暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

水清き庵の正午の茶事 (1)

2009年09月20日 | 思い出の茶事
だいぶ前から一度伺えたら・・と
憧れていた茶事へお招きいただきました。
何から書いたら・・と思うほど、充実感のある茶事でした。

ご亭主さまとは初の御目文字でしたが、
「どうぞお気楽に・・・」のお言葉に甘えて、
経験不足の正客はご亭主さまの大船に乗せていただき、
安心して楽しませていただきました。

待合の掛物は烏瓜の画賛「秋色有佳興」。
矢筈ススキの三本の穂と、御所水引草が秋色の露地でした。
欅を刳り貫いた行李蓋の煙草盆に安南トンボ写しの火入、
始めて見る乱菊の灰の景色に見惚れました。
ご亭主のお心入れを感じて、とても嬉しくなりました。

一番印象に残ったことは「水」でしょうか。
待合でいただいた白湯のまろやかな味、お尋ねすると
「真姿の池」の名水を汲んで用意されたそうです。

他の湧水では昆布で出汁をとると濁ってしまうそうで、
「真姿の湧水を料理にもお茶にも一番良いと思い、使っています」
美味しいお茶を点てるには「水」が肝心と思っている私には
ご亭主の心意気を嬉しく感じました。

本席の掛物は、
大徳寺196世伝外和尚の筆で「松風説法羅月談空」。
実は、このお軸が掛けられている事を密かに望んでいました。
すると、「お正客のお望みで・・・」
心の中までお見通しで恐れ入りました。
かわいらしい虫籠に祥瑞の香炉、香銘は「秋の月」です。

釜は籐兵ヱの滑らかな肌の筒釜で、蔦の地紋が秋の風情です。
初入りで、風炉の遠山灰の見事さに客一同息をのみました。
継ぎ目がどこにもなく、流れるようなカーブを描く芸術品です。
フランケンシュタインのような私の灰型とは大違いです。
でもまぁ、気を取り直していきましょう・・・。

懐石の一文字が甘く、小芋の赤味噌仕立てに茗荷が利いています。
煮物碗の蓋をあけると、松茸の香りとともに青呉汁(枝豆)の
緑が眼を楽しませてくれました。
大好きな日月蒔絵の碗も嬉しく賞味しました。

お酒も三種類ご用意いただき、不調法な正客に代わり次客さんが
歓声をあげていました。
そして、私には特別な飲み物(ナイショ)をステキな器で
用意してくださり、きめ細かな心配りに感謝です。
       (つづく)                       

        写真は、「秋明菊(貴船菊)」です。
             我家の庭で咲き始めました。


茶の湯釜 に恋して

2009年09月18日 | 茶道具
ある年の初釜の席で、年長というだけで正客になった折、
あまづら環付がついた優美な芦屋釜に出会いました。

師匠は「芦屋雁の助の芦屋でございまぁ~す・・」と、
何も知らない正客をフォーローし、座を和ませてくださいました。
その時から芦屋、天命の古釜に興味を持ち、心惹かれるようになりました。

珠己さんとの最初の出会いは長屋門公園・正午の茶事でした。
茶事の後、丁寧なご挨拶のメールを頂きました。
そして、釜と水のことを尋ねられたのです。

お若いのに釜に興味を持つなんて・・と、正直驚きました。
お気に入りの美之助の「真形 霰唐松」でしたし、
こだわって「弘法の清水(秦野市)」を汲んできましたので、
とても嬉しく返信したことを今でも鮮明に覚えています。

その後も珠己さんは私の茶事へ参席してくださいました。
蓮見の朝茶事では「半東をお勉強したい」と申し出て、
ホテルに泊りがけで朝早くからお手伝い頂きました。
有難かったです。

いくつもの茶事を共有し、一緒に頑張ってくださった
ステキで頼もしい茶友です。
その珠己さんが釜師の長野新さんと、めでたく結婚されました。
お相手が新進気鋭の釜師さんと聞いて、茶事の後に頂いた
メールの質問も大いに納得です。

その後、何度か長野さんの茶の湯釜の展示会へ顔を出しました。
日本古来の和銑(わづく)釜の素晴らしさを知るにつれて、
和銑釜の製作に日夜励んでいる長野新さんに
「お釜を造ってほしい・・」と思うようになりました。

先日、長野工房を見学した折に、
念願の和銑の「茶の湯釜」を注文してきました。
「どんなお釜ですか?」
・・・あれこれ書きたいところですが、もう暫くお待ちください。

長野新さんから嬉しいメールが届きました。

  暁庵さんのお釜に対する熱い思いが先日のお話で良くわかりましたので、
  私も更に気合を入れて制作したいと思います。
  また、父の本をあんなに熱心にお読み頂いていたことを
  父も非常に喜んで居りました。

本は、茶道具の世界8 「釜 炭道具」責任編集 長野 裕(淡交社)でした。

               

      写真は、飯山観音(厚木市)近くの山野草屋さんで
            買ってきた「鷺草」です。

何百回の稽古 -渡辺正幸さん-

2009年09月16日 | 茶道楽
テレビを真面目に観ることが少なくなりました。

9月12日(土)の「日めくりタイムトラベル~昭和55年~」で、
タレントの渡辺正幸さんがテレビに初登場した当時の映像を見ながら
話しています。

  「この時は凄く緊張していて、自分で何をしゃべって
  何をやっているのか、ほとんどわからない状態でした。
  それでも台詞やアクションは、もう何百回と稽古しているので
  あがっていても台詞を口にすると次々と反射的に出てくるんです。」

このお話を聞いて「ハッ」とし、昔のことを思い出しました。

百名近い教授陣を前に、博士号の論文発表をしたときのことです。
指導教授のT先生から次のようなご指導をいただきました。
「論文発表は30分です。最低100回は練習してください・・」

審査会の日が決まり、その日まで1ヶ月ほどでした。
先生のご指導に応えるべく、カレンダーに正の字をつけながら
100回以上をめざし、練習を繰り返しました。

審査会の当日、T先生から
「人数の都合で、発表時間20分、質疑応答10分になりました」
「エッ~」と一瞬驚きました。発表まで1時間もあったでしょうか?
話す内容を10分短縮しなくてはいけません。
                            

でも、100回以上練習したお蔭で再編集もすぐに決まり、
混乱せずに発表と質疑応答を終えることができました。
T先生は素晴らしいご指導をしてくださったのです。
今でも深く感謝しています。

渡辺正幸さんの「何百回と稽古している」の持つ意味が
実感として心に入ってきました。
芸能、論文発表、茶の湯の稽古でも基本は同じだと思いました。

繰り返しの稽古、それも半端ではない数をこなすことで
身に付く確かなものがあると思っています。

短時間でも毎日お茶の稽古をするのが良さそうですが・・・。
昔は真面目だったなぁ~。

「○○しながら」のテレビですが、毎日、真面目に観ようかしら?

                            

   写真は、「飯山観音(厚木市)のイヌマキ」です。
          樹齢は約400年だそうです。

三つの春草廬  つづき

2009年09月14日 | 三溪園&茶会
福寿園・宇治工房からお電話をいただきました。
お尋ねした福寿園茶室「春草廬」の由来について
いろいろお教えいただいた上、資料も頂戴しました。
ありがとうございます。

次のような経緯で写しが再築されたことがわかりました。

大正7年、伏見城の遺稿である客殿(月華殿)と茶室(九窓亭、現春草廬)は
保存困難になり、三室戸寺金蔵院から原三渓へ譲渡されました。
その際に三渓は旧地に客殿と茶室の写しを作りました。

しかし、昭和56年、これらの建物が取り壊される事になり、
茶室だけ朝日焼の松村豊斎氏が譲り受けました。
昭和60年に朝日焼・松露会館が新築された折に、
二階に茶室「春草廬」が再建されました。

月華殿にあやかり、広間(八畳)の茶室「華松庵」も
新に作られています。
春草廬(写し)の解体から再建、そして華松庵の新築は、
京都工芸繊維大学教授・中村昌生氏の指導と設計によるものです。

茶室は小さい建造物なので、解体して移築することが可能なのですね。
三渓園・春草廬も何度も解体され移築されています。
その時にきちんと資料を残し、元の茶室と全く同じように
再築することが重要な課題だと感じました。

福寿園茶室「春草廬」へもいつか伺って茶室を見学し、
お茶を頂きたいものです。

三渓園・春草廬に話を戻しましょう。
残る疑問は次の二つです。
 一.春草廬は茶室建築からみてどんな特徴があるのでしょうか?
 二.織田有楽作と伝えられていますが、その可能性は?

            

果してこの二つの疑問は解けるのでしょうか?
ゆっくり調べています。
                               

   写真は「カラスウリ」と「三渓園・春草廬にある刀掛け」  


三つの春草廬

2009年09月12日 | 三溪園&茶会
大銀杏が色づく十一月に春草廬で茶会を計画中です。
それで、「春草廬」についていろいろ調べています。
すると、三つの茶室「春草廬」があることがわかりました。

 ①横浜三渓園の茶室(重要文化財)
 ②宇治にある福寿園の茶室、
 ③東京国立博物館にある茶室 

第一の春草廬は、宇治の三室戸寺金蔵院から月華殿と共に
三渓園へ移築された春草廬です。
かつて九窓亭(くそうてい)と呼ばれていましたが、
原三渓は白雲邸に付随して再築し、「春草廬(しゅんそうろ)」
と名付けました。

宇治から三渓園へ移築した際に、三渓は月華殿と春草廬の写しを作り、
金蔵院へ残してきたそうです。
福寿園・宇治工房の茶室案内に次のことが書かれていました。

 「福寿園茶室 春草廬」
  宇治・三室戸寺金蔵院にあった茶室「春草廬」。
  現在は横浜の三渓園に移築され、重要文化財にも指定されている
  この名茶室を、再び宇治の地によみがえらせました。
  春草廬は大小九つもの窓をもち、その間取りとともに
  特徴ある雰囲気を際立たせています。

福寿園茶室「春草廬」は、金蔵院に作られた写しそのものなのでしょうか?
それとも別のコンセプトで新に建てられた茶室なのでしょうか?
今、福寿園さんへお尋ねしているところです。

三つ目は、東京国立博物館にある「春草廬」です。
東京国立博物館のHPには次のように記されていました。

  江戸時代、河村瑞賢が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、
  その後大阪へ、さらに原三渓によって横浜の三渓園に移され、
  昭和12年に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵)の
  柳瀬荘内に移築されました。

  昭和23年に柳瀬荘が当館に寄贈され、昭和34年に春草廬は
  現在の位置に移されました。
  入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、
  能書家として知られる曼殊院良尚法親王の筆で、
  三渓が耳庵に贈ったそうです。

       

三つの春草廬、全て原三渓が関わっていることがわかってきました。
でも、まだ謎(疑問)がすべて解けたわけではありません・・・。

写真は、「三渓園・春草廬のにじり口と窓」と
     「東京国立博物館(写真提供)の春草廬」