福寿園・宇治工房からお電話をいただきました。
お尋ねした福寿園茶室「春草廬」の由来について
いろいろお教えいただいた上、資料も頂戴しました。
ありがとうございます。
次のような経緯で写しが再築されたことがわかりました。
大正7年、伏見城の遺稿である客殿(月華殿)と茶室(九窓亭、現春草廬)は
保存困難になり、三室戸寺金蔵院から原三渓へ譲渡されました。
その際に三渓は旧地に客殿と茶室の写しを作りました。
しかし、昭和56年、これらの建物が取り壊される事になり、
茶室だけ朝日焼の松村豊斎氏が譲り受けました。
昭和60年に朝日焼・松露会館が新築された折に、
二階に茶室「春草廬」が再建されました。
月華殿にあやかり、広間(八畳)の茶室「華松庵」も
新に作られています。
春草廬(写し)の解体から再建、そして華松庵の新築は、
京都工芸繊維大学教授・中村昌生氏の指導と設計によるものです。
茶室は小さい建造物なので、解体して移築することが可能なのですね。
三渓園・春草廬も何度も解体され移築されています。
その時にきちんと資料を残し、元の茶室と全く同じように
再築することが重要な課題だと感じました。
福寿園茶室「春草廬」へもいつか伺って茶室を見学し、
お茶を頂きたいものです。
三渓園・春草廬に話を戻しましょう。
残る疑問は次の二つです。
一.春草廬は茶室建築からみてどんな特徴があるのでしょうか?
二.織田有楽作と伝えられていますが、その可能性は?
果してこの二つの疑問は解けるのでしょうか?
ゆっくり調べています。

写真は「カラスウリ」と「三渓園・春草廬にある刀掛け」
お尋ねした福寿園茶室「春草廬」の由来について
いろいろお教えいただいた上、資料も頂戴しました。
ありがとうございます。
次のような経緯で写しが再築されたことがわかりました。
大正7年、伏見城の遺稿である客殿(月華殿)と茶室(九窓亭、現春草廬)は
保存困難になり、三室戸寺金蔵院から原三渓へ譲渡されました。
その際に三渓は旧地に客殿と茶室の写しを作りました。
しかし、昭和56年、これらの建物が取り壊される事になり、
茶室だけ朝日焼の松村豊斎氏が譲り受けました。
昭和60年に朝日焼・松露会館が新築された折に、
二階に茶室「春草廬」が再建されました。
月華殿にあやかり、広間(八畳)の茶室「華松庵」も
新に作られています。
春草廬(写し)の解体から再建、そして華松庵の新築は、
京都工芸繊維大学教授・中村昌生氏の指導と設計によるものです。
茶室は小さい建造物なので、解体して移築することが可能なのですね。
三渓園・春草廬も何度も解体され移築されています。
その時にきちんと資料を残し、元の茶室と全く同じように
再築することが重要な課題だと感じました。
福寿園茶室「春草廬」へもいつか伺って茶室を見学し、
お茶を頂きたいものです。
三渓園・春草廬に話を戻しましょう。
残る疑問は次の二つです。
一.春草廬は茶室建築からみてどんな特徴があるのでしょうか?
二.織田有楽作と伝えられていますが、その可能性は?

果してこの二つの疑問は解けるのでしょうか?
ゆっくり調べています。



写真は「カラスウリ」と「三渓園・春草廬にある刀掛け」