13日で自分は74歳になった。ここまで来られたことにはお陰様と感謝する一方、正直なところ"面白いこともなくなった世の中を、面白く生きる"術を探しながら暮らしているようなものだ
我が家の藤棚は今まさに満開である。この藤は娘が生まれた証に山から移植したので樹齢40年になる。
日曜日には隣の娘家族に花見BBQでお祝いして貰った。長男夫婦からも前日にを頂いた、一番小さな3歳になった孫娘も顔を見せてくれた。
自分は終戦っ子だから、子供時代は赤貧な時代トンネルが長く続いた。そんな時代背景ではあったが、今も昔も変わらず親は子供の誕生祝いをしてくれた筈である。
遠のいた記憶での我が家の誕生日祝いの定番は、痩せた畑で自家栽培した穀物野菜で作る"あずきカボチャつめりおかゆ団子鍋"であった。
いつもは麦飯に具沢山の味噌汁に卵と漬物だけだったが、この日だけは欠食児童の身に、この上なく待ち遠しい夕げであった、然も団子の中に誰に当たるのか分からない、5円玉が年齢の数だけ入っていたのが二重に嬉しかった。
東京オリンピックが行われた昭和39年頃まではそんな時代だったと思う。増して都会とは比べようがない地方格差社会であった。
食うためにだけ生きていた、決して豊かではなかった田舎で育ったが、家族の絆は深かったと思う。
我が家の藤棚は今まさに満開である。この藤は娘が生まれた証に山から移植したので樹齢40年になる。
日曜日には隣の娘家族に花見BBQでお祝いして貰った。長男夫婦からも前日にを頂いた、一番小さな3歳になった孫娘も顔を見せてくれた。
自分は終戦っ子だから、子供時代は赤貧な時代トンネルが長く続いた。そんな時代背景ではあったが、今も昔も変わらず親は子供の誕生祝いをしてくれた筈である。
遠のいた記憶での我が家の誕生日祝いの定番は、痩せた畑で自家栽培した穀物野菜で作る"あずきカボチャつめりおかゆ団子鍋"であった。
いつもは麦飯に具沢山の味噌汁に卵と漬物だけだったが、この日だけは欠食児童の身に、この上なく待ち遠しい夕げであった、然も団子の中に誰に当たるのか分からない、5円玉が年齢の数だけ入っていたのが二重に嬉しかった。
東京オリンピックが行われた昭和39年頃まではそんな時代だったと思う。増して都会とは比べようがない地方格差社会であった。
食うためにだけ生きていた、決して豊かではなかった田舎で育ったが、家族の絆は深かったと思う。
=おわり=