1年前のブログを振り返ります。前回のブログからの続きです。
一人称小説というと初期の「探偵小説」が思い出される。
例えばコナンドイルのシャーロック・ホームズシリーズ。ここでの語り手「私」はシャーロック・ホームズの友人、ワトソン博士である。物語はワトソン博士の視点を通して語られる。そして基本的にワトソンが見たものを、ホームズが見る。二人は同じものを見て事件を推理するのである。初期の探偵小説というのは謎解きゲームであった。だから読者とホームズには同じ証拠が提示されなければならない。同じ証拠からどういう推理によって事件の真相まだたどりつくかを、読者とホームズが競うのである。だから、ホームズがみたものをホームズ本人でないワトソン博士が正確に語る必要があったのである。このように初期の探偵小説はこのような探偵以外の語り手が必須であった。
しかし、その後クリスティが語り手自身が犯人である作品をつくり、この構造の「探偵小説」は限界に達した。
その後はあまり謎解きゲーム的な要素を取り入れることへのこだわりが少なくなった。読者もそれほどゲーム性にとらわれることなく、小説に社会性や登場人物の心情への関心に向けられるようになる。それと合わせるように「探偵小説」という単語は消滅し、「ミステリー」という分野に統合されていくことになる。
話をもどす。一人称小説が初期の「探偵小説」にとって必須だったのは、探偵がみているものは読者も見ているということである。しかしそれだけではない。もうひとつ大切なことがある。そしてそれが一人称小説の一番大切なことなのかもしれない。それは何か。
他人の心の中が見えないということである。ワトソンとホームズは同じものを見ている。しかしワトソンはホームズの心の中が見えないのである。「他人の心の中が見えない」。これが一人称小説の一番大きな要素なのではないだろうか。
一人称小説というと初期の「探偵小説」が思い出される。
例えばコナンドイルのシャーロック・ホームズシリーズ。ここでの語り手「私」はシャーロック・ホームズの友人、ワトソン博士である。物語はワトソン博士の視点を通して語られる。そして基本的にワトソンが見たものを、ホームズが見る。二人は同じものを見て事件を推理するのである。初期の探偵小説というのは謎解きゲームであった。だから読者とホームズには同じ証拠が提示されなければならない。同じ証拠からどういう推理によって事件の真相まだたどりつくかを、読者とホームズが競うのである。だから、ホームズがみたものをホームズ本人でないワトソン博士が正確に語る必要があったのである。このように初期の探偵小説はこのような探偵以外の語り手が必須であった。
しかし、その後クリスティが語り手自身が犯人である作品をつくり、この構造の「探偵小説」は限界に達した。
その後はあまり謎解きゲーム的な要素を取り入れることへのこだわりが少なくなった。読者もそれほどゲーム性にとらわれることなく、小説に社会性や登場人物の心情への関心に向けられるようになる。それと合わせるように「探偵小説」という単語は消滅し、「ミステリー」という分野に統合されていくことになる。
話をもどす。一人称小説が初期の「探偵小説」にとって必須だったのは、探偵がみているものは読者も見ているということである。しかしそれだけではない。もうひとつ大切なことがある。そしてそれが一人称小説の一番大切なことなのかもしれない。それは何か。
他人の心の中が見えないということである。ワトソンとホームズは同じものを見ている。しかしワトソンはホームズの心の中が見えないのである。「他人の心の中が見えない」。これが一人称小説の一番大きな要素なのではないだろうか。
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