稲作を受け入れなかった縄文人
以下、安田教授の著述である。”鹿児島県上野原遺跡からは、11000年前や12000年前の土器が見つかっている。それ以上古い土器は、中国でも長江流域から発見された。縄文時代の上野原遺跡の時代に、長江流域では既に稲作が行われていた。1万年以上前に人々は稲作を始めて、土器を作っていたのである。その土器は、弥生土器と同じように、あまり表面にごてごてした文様がついていない。上野原遺跡の土器もこれと同じようにシンプルで、ごてごてした縄文土器特有の文様はなく、頸部がくびれた壺形の土器まである。このことは、既に1万年以上前に、長江流域と九州南部には交流があったことを意味するであろう。当時は現在よりも50m以上海面が低いために、東シナ海の幅も狭かった。舟に乗れば長江流域から九州の南端までは目と鼻の先である。交流があったと考えられる。
それを示す出土品がある。それは玦状(けつじょう)耳飾りで、長江下流域と九州南部のそれとには形態に共通点が多く、双方に関係があったと考えられる。
(花鳥山遺跡・山梨県笛吹市御坂町竹居 出土玦状(けつじょう)耳飾りで、南九州ばかりではなく全国的に出土する。 出典・山梨県HP)
福井県・鳥浜貝塚からは、シカの角でできた鹿角斧が百個近く出土していた。しかし、なぜこれが沢山出土するのかわからなかった。ところが、河姆渡遺跡でも同じようなものが出土していたのである。それらは、畑を耕す鍬の役割を果たしていた。さらに6000年前で縄文時代前期の富山県・桜町遺跡から、高床式の住居が見つかった。その木組は、河姆渡遺跡のものとまったく同じなのである。つまり、既に6000年前の河姆渡遺跡と日本列島の縄文人は交流していたのである。
6000年前には確実に交流があったにもかかわらず、明白な稲作の証拠が明らかになるのは4000年前である。この空白の2000年間、縄文人は稲作を受け入れなかったと考えざるを得ない。”・・・以上である。
時代はやや下るが紀元前200年ー紀元前100年頃の漢時代の巡行造船が江蘇省武進県から出土した。全長20m、幅1mで推定10~15トンで、50名近くが乗船可能であったろうと云う。ここまで大型船かどうかは別にして、勇猛果敢な人々が交流をおこなっていたであろうと考えられる。
<続く>