日本人として一度は訪れておきたかった南九州市の「知覧特攻平和会館」を訪れた日は終日大雨の日であった。この会館の企画展示する案内文をそのまま引用する。
「戦後80年近くが経過し、戦争体験者から直接話を聞くことが難しい時代になりました。そのような中、物言わぬ証言者として戦争遺跡の重要性が増してきています。 太平洋戦争中、鹿児島県内には20カ所もの航空施設があり、戦争末期には特攻隊の出撃基地としても使用されました。また、九州南部に米軍の上陸が予想されたことから本土決戦に備えて多くの施設が造られました。これらの施設は年月の経過と共に失われつつあります。 本展を通して鹿児島県内に残る戦争遺跡を、そして戦跡が戦争の歴史を伝える大切な遺産であることを知っていただけたら幸いです。」
(知覧ロビーの鎮魂の賦)
「戦後80年近くが経過し、戦争体験者から直接話を聞くことが難しい時代になりました。そのような中、物言わぬ証言者として戦争遺跡の重要性が増してきています。 太平洋戦争中、鹿児島県内には20カ所もの航空施設があり、戦争末期には特攻隊の出撃基地としても使用されました。また、九州南部に米軍の上陸が予想されたことから本土決戦に備えて多くの施設が造られました。これらの施設は年月の経過と共に失われつつあります。 本展を通して鹿児島県内に残る戦争遺跡を、そして戦跡が戦争の歴史を伝える大切な遺産であることを知っていただけたら幸いです。」
特攻で散った英霊の方々の最後の言葉や手紙が写真と共に遺品として数多く展示されていた。
10代の若さで散る無念・・、母さんに会いたい・・、先に行く不幸を許せ・・、妻よ後を頼む・、子よ立派に生きろ・・、弟よ家を頼む・・、家族の幸せを願う・・、明日の日本に望む・・、役目を果たしに・・等々、どの方にも泣き言はなく、旅立つ覚悟の重さに声も出ない。
(知覧ロビーの鎮魂の賦)
この日は散った多くの英霊の涙雨に濡れつつも、今ある日本にお陰様と手を合わせ、安らかな眠りをと願った。
"散る桜、
残る桜も、
散る桜"
=おわり=