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藤ノ木古墳出土遺物の復元品

2022-02-13 07:59:48 | 古代日本

過日、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(以降、橿考研付属博物館と表記)へ。展示遺物については、今後順次紹介するが、展示ブースの最後に、藤ノ木古墳出土品の実物や復元品が展示されていた。発掘は橿考研が担当したいきさつから、橿考研付属博物館で展示されているのであろう。

藤ノ木古墳の出土遺物と云えば、煌びやかな金銅製品が出土した事である。これらの復元品が展示されていたので紹介する。

(上段には金銅製飾冠・下段には金銅製筒形品)

(鳥形歩揺(ほよう)が付く金銅製冠)

(金銅製大帯)

藤ノ木古墳の被葬者は、このような煌びやかな品々を身に纏っていたのである。被葬者は、大王(天皇)ないし、その皇子や第1級の有力豪族以外に考えようがない。この被葬者については、後段で少し触れてみたい。

藤ノ木古墳で、これらの出土品が新聞発表されたのは、1988年の第3次調査の結果であった。当時は、相当なセンセーショナルなこととして報道されていた記憶がある。

しかし、これらの金銅製品は、藤ノ木古墳の時代を遡ること70-80年前の越前から出土していた。越から大王位に就いた男大迹(おほど)王(おほどのおう:継体天皇)の時代に、継体天皇の地元から金銅製品が出土していたのである。藤ノ木古墳は古墳時代後期の6世紀後半である。この時期には、大和王権の地位は安泰で不動のものであったが、6世紀前半の継体天皇誕生前は、男大迹王の事例のように、地方の豪族の力にもあなどれないものがあったと伺われる。決して大和王権は不動のものではなかったのである。

藤ノ木古墳の出土物が、センセーショナルに報道された当初、その石棺から2体の人骨が出土した。その性別がハッキリしなかった頃は、被葬者について様々な説が流布した。

猪熊兼勝氏は一体は女性で、蘇我小姉君とその皇子説を唱えておられた。また黒岩重吾氏と門脇禎二氏は物部氏に近い大市御狩説であった。しかし、その後の人骨の分析により二体とも男性と分析されるに至り、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのおうじ)の合葬説が有力になっている。

それにしても筒形金銅製品の用途は、腰鼓といわれているが、果たして鼓の用をなしたのか・・・との疑問がある。さらに金銅冠の装飾についても諸説がある。このように有史、つまり史実に入った時代でさえ分からないことが多い。分からないことが多いからこそ、諸説乱れ飛ぶことになる。さて小生も妄想をしてみようかと・・・。

<了>



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