【「現代」とは何か (「近代」と「現代」とは何が違うのか)】
「『である』ことと『する』こと」という教材は、江戸時代と「近代」の比較でした。しかし現代文の教科書や最近の入試問題の主流は「近代」とその次の時代「現代」についての評論です。「近代」は英語では「モダン」と言いますので、「現代」のことを「ポストモダン」ということもあります。だから現代文の評論の多くは「近代」と「現代」(「ポストモダン」)の比較を論じていることになります。
それでは「近代」と「現代」の比較をすることによって、何を論じようとしているのでしょうか。比較をすることによって、それぞれの特徴が見えてきます。だから「近代」と「現代」を比較することによって、「近代」とは何か、「現代」とは何かを明らかにしようとしているのです。
【「現代」はいつから】
さて「近代」と「現代」を分けるとすると「現代」はいつから始まったのでしょうか。実はこれははっきりしません。歴史学的には第2次世界大戦終了を境にするようですが、実際はそれよりも後のような感じがします。いずれにしても、今現在は「近代」と「現代」の端境期であり、われわれは「近代」の考え方を土台にして、「現代」の考え方に徐々に移行している時期と考えたほうがいいと思います。
【江戸時代の人は儒教道徳や身分制度を常識として何も疑っていなかった】
話を「近世」と「近代」にもどします。
私たちは江戸時代の身分制度や不便さを古いものであり、常識はずれだと考えてしまうことがあると思います。しかし江戸時代の人たちは「『である』論理」を当たり前と考えていたのです。何の疑問も持っていませんでした。これと同じことが私たちの当たり前にもあるかもしれません。私たちは「近代」の考え方を当たり前と考えていますが、次の時代の人たちにとっては常識外れかもしれないのです。いいえ次の時代の人にとっては時代遅れになるのが普通なのです。
【私たちの時代の人間は「近代」常識として何も疑っていない】
先ほども言いましたが私たちは「近代」の考え方を当たり前だと考えています。「当たり前」のことを疑うことはしません。しかし「現代」的視点が徐々に芽生え始めて、「近代」の常識を疑い始めます。「近代」批判でよく取り上げられる具体例を2つあげます。
【経済的豊かさから心の豊かさへ】
「近代」は経済の時代でした。お金が価値になった時代です。しかし、「現代」では経済的な豊かさを否定はしませんが、それ以上に心の平穏をのぞむようになってきています。例えば高い給料をもらえばうれしい。しかし、高い給料をもらっていても、仕事ばかりの人生で、真に人生を楽しんでいるかという観点から考えてみれば全然楽しんでいない人もいます。高度成長期には「働きバチ」と呼ばれて、朝から晩まで働いていた仕事人間ばかりでした。しかし今はそういう生き方は否定される生き方になりつつあります。自分の生き方を大切にして、家族との時間を大切にして、人間的な生き方を求められるようになってきました。このように「近代」のお金優先の常識が徐々に崩れてきています。
【発展の時代から共生の時代へ】
「近代」は人間中心の時代であり、科学や経済の発展を常識としていました。その結果、工業が発達し環境破壊が進んでいきました。しかし、「現代」になると環境破壊の弊害が強く叫ばれるようになります。安心して生活できる環境を求めるようになります。特に東日本大震災における原発事故は経済発展の考え方に対する大きな疑念を生み出しました。「現代」は人間が自然環境との共生を大切にする時代になっていくのかもしれません。
【「近代」の常識を疑うのが「現代文評論」のテーマ】
このように「近代」の常識を疑うのが「現代文評論」のテーマです。私たちはまだ「近代」の考え方を常識としているので、当たり前を疑うことになります。これまで疑ってこなかったことを疑うわけなので何を言ってるかわからない。だから「現代文の評論」は難しいのです。
「『である』ことと『する』こと」という教材は、江戸時代と「近代」の比較でした。しかし現代文の教科書や最近の入試問題の主流は「近代」とその次の時代「現代」についての評論です。「近代」は英語では「モダン」と言いますので、「現代」のことを「ポストモダン」ということもあります。だから現代文の評論の多くは「近代」と「現代」(「ポストモダン」)の比較を論じていることになります。
それでは「近代」と「現代」の比較をすることによって、何を論じようとしているのでしょうか。比較をすることによって、それぞれの特徴が見えてきます。だから「近代」と「現代」を比較することによって、「近代」とは何か、「現代」とは何かを明らかにしようとしているのです。
【「現代」はいつから】
さて「近代」と「現代」を分けるとすると「現代」はいつから始まったのでしょうか。実はこれははっきりしません。歴史学的には第2次世界大戦終了を境にするようですが、実際はそれよりも後のような感じがします。いずれにしても、今現在は「近代」と「現代」の端境期であり、われわれは「近代」の考え方を土台にして、「現代」の考え方に徐々に移行している時期と考えたほうがいいと思います。
【江戸時代の人は儒教道徳や身分制度を常識として何も疑っていなかった】
話を「近世」と「近代」にもどします。
私たちは江戸時代の身分制度や不便さを古いものであり、常識はずれだと考えてしまうことがあると思います。しかし江戸時代の人たちは「『である』論理」を当たり前と考えていたのです。何の疑問も持っていませんでした。これと同じことが私たちの当たり前にもあるかもしれません。私たちは「近代」の考え方を当たり前と考えていますが、次の時代の人たちにとっては常識外れかもしれないのです。いいえ次の時代の人にとっては時代遅れになるのが普通なのです。
【私たちの時代の人間は「近代」常識として何も疑っていない】
先ほども言いましたが私たちは「近代」の考え方を当たり前だと考えています。「当たり前」のことを疑うことはしません。しかし「現代」的視点が徐々に芽生え始めて、「近代」の常識を疑い始めます。「近代」批判でよく取り上げられる具体例を2つあげます。
【経済的豊かさから心の豊かさへ】
「近代」は経済の時代でした。お金が価値になった時代です。しかし、「現代」では経済的な豊かさを否定はしませんが、それ以上に心の平穏をのぞむようになってきています。例えば高い給料をもらえばうれしい。しかし、高い給料をもらっていても、仕事ばかりの人生で、真に人生を楽しんでいるかという観点から考えてみれば全然楽しんでいない人もいます。高度成長期には「働きバチ」と呼ばれて、朝から晩まで働いていた仕事人間ばかりでした。しかし今はそういう生き方は否定される生き方になりつつあります。自分の生き方を大切にして、家族との時間を大切にして、人間的な生き方を求められるようになってきました。このように「近代」のお金優先の常識が徐々に崩れてきています。
【発展の時代から共生の時代へ】
「近代」は人間中心の時代であり、科学や経済の発展を常識としていました。その結果、工業が発達し環境破壊が進んでいきました。しかし、「現代」になると環境破壊の弊害が強く叫ばれるようになります。安心して生活できる環境を求めるようになります。特に東日本大震災における原発事故は経済発展の考え方に対する大きな疑念を生み出しました。「現代」は人間が自然環境との共生を大切にする時代になっていくのかもしれません。
【「近代」の常識を疑うのが「現代文評論」のテーマ】
このように「近代」の常識を疑うのが「現代文評論」のテーマです。私たちはまだ「近代」の考え方を常識としているので、当たり前を疑うことになります。これまで疑ってこなかったことを疑うわけなので何を言ってるかわからない。だから「現代文の評論」は難しいのです。