従来から喧伝される古事記・日本書紀・出雲国風土記を読み解いた噺ではない。人畜無害ではあるが、多少眉唾の感じがしないでもない。
先ず、Yahoo JPNのTOPページから地図をクリックし、島根県の地図を画面に出していただきたい。旧国名「出雲」に画面を拡大すると、出雲の神奈備四山が表示される。
神奈備四山とは、出雲国風土記(出雲国風土記では神名火山と記す)で云う意宇(おう)郡の茶臼山(地図では松江市の南東)、秋鹿(あいか)郡の朝日山(松江市の北西)、楯縫(たてぬい)郡の大船山(出雲市の北東)、出雲郡の仏教山(出雲市の東)である。
この神奈備四山の位置が分かったら、それぞれの神奈備山を線でつないでいただきたい。そうすると下の写真のようになる。
上辺が下辺よりやや狭い台形ができる。対角の神奈備山を線で結び、その延長をたどると三瓶山へその反対側の延長上には高志の能登半島は珠洲へ繋がる。もう一方の対角は大山と新羅の迎日湾につながる。これは何だ!!
八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島、つまり出雲国であるという。
志羅紀(新羅)の三埼を引いた綱は薗の長浜(稲佐の浜)に杭は三瓶山に、都都の埼を引いた綱は夜見の嶋(弓浜半島)に杭は大山になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
これらの比定地として高志を北陸地方(越前・越中・越後)、都都を能登半島の北端珠洲岬に充てる説が有力である。
まさに国引き神話の配置そのものである。出雲風土記は大国主命が高志の沼河比売(出雲国風土記では奴奈宜波比売命)に求婚する説話も登場する程、高志は縁深い。
新羅は記紀によれば、五十猛の命が朝鮮半島から渡来した土地である。事実として出雲市川跡町・山持遺跡から弥生後期ー古墳時代前期の新羅製土器が出土する。 う~ん!!。偶然の一致か?・・・それにしても噺ができすぎている。もう一度上の写真を見て頂きたい。この図は四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)そのものである。この墳丘墓は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。
(島根県隠岐の島町の大城墳丘墓、四隅が写真のように突出している:ウキペディアより転載)
この墳丘墓は高志にも存在する。とすれば朝鮮半島にも存在するであろうとの妄想が湧く。実は妄想ではなく事実で、残念ながら新羅そのものではないが、高句麗の鴨緑江のほとり雲坪里に四隅突出型墳丘墓に似た墳墓が存在する。”う~ん、弥生の古代人は方位が読めるのか?”
2つ目の噺である。またまた地図を出していただき、伊勢神宮と出雲大社を直線で線を引いていただくと、下の写真のようになる。

その直線はなんと平城京、しかも平城宮跡の真上を通過する。またまたこれは何だ。偶然の一致か?。出雲大社の先を延長線上に従って伸ばすと新羅に至る。
以下、ゲスの勘繰りである。これはたまたまの一致ではない。奈良時代に至っても大和朝廷の最大の癌は、出雲の勢力であった。伊勢神宮の調伏力をたのみ、その線上の下に平城宮を建てたのである。さらにその延長上に新羅が存在する。
大和・奈良の朝廷は、天智天皇2年・白村江の記憶は強烈であった。白村江その新羅に対し伊勢もっと言えば天照大神の御加護を求め、その線上の下に平城宮を建立した。妄想であろうが、その宮殿には天照大神を祀る社殿とともに、出雲と新羅を調伏させる何がしかが存在したであろう。
古代の説話や歴史を証明するような方位軸の存在は、たまたまであろうか?それとも何らかの意識が働き、それを実現する科学が存在したであろうか。何か後者のように思われる。
先ず、Yahoo JPNのTOPページから地図をクリックし、島根県の地図を画面に出していただきたい。旧国名「出雲」に画面を拡大すると、出雲の神奈備四山が表示される。
神奈備四山とは、出雲国風土記(出雲国風土記では神名火山と記す)で云う意宇(おう)郡の茶臼山(地図では松江市の南東)、秋鹿(あいか)郡の朝日山(松江市の北西)、楯縫(たてぬい)郡の大船山(出雲市の北東)、出雲郡の仏教山(出雲市の東)である。
この神奈備四山の位置が分かったら、それぞれの神奈備山を線でつないでいただきたい。そうすると下の写真のようになる。

八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島、つまり出雲国であるという。
志羅紀(新羅)の三埼を引いた綱は薗の長浜(稲佐の浜)に杭は三瓶山に、都都の埼を引いた綱は夜見の嶋(弓浜半島)に杭は大山になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
これらの比定地として高志を北陸地方(越前・越中・越後)、都都を能登半島の北端珠洲岬に充てる説が有力である。
まさに国引き神話の配置そのものである。出雲風土記は大国主命が高志の沼河比売(出雲国風土記では奴奈宜波比売命)に求婚する説話も登場する程、高志は縁深い。
新羅は記紀によれば、五十猛の命が朝鮮半島から渡来した土地である。事実として出雲市川跡町・山持遺跡から弥生後期ー古墳時代前期の新羅製土器が出土する。 う~ん!!。偶然の一致か?・・・それにしても噺ができすぎている。もう一度上の写真を見て頂きたい。この図は四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)そのものである。この墳丘墓は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。

この墳丘墓は高志にも存在する。とすれば朝鮮半島にも存在するであろうとの妄想が湧く。実は妄想ではなく事実で、残念ながら新羅そのものではないが、高句麗の鴨緑江のほとり雲坪里に四隅突出型墳丘墓に似た墳墓が存在する。”う~ん、弥生の古代人は方位が読めるのか?”
2つ目の噺である。またまた地図を出していただき、伊勢神宮と出雲大社を直線で線を引いていただくと、下の写真のようになる。

その直線はなんと平城京、しかも平城宮跡の真上を通過する。またまたこれは何だ。偶然の一致か?。出雲大社の先を延長線上に従って伸ばすと新羅に至る。
以下、ゲスの勘繰りである。これはたまたまの一致ではない。奈良時代に至っても大和朝廷の最大の癌は、出雲の勢力であった。伊勢神宮の調伏力をたのみ、その線上の下に平城宮を建てたのである。さらにその延長上に新羅が存在する。
大和・奈良の朝廷は、天智天皇2年・白村江の記憶は強烈であった。白村江その新羅に対し伊勢もっと言えば天照大神の御加護を求め、その線上の下に平城宮を建立した。妄想であろうが、その宮殿には天照大神を祀る社殿とともに、出雲と新羅を調伏させる何がしかが存在したであろう。
古代の説話や歴史を証明するような方位軸の存在は、たまたまであろうか?それとも何らかの意識が働き、それを実現する科学が存在したであろうか。何か後者のように思われる。