午前8時半現在は晴れているが、残念ながら日昇時点では曇りで、初日の出は見えなかった。そこで一昨日、広島・竹原でみた門松を拝借して新年の挨拶としたい。


サンカンペーン陶磁のコレクションを始めて20年が経過した。従前、サンカンペーンを含めた北タイ陶磁の源流は、雲南にあると考えていた。
元寇による南下圧力に耐えきれず、雲南から南下したタイ族のなかに陶工が含まれ、彼らが陶業を開始したものと考えていた。根拠と云うほどのものではないが、雲南と北タイ双方にハニージャーと呼ぶ二重口縁壺が存在すること、雲南青花には魚文が存在し、極めつけは雲南青花の仏教文様である独鈷文がカロンに存在し、双方は極似していることである。
しかしながら、雲南からの伝承を語るには、上記以上の根拠に乏しい点である。特に北タイ共通の横焔式単室窯を雲南で確認できない、最大の欠点を抱えていることである。
更に、「東南アジア史①大陸部」(石井米雄・桜井由躬雄編 山川出版社)によれば、”南詔国は民族系統的には現在のイ族やペー族の先民であったと考えられ、南詔国=タイ族国家は完全に否定されている。近年の言語学者たちの研究では、南西タイ諸語の話者たちの源郷を、今日のベトナム東北部と中国の広西壮族自治区の境界付近とみなす仮説が有力視される。そして、漢人やキン族の圧迫を受けたタイ族は7世紀頃から動乱状態にあり、11世紀に起こったとみられる集団的大移動の態様は、むしろ東から西方ないし南西方向への移動であったと考えられている。”・・・と結ばれている。
この書籍記載内容も一方的なきらいがあるが、雲南南下とベトナム東北部の南西移動の双方が存在していたであろう。今回、この難題の源流考に再度挑むこととした。長編の連載になると思われる。


サンカンペーン陶磁のコレクションを始めて20年が経過した。従前、サンカンペーンを含めた北タイ陶磁の源流は、雲南にあると考えていた。
元寇による南下圧力に耐えきれず、雲南から南下したタイ族のなかに陶工が含まれ、彼らが陶業を開始したものと考えていた。根拠と云うほどのものではないが、雲南と北タイ双方にハニージャーと呼ぶ二重口縁壺が存在すること、雲南青花には魚文が存在し、極めつけは雲南青花の仏教文様である独鈷文がカロンに存在し、双方は極似していることである。
しかしながら、雲南からの伝承を語るには、上記以上の根拠に乏しい点である。特に北タイ共通の横焔式単室窯を雲南で確認できない、最大の欠点を抱えていることである。
更に、「東南アジア史①大陸部」(石井米雄・桜井由躬雄編 山川出版社)によれば、”南詔国は民族系統的には現在のイ族やペー族の先民であったと考えられ、南詔国=タイ族国家は完全に否定されている。近年の言語学者たちの研究では、南西タイ諸語の話者たちの源郷を、今日のベトナム東北部と中国の広西壮族自治区の境界付近とみなす仮説が有力視される。そして、漢人やキン族の圧迫を受けたタイ族は7世紀頃から動乱状態にあり、11世紀に起こったとみられる集団的大移動の態様は、むしろ東から西方ないし南西方向への移動であったと考えられている。”・・・と結ばれている。
この書籍記載内容も一方的なきらいがあるが、雲南南下とベトナム東北部の南西移動の双方が存在していたであろう。今回、この難題の源流考に再度挑むこととした。長編の連載になると思われる。