世界の街角

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NHKスペシャル・御柱を見て・その2

2016-07-01 10:04:33 | 古代と中世
<続き>

1万5千年前~1万年前にかけて、カミが宿る巨木信仰が栄えていた。そして諏訪がその最後の縄文王国であった・・・として、以下のように番組は続く。
水田耕作が九州北部に伝播するのは、前10世紀後半からで、それが400年かけて東漸した。ところが諏訪を含む中部高地を前に、その勢いは急速に衰える。そして中部高地を迂回するように青森へ、そこから東北各地へ南下。残ったのが中部高地と関東平野である。
諏訪の縄文人が最後まで水田耕作を拒んだ。コメではなく、森の恵みと共に生きる道を選んだ諏訪の縄文人。その暮らしを巨木に宿るカミが見守っていた。縄文時代に起源をもつと考えられる巨木の祭り。
八ヶ岳の麓で見つかった中ツ原遺跡。柱を建てた跡が見つかり復元されている。調査の結果、この辺りがどのような場所であったか明らかになった。四角形に並んだ
柱の穴。周辺の土を分析したところ、人体に含まれるリン酸が高い濃度で検出された。ここは縄文人の墓だったのだ
。(当該ブロガー注:人骨が出土したかどうかについては、番組では触れていない)
巨木の祭りに新たな光として、番組は以下のように続く。
富山湾を望む石川・能登町・真脇遺跡、柱の一部が発見され復元された。環状木柱列と呼ばれ、直径7mの円を描く、祭祀址と考えられている。
環状木柱列には門扉と呼ばれている入口と思われる施設が作られている。中心線が後ろの山に向かっていることが分かった。後ろの山と関係のある祭祀の場所と考えられる。


巨木を建てるという意味そのものに目を向けてみた。そのきっかけは、ここで発掘された200頭余りのイルカの骨。真脇の縄文人が食料として長きに渡り捕獲したものだ。富山湾には春から秋にかけイルカの群れがやってくる。イルカを捕獲するには多くの舟と人手を要す。一つの集落では人手が足りず、多くの集落から人手が集まったことを示している。
このように見ると、巨木の祭りには、縄文人が他の集落との絆を深める意味があったと考えられる。周辺の村から沢山の人がやってきて、共同でイルカ漁をやる。環状木柱列をこれから建てるというときにも、その人たちが一緒に参加して、柱を建てたりする行為自体が祭りだと思うので、そういうところは、今の御柱祭と共通するものがあると思われる。

今回の番組内容の紹介はここまでとしたい。番組の中で触れられていなかった点が気になる。それは番組で放映されていた次の画像である。
この画像については、番組で何も触れていない。つまり門扉からの中心線の背後の山は東向きであった。グーグルアースをみると、その中心線は真東を指していることが分かる。番組では後ろの山との祭祀関係を指摘しているが、これは縄文ではなく弥生の祭祀の匂いがする。弥生人は農耕民である。農耕に水と太陽は欠かせない。そう弥生人は日輪を崇拝したのである。この真脇遺跡は、また弥生人の祈りの場であったであろうか・・・?

                                 <続く>