱られたことが思い出される。
分校の同級生は15人程度であったが、本校では120人の3クラスであった、この仲間とは中学卒業まで一緒だったから、小中一貫教育のようなものであった。印象にあるのは小学6年の冬休み、学校が全焼したことであるが、自分は姉が嫁いだ仙台に居て火災現場には駆け付けなかった、後で火事現場に立ち会った同級生からショックだったことを聞いた、校長先生は一夜にして白髪に変わっていた。
この時代自分達が熱中したことに"鳥っこ取り"があった、春と秋には近くの山の頂に、仕掛けして野鳥を捕獲するのである。生まれた場所が山の中腹であり"鳥っこ取り"には絶好の場所だった、夜明けとともに渡ってくる野鳥を、同じ仲間の囮のさえずりを利用して捕獲するのである。
兄弟三人が長年引き継いでやっていたので、ノウハウの蓄えがあり近隣の仲間に負けることはなかった。
正式には野鳥保護法違反に触れることであったが、当時は取り締まりが緩かったので、方々の山々に多くの仲間がいた。
我が家は殺生を戒める寺にありながら、こんなことをしていた訳で親は肩身が狭かったと思う、自宅には囮用の野鳥を沢山飼っていた。
以前のブログにも書いたと思うが、今でもこのことが自分の商いの原点になっているようだ。自然界から天気を予想、自然を味方にする工夫、四季を判断する目、野鳥の習性、仲間に勝つ工夫、野鳥同士の駆け引きの演出、捕獲基地づくり、捕獲品の売買交渉、鳥カゴ作り、竹スキー作り、鳥餌の仕入れ、鳥餌用雑穀の管理、野鳥の健康管理等であり、常に収支バランスを考えながらの趣味であった。
中学の頃は、学業に影響するので先生から親に注意があったが、辞めることはなかった。
高校は担任の先生の勧めるまま、隣町の商業高校に行く、本来ならば寺に生まれ、名前も「経を悦ぶ」なので寺関係の方面に行けば、私の人生は全く別物になっていたのだろうが、自分には将来や進路を考えるような能力も自己顕示欲もなかった。
父親は叔父のいる県北二戸の寺の後継になることを願っていたのだと思う。事実小学校で和尚になる入り口の得度式は終えていたが、親からそうせよという話は一度もされた覚えはない。父親に連れられ檀家の法事には何度か行ったが、仏前にあるお菓子が食べたくて着いて行った記憶が残っている程度のまやかし小僧であった。
高校生活は楽しいものであったが、部活も勉強も中の上くらいで余り頑張った記憶はないが、経済や経営といった商業分野の成績はよく得意分野であった、英語や物理はついでに習う教科だったがよく分からなかった、英語だけは教員とそりが合わず赤点で卒業した。こういうことはトラウマになって一生付いて回るものである。
分校の同級生は15人程度であったが、本校では120人の3クラスであった、この仲間とは中学卒業まで一緒だったから、小中一貫教育のようなものであった。印象にあるのは小学6年の冬休み、学校が全焼したことであるが、自分は姉が嫁いだ仙台に居て火災現場には駆け付けなかった、後で火事現場に立ち会った同級生からショックだったことを聞いた、校長先生は一夜にして白髪に変わっていた。
この時代自分達が熱中したことに"鳥っこ取り"があった、春と秋には近くの山の頂に、仕掛けして野鳥を捕獲するのである。生まれた場所が山の中腹であり"鳥っこ取り"には絶好の場所だった、夜明けとともに渡ってくる野鳥を、同じ仲間の囮のさえずりを利用して捕獲するのである。
兄弟三人が長年引き継いでやっていたので、ノウハウの蓄えがあり近隣の仲間に負けることはなかった。
正式には野鳥保護法違反に触れることであったが、当時は取り締まりが緩かったので、方々の山々に多くの仲間がいた。
我が家は殺生を戒める寺にありながら、こんなことをしていた訳で親は肩身が狭かったと思う、自宅には囮用の野鳥を沢山飼っていた。
以前のブログにも書いたと思うが、今でもこのことが自分の商いの原点になっているようだ。自然界から天気を予想、自然を味方にする工夫、四季を判断する目、野鳥の習性、仲間に勝つ工夫、野鳥同士の駆け引きの演出、捕獲基地づくり、捕獲品の売買交渉、鳥カゴ作り、竹スキー作り、鳥餌の仕入れ、鳥餌用雑穀の管理、野鳥の健康管理等であり、常に収支バランスを考えながらの趣味であった。
中学の頃は、学業に影響するので先生から親に注意があったが、辞めることはなかった。
高校は担任の先生の勧めるまま、隣町の商業高校に行く、本来ならば寺に生まれ、名前も「経を悦ぶ」なので寺関係の方面に行けば、私の人生は全く別物になっていたのだろうが、自分には将来や進路を考えるような能力も自己顕示欲もなかった。
父親は叔父のいる県北二戸の寺の後継になることを願っていたのだと思う。事実小学校で和尚になる入り口の得度式は終えていたが、親からそうせよという話は一度もされた覚えはない。父親に連れられ檀家の法事には何度か行ったが、仏前にあるお菓子が食べたくて着いて行った記憶が残っている程度のまやかし小僧であった。
高校生活は楽しいものであったが、部活も勉強も中の上くらいで余り頑張った記憶はないが、経済や経営といった商業分野の成績はよく得意分野であった、英語や物理はついでに習う教科だったがよく分からなかった、英語だけは教員とそりが合わず赤点で卒業した。こういうことはトラウマになって一生付いて回るものである。
(=~18歳編 おわり=)