半栽培漁撈文明
安田教授は”縄文を「半栽培漁撈文明」として位置付けた。縄文文明は狩猟・漁撈・採集という旧石器時代の人類に普遍的な生活様式に、堅果類(ドングリ・トチノミ・クリ)の半栽培という特有の技術革新を付加して、アサやエゴマ、ヒョウタン、マメ類などの栽培を行い、森と海の資源とりわけ漁業資源を極度にまで利用する「半栽培漁撈文明」を発展させた。
しかし、縄文時代に文明はあったのか。文明は文字を有し金属器をもつのが一般論である。縄文時代には双方ともに存在しない。だが、稲作漁撈民が作り出した長江文明は、文字や金属器をもたない文明が存在しうることを明らかにした。
今までは、畑作牧畜民が作り出した文明を文明と云う名において呼んできただけであって、人類文明史には畑作牧畜民とはまったく異質の文明が存在したのである。
長江文明の人々は、文字よりも霊を重視した。それゆえ抜歯を行うことによって、言霊の出る聖なる口から邪気をはらおうとした。日本の縄文人もまた抜歯の風習をもち、文字よりも言霊を重視する文明を発展させたのである。いうまでもなく文字を発明した黄河文明の人々は抜歯の風習はなかった。
さらに長江文明の人々は青銅器よりも玉器を重視した。いうまでもなく縄文人も玉を重視した。玉器こそ縄文人の、そして稲作漁撈民の至宝であった。人類史における文明は畑作牧畜民の文明だけではない。にも拘わらず、その畑作牧畜民の文明要素をもってすべての文明を理解しようとしたところに大きな誤りがあった。
(青森・三内丸山遺跡出土ヒスイ製玉)
縄文時代の人々は狩猟・漁撈・採集活動と堅果類の半栽培を生業の基本とし、森と海の資源を極限にまで循環的に利用する技術を有し、平等主義に立脚し、戦争を回避する社会制度を維持し、土器作りや芸術活動に異常なほどのエネルギーをかたむけ、大規模な木造建築物を作り出す技術を有していた。そして女性中心の社会であり、生命の誕生と死をもっとも重要なことがらと考え、アニミズムの世界観を共有し、生きとし生けるものの命に畏敬の念をもって自然と調和して生きて来たのである。
長江流域の文化では玉を主体にするものが多い。中国の玉文化と云えば、「金縷玉衣(きんるぎょくい)」が思い浮かぶ。秦の始皇帝を援助した呂不韋(りょふい)が編集を監修した『呂氏春秋』に含珠鱗施(がんしゅりんし)という言葉がある。死者の口に珠玉を含ませ、その体に鱗のように玉片を並べることを云う。その珠玉を「含蝉(がんせん)」といって、セミの恰好をした玉を、死者の口に含ませる。
(台北・故宮博物院蔵 漢代含蝉玉 出典・故宮博物院HP)
玉は霊力をもち、死者にそれをもたせると、神と良好な関係を結ぶことができ、口に玉を含むと死体は腐らず、玉で覆うともとの姿を保つと云われた。
(出典・Wikipedia)
玉、故宮博物院と云えば、清代の白菜・玉が即時に頭に浮かぶ、台北を訪れた方は、故宮博物院でご覧になったであろう。漢族は翡翠をこよなく愛した。
<続く>