抜歯の風習の拡散と民族移動
以下、安田教授の著述内容である。”4200年前と3200年前の気候悪化期と、それによる大陸北方からの畑作牧畜民の南下侵入によって、雲南や貴州さらには福建や台湾そして日本列島に逃れた人々と同じく、東南アジアに逃れた人々も、抜歯の風習を堅持していた。カンボジア・プンスナイ遺跡の2007年度の発掘調査では抜歯をもつ頭骨が発見された。
西日本の弥生時代の人骨が、中国大陸の山東半島や長江下流域の人びとの人骨と形質人類学的に類似していることは、金関丈夫氏の土井ヶ浜人骨の研究以来、広く認識されてきた。これに対し、縄文人に類似した形質人類学的特色を有する人骨は、大陸では発見されていない。
こうした事実から、弥生時代に稲作をたずさえた人々が大陸から渡来したことになる。しかし、その人骨には歯の形態において類似性が認められないのである。頭骨や手足の骨と違い、歯は一般的にゆっくりと形態を変化させる。弥生人の歯と一番近い形態を示したのは、タイ人の歯であるという。山東半島と長江下流域の人骨の歯も、まったく弥生人と似ていなかった。
さらに日本列島では縄文時代後期以降、抜歯が盛んとなる。そして縄文時代晩期から弥生時代にも抜歯の風習が存続した。ところが中国大陸では4000年前まで盛んにおこなわれていたが、それ以降は衰退し、日本の弥生時代の開始期にあたる春秋戦国時代には、わずかに梁王城遺跡出土の人骨にみられるほかは欠無となる。
一方でカンボジア・プンスナイ遺跡(前5世紀~後5世紀)では、後2~3世紀になっても抜歯の風習をもっている。歯の形態に中国大陸と日本の弥生人との間では、まったく類似性がみられず、タイ人と共通性がある点。抜歯の風習もタイやカンボジアにはあるが、中国大陸では4000年前以降衰退し、春秋戦国時代にはほとんどみられなくなる点。歯をめぐる二つの事実は、何を物語るのであろうか。”・・・以上である。
つまり抜歯の習慣は日本列島や東南アジア諸国に拡散し、中国本土でそれらの風習が絶えた後も残存した。日本では縄文時代の人骨から抜歯された頭骨が出土する。その抜歯は弥生時代の頭骨に引き継がれている。
それが、プンスナイ遺跡の頭骨にも認められると云う。プンスナイ遺跡は女王・柳葉(りゅうよう)が治めた扶南国(2世紀~6世紀)の一つの拠点であったと思われる。扶南はメコンデルタのオケオを外港として東南アジアのみならずインド諸国とも交易を行っていたと伝えられ、彼の地の遺物も出土している。その扶南の首邑はアンコール・ボレイであり、オケオとは運河で繋がっていた。その扶南はトンレサップ湖の北・プンスナイも領域にしていたのである。
<続く>