普段当たり前に使っている自分の言葉を改めて考えてみると、実はそんなに当たり前ではなかったということがたまに遭遇する。当たり前が当たり前でないことが気づいたとき、当たり前ってなんだったのかを考え始める。それがメタ認知である。母語の教育にはそうした当たり前が当たり前でなくなることに気づかせることが時に重要になる。それをしないでいると、いつの間にか袋小路に入ってしまう。
そんな中で先日聞いたネタ。
「バールのようなもの」
「バールのようなもの」というのはそのまま読めば「バール」ではないはずである。しかし、
「被害者はバールのようなもので殴られた。」
と言った時、バールである可能性がないわけではない。いやバールの可能性のほうが高いのではないか。だとすると「バールのようなもの」という表現はなんなのだ、という問題が残る表現である。
清水義則がこのタイトルで小説を書いている。そして立川志の輔が落語にしている。私はまだ読んでないし、聞いてもいないが、早急に読んで、聞いてみたい。
そんな中で先日聞いたネタ。
「バールのようなもの」
「バールのようなもの」というのはそのまま読めば「バール」ではないはずである。しかし、
「被害者はバールのようなもので殴られた。」
と言った時、バールである可能性がないわけではない。いやバールの可能性のほうが高いのではないか。だとすると「バールのようなもの」という表現はなんなのだ、という問題が残る表現である。
清水義則がこのタイトルで小説を書いている。そして立川志の輔が落語にしている。私はまだ読んでないし、聞いてもいないが、早急に読んで、聞いてみたい。
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