夏目漱石の『三四郎』の読書メモ。今回は三章。
いよいよ大学が始まると思ったらそう簡単にはいかない。「学年は九月十一日に始まる」はずで三四郎は学校に行くのだが、学生は誰もいない。そこで事務室へ行く。
「講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云っている。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。」
どう考えても事務の言うことは納得がいかない話なのに、三四郎は納得してしまうのである。たとえ間違ったものでも権威のあるものに服従してしまう姿がそこにはある。「郷に入れば郷に従え」という言葉があるが、どこに行っても集団には共同幻想が存在して居る。その共同幻想の外部の人間はそれに従うことを強要されてしまう。ただしそこには権力も関係してくる。例えば逆だったらどうか。三四郎が東京育ちで、熊本に行ったらどうなるのか。三四郎は絶対に熊本の常識に納得しないだろう。これが「坊ちゃん」であるのは言うまでもない。
その後十日ほどでようやく授業が始まる。佐々木与次郎という男と友人になる。三四郎は最初週四十時間も授業に出る。さすがに出すぎである。与次郎に忠告され半分ほどに減らし、残りの時間は図書館などで過ごすようになる。三四郎はどんな本でも誰かが読んでいることに驚く。
野々宮の家に行く。野々宮の家は大久保にある。大久保の駅から早稲田近辺に歩くようだ。当時の感覚からするとかなり遠く感じるようだ。甲武線に乗っていく。野々宮の家に行くと、電報が来る。野々宮の妹からである。大学の病院に入院している妹からすぐ来てくれという要件である。とにかく行くしかないが、下女一人に留守番させるのは忍びないので、三四郎に泊ってくれと言う。
夜、汽車の音がすぐ近くに聞こえる。「ああああ、もう少しの間だ」という声も聞こえる。また汽車の音がさっきより大きく聞こえる。なにやらさわがしくなった。若い女が汽車の轢かれたのだ。自殺であろう。野々宮から「妹無事、明日朝帰る」と電報が来る。
三四郎はその夜、夢を見る。
「轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。只三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹は即ち三四郎が池の端で逢った女である。」
興味深いのは、「池の女」を野々宮の妹だと想像していることである。「池の女」は確かに看護婦と一緒にいたし、大学にいたのだから大学の病院にいた患者だと考えるのことももっともなことである。(それを考えると、「池の女」が看護婦と一緒にいたことは、読者のミスリードを誘っていたとも考えられる。)まだ三四郎はさまざまなことが整理できていない。それがさまざまな妄想を作り出し、それが少しずつ補正されていく。新しい世界に加わった時の心がうまく描かれている。同時にこれは自意識が明瞭になっていく過程とも似ている。自分が何者であるかが明確になっていない三四郎の自意識が目ざめて行く過程のようにも感じられる。
翌日野々宮が帰って来る。やはりよし子は異状はなく、見舞いに来ない兄を物足りなく思って、呼んだだけだった。よし子はわがままなのか、それとも兄への異様な愛情があったのか、いろいろと想像させられる。
三四郎は野々宮から袷をよし子に届けるように依頼される。病室に行く。病室を出ると、玄関近くに「池の女」いた! ふたりはすれ違う。野々宮の妹病室の場所を聞く。女は野々宮が買ったリボンを身に付けている。野々宮と「池の女」がつながる。ふたりはどういう関係なのだ? 三四郎は気になる
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