モアイのためいき

日々のこと・ハンドメイド・若い頃の旅など

父島*1989年*その7*余談

2011-09-22 23:41:20 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年3月*

平成になったばかりのこの頃、

まだ携帯電話もなく、インターネットも普及しておらず、

我々は父島にいる間、テレビを見ることもまったくなくて、

(テレビだって、このころ衛星放送でようやく見られるようになったらしい)

新聞もないので、情報のないところにいたわけですが、

数日のことでしたので何の支障もありませんでした。

先月だったか、テレビ東京の「アド街ック」という番組で、

小笠原について取り上げられていました(世界遺産登録記念的に?)。

それを見ると、お土産物も豊富にあるし、

ベーカリーもあるし、飲食店もおしゃれだし、

ずいぶん都会的に感じられました。

アド街ックだけではなく、テレビ番組で小笠原のことを放映すると、

「今はどうなっているのかな~」と、つい見てしまいます。

発展していくのは島の人々にとっては喜ばしいことでしょうけれども、

旅行者からすれば、素朴な小笠原の文化を失わないでほしい・・・、

島民の方々ごめんなさい。

さて、「その5*島内散策」で記した「ウェザーステーション」について、

自分の記憶に自信がないのですが、

1989年には確か、「三日月山展望台」とは別の場所だったようでした。

今回、「ウェザーステーション」でネット検索をかけてみたら、

三日月山展望台とウェザーステーションが同じ所にあるようですが、

画像からすると、新しく建て変わったのかもしれません。

「その5」を読んだ方で「あれ?間違っているんじゃない?」と思われた方、

あしからず、ご了承くださいませ。

おみやげ物に関して・・・、

何を買ったのか、正直あまり覚えていないのです

*「ハイビスカスティー」・・・小笠原でなくても、

たぶん、同じ物が沖縄や伊豆七島みやげにあったと思われる。

ちなみにあまりおいしくなかったです。

*「タマナの実のキーホルダー」・・・直径3㎝くらいのタマナの実を加工した物。

だいたい、小笠原で生産している物など、当時よくわからなくて、

・・・あとは貝の加工品とか、珊瑚もあったのかなぁ。

若かったのでひねくれていて、

「島外で作った物を運んできて、売っているんだったら、

みやげ物として意味ないじゃん」とあまり買わなかったのだろうなぁ、自分は。

父島から戻ってきて1週間ほど経った時、

父島から小さな小包が届きました。

バナナ荘で同じ部屋に泊まっていたTさんからです。

Tさんは卒論を書くために父島に行ったそうで、

我々の次のおがさわら丸で帰ると言っていました。

とっても物静かな方で、あまりお話できなかったのですが、

・・・さて、小包の中には・・・

タマナの実が、ころころ~っと10数個入ってました

父島ののんびりとした時間から、

現実世界に戻って、バイトに精を出して忙しくしていた身に、

なんとも、嬉しく、ほっこりさせられた贈り物

添えられていたTさんからの手紙には、

我々がおがさわら丸で帰った後のバナナ荘の夕飯のメニューとか、

(確かカレーが二日続いたとかで、妹と大笑いした)、

次のおがさわら丸が来るまでの父島の寂しさの様子などが書かれていました。

この時のタマナの実・・・まだ実家にあるかも。

父島で買ってきたハイビスカスティーは、大学のゼミ室に持って行き、

友人のクミちゃん(旅好き)に旅話をおやつに飲んでもらった

ハイビスカスティーが気に入ったのか

クミちゃんはこの2年後、小笠原に行きました。

帰路は貨物船「共勝丸」で40時間以上かかって帰ってきたそうで・・・。

さすがアドベンチャー好きクミちゃん。

高速船が就航するとか、飛行場が作られるとか、

そういうことがあればもう一度小笠原に行ってみたいと思いますが、

片道25時間かけてのおがさわら丸での旅はおそらくもうないと思います。

いや、飛行場など作ってほしくはないから、行かないだろうな。

1989年の父島の思い出を一層大切にしていきます。 

~ おしまい ~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その6*あっという間の・・

2011-09-19 14:13:22 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年・3月*

昭和から平成になったこの年、

時間があれば、色々な所を旅していました。

1月には飛騨高山、2月には北海道、そして3月に父島・・・。

北海道、それも宗谷岬で最北を体感し、

その半月後には半袖でいられる父島にいるのですから、

なんともフリーダムな時代でした。

学生だけど、本業バイトくらいに働いて、

世の中はディスコブームでしたが、そちら方面には興味はなかったもので、

旅費くらいはすぐに貯めることができました。まっとうなバイトです。

さて、小笠原が世界遺産登録になったのは、

島固有の動植物が評価されたということらしいですが、

我々が父島に行ったときには、

動植物について「これを見なければ」という意気込みなどはありませんでした。

ただ、緑に発光するきのこ(グリーンぺぺ?)など、

見られたらいいなぁと思っていた程度。

父島に着いた日の翌日、

せっかくきれいな海に来たのだからと、

朝、早起きして一人で大村海岸に行ってみました。

残念ながら曇天で薄暗い朝。

変わった貝など落ちていないかと思いましたが、

白いチョークのような珊瑚が浜一面にあって、そこに寝っ転がってみました。

誰もいない海。

話は前後しますが、

バナナ荘の面々と南島の遊覧から戻ってきたところで、

誰からともなく「小笠原まで来て、海で泳がないのはいかがなものか」、

・・・ということで、8人位で、

宿から近い大村海岸へ繰り出すことになりました。

卒論を書く為に来ていた同部屋のTさんにも声をかけてみると、

一緒に行くことに・・・そうそう、息抜きしなくちゃ

父島に来て三日目、ずっと曇天で、涼しく、

正直、水着では寒かろうと躊躇しましたが・・・海に入りました。

やはり・・・寒かった

このときに撮った写真は、寒さのためか、皆、身をすくめている。

早々にバナナ荘に戻りましたとさ

この日の夜が父島での最後の夜で、

夕食の後、父島のおみやげ物を見にお店をまわったりしました。

現代のようにもっと情報があれば、

うまいこと父島を回れたのかもしれませんが、

あっという間に時間が過ぎてゆきました。

翌日がおがさわら丸が東京に戻る日。

おがさわら丸の出航までは、宿の周りを散歩して過ごしました。

出航は確か11時か12時だったかな。

今は港のターミナルも立派になっているようですね。

父島を出航するおがさわら丸を見送るために、

追走する小船の光景は、今では知る人ぞ知る・・・ですが、

実際に見送られてみると、なんとも心に響くものがあります。

旅行者でさえこのような気持ちなのですから、

住民だった人が島を出る時にはいかばかりか。

桟橋には同部屋だったTさんも見送りに来てくれました。

あと、南島に一緒に行った、KさんとGさんも。

もう一サイクル残れるのが羨ましかったなぁ。

出航して、人々はしばらくデッキにいたまま海を眺めている人が多く、

すると、「あっ、鯨かも」という声が。

見送りの感傷に浸っていた人々も、「鯨」の声に色めきたち、

海原に目を凝らす。

・・・が、そう簡単には見えることはなく、

自分も、「ひょっとして今くじらの潮吹きだった?」くらいのが見えた程度でした。

東京に向かうおがさわら丸は、場所の指定はなかったので、

バナナ荘で一緒だった面々と車座のようになり、

・・・しかし、自分は船酔いが心配で、

念のためずっと横になって過ごしておりました。

この時、我が妹はトランプやおしゃべりで時を過ごしたようですが、

接待役を妹に任せられて正直助かった~

自分は結局船酔いはしなかったのですが、

父島から東京までの約28時間の記憶がほとんどないので~す。

とりあえず、日の入りと日の出は見たいと思って、

デッキには出たけれども、やはりに阻まれた・・・と思う。これもあいまい。

自分の中では昼頃父島を出航して、その数時間後の夕方、

東京に着いた感覚なのです。

竹芝桟橋に到着して、

バナナ荘の面々と記念撮影。

(この写真が偶然検索でヒットしたN先生のホームページにあって、驚いた

その後、すぐには別れがたく、浜松町駅の喫茶店でお茶を飲んでから別れました。

この、五泊六日の旅は、異空間にいたような不思議な旅でした。

南の島に行ったのに、ずっと曇天でブルーグレーの空。

静かな海、観光客も少なくて、世の中の情報からも離れ・・・。

ちょっと変わった旅だったなぁ。 ~ つづく ~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その5*島内散策

2011-09-18 14:26:33 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年3月*島内散策

父島での時間は意外と短い。

おがさわら丸の1サイクルでの旅程だと、

丸々1日フリーの日は、二日間しかありません。

島内を移動する手段としては、レンタカーとか、レンタルの原付バイク、路線バス。

われわれ姉妹はこの時運転免許を持っていなかったので、

離れたところへは路線バスで行きました。

日にちは前後しますが、父島に着いた日は、

午後から徒歩で大村界隈を散策しました。

小笠原ビジターセンター、聖ジョージ協会、郵便局、大村海岸、生協(お店)など・・・。

自分の旅の目的は、父島ってどんなとこだろう?という、

「なんとなく」的な部分が大きかったので、

あまりガツガツと動き回りませんでした。

父島へはダイビングや釣り目的で来ている人も多くいたし、

「秘境が好き」みたいな人はそのまま母島へ行く船に乗るし・・・で、

いわゆる自分たちのような観光客はあまり街中で見かけませんでした。

それでも、太平洋に浮かぶ島に来たのですから、

ぜひとも「ビーチ」には行ってみたい。

宿の近くの大村海岸は内地に比べたら十分きれいですが、

もっと、白砂のさらさらした所に行こうというわけで、

翌日、比較的行きやすい「小港海岸」へバスで行くことにしました。

いざ、バスに乗り込むと・・・バスといってもマイクロバスだったような・・・。

乗客は少なかったです。観光客は我々姉妹だけかも?

バスで30分も乗ったかどうか・・・で小港に到着

前述しましたが、我々が父島にいる間、ほとんど曇天で、

好天ならば小港海岸で泳いでもいいかなぁと一応水着は用意してあったけれども、

この日はトレーナーを着るくらいの涼しい気候だったので、

海水浴をするには勇気が必要だったのでした。

父島の中では小港海岸は一番一般的な海水浴場なので、

他に泳いでいる人がいるかと思ったけれども、

・・・そもそも人がいません。ここは小港海岸ではないのか

自分の感覚の中では、海水浴のできるビーチには、

お店やせいぜい自動販売機くらいあるだろうと思ってしまうのですが、

そういうのもないし・・・。

小港海岸からさらに歩いて行くと、もっときれいなビーチがあるというので、

気が向いたら行ってみようと妹と言っていましたが、

小港海岸があまりにも寂しくてすっかり不安になってしまい、

ここから歩いてどこかへ行くうちに迷って帰れなくなっても困るので、

早々に小港海岸をあとにすることにしました

この頃、まだペットボトルもなくて、飲み物も特に用意していなかったし、

食べ物もお菓子程度しか持っていなかったし。

小港海岸の少し南の「中山峠」という展望台で紺碧の海を臨みまして、

その後、どうせバスを待つなら道路を歩いてみようとてくてく進んで行くと、

「亜熱帯農業センター」があり、蒸し暑い温室の中の花を見て回り

そこからバスに乗って、境浦へ・・・。

ここには戦争の遺物「座礁船・濱江丸」がありました。

画像ではわかりにくいけれども、さびに覆われたような色合いでした。

後に読んだ有吉佐和子さんの「日本の島々、昔と今」によると、

第二次世界大戦中からあと、小笠原の住民は本土に強制疎開させられたそうだ。

欧米系の住民は戦後小笠原に戻りましたが、

島が日本に返還されたのは1968年のこと。

1989年のこの時はまだ20年余りしかたっていなかったのです。

曇天のせいもあるかもしれませんが、

島に漂う空気が「南の島の明るい陽気な雰囲気」ではなかったのは、

こうした歴史のせいもあるのかもしれません。

アオウミガメの研究機関である「海洋センター」で水槽を眺め、

てくてく歩いて、大村に戻ってきました。

気づいたらお昼ご飯を食べる間もなく・・・というかお店も途中にないし、

かなり空腹をかんじておりまして・・・。

外食できるところはあまりないのでしたが、

ある民宿(ペンション)がランチの営業をしていて、

そこで遅い昼ご飯にようやくありつけました

我々がバスと徒歩でまわる観光客だと知って、

そこのご主人が「ウェザーステーションまでで連れて行ってくれる」と、

親切にもおっしゃってくださり、好意に甘えてしまいました。

ウェザーステーションは距離はそう遠くはないようですが、

坂をグーッと上がったところにあるので、車は有難い

ウェザーステーションから太平洋の水平線を西に望み、

もし、夕日が沈む頃なら最高だろうなぁと思いをめぐらせる。

そこから、三日月山展望台へ行くことにして、

帰路は歩いて帰りますと、ご主人にお礼を言って別れました。

三日月山展望台からは大村を眼下にし、二見港がよく見えます。

撮影した写真がどれもスモーキーブルーの空なのが惜しまれる

ちなみに、夕日の時間ではなかったせいか、

ここでも観光客に会わなかったなぁ。

バナナ荘に戻ったところで、バナナ荘の宿泊者たちに、

「夜、カメ肉を食べに行かないか」と誘われたわけですが・・・。

(そのことについては  ←こちら)

のんびり過ごすというより、盛りだくさんの1日でした。 ~つづく~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その4*南島へ

2011-09-11 09:13:55 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島・1989年3月・その4

父島のバナナ荘で顔見知りになった方々と、

南島へも同行することになりました。

南島は父島の南西にある小さな無人島で、世界的にも珍しい地形らしいです。

現在は南島に上陸するのには人数制限などあるらしいですが、

1989年当時は、南島に行きたい人は港に行けば、

南島に行く遊覧船に乗れました。

「コーラル・シー」という遊覧船に乗船し、南島へ(値段は忘れました)。

あいにく、我々が父島にいる間、雨には降られなかったけれど、

雲がもくもくという感じで湧いていて、

南国特有の日差しの恩恵を受けることはありませんでした

この日も、船上では肌寒く、

もっとも内地にいればまだコートを着ても普通な時期ですから、

十分暖かいのでしょうけれど。

コーラル・シーのデッキで適当に座りながら、

ある者は父島を海からじっと眺め、

ある者は偶然にでも鯨に出会わないかと水平線を眺め、

潮風に吹かれていねむりしているうちに南島に到着

小さな湾のようなところでボートに乗り換えて上陸しました。

現在と違って、道の制限などなかったので・・・、

今となっては大変申し訳ないことに・・・・・・真ん中に寝っ転がっている自分。

カルスト地形に囲まれて。

・・・こんなふうに、銘々に動いていたわけですが、

同じ船で来た人たちは20人もいなかったのではないかしら。

そして、がつがつ動き回る類の人もおらず、

曇天のためか砂浜で海水浴をする人もあまりおらず。

のんびり散策する人ばかりでした。

・・・そうそう、砂浜の砂がとってもさらさらで、

曇天にもかかわらず海水がエメラルドグリーンだったのには感動。

(冒頭の写真です)

これで晴天だったなら、最高の景観だったでしょう。

こうして、静かに南島の時間は過ぎてゆきました。

砂を持って帰りたかったけれど、

確か、南島の物は持ち出し禁止と聞いていたので、持って帰れず。

南島のあとは、港に戻るだけでしたが、

風の影響か潮流のためか、北上する方が船の揺れが大きくて、

波を乗り越え乗り越えという感じで、

しばしば「お~っと」という乗船客の声があがりまして・・・。

そんななか、オバサン(ちょっと欧米系の面立ち・男性風)が、

当時まだ一般的ではなかった家庭用ビデオを回していたのが、

我々一行の中で非常に受けて・・・

撮影中に入れるナレーションの内容が妙におかしくて、

我々も「若者たちがいます」的に写されていたようです。

オバサンの同行者でちょっと若めのおじさんは、

ビデオカメラの前でポーズをとったりして、そのポーズも可笑しかった。

当時のビデオカメラは重かっただろうなぁ。

帰路、船が結構揺れたので、ちょっと顔が青ざめた人もいましたが、

無事、港に到着。

20数年経った今、正直言うと南島の景観はあまり覚えていないのです。

写真で見て、「こうだったなぁ~」と思うわけで。

ただ、可笑しかったオバサンとおじさんの顔は覚えているの。

記憶と感情の結びつきって重要なのですね。 

父島とあまり関係のない話題でした。 ~つづく~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その3*カメ肉のことなど

2011-08-20 09:20:13 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島・1989年3月*その3

父島は当時、船で28時間以上も揺られ、

定期船おがさわら丸は五日か六日ごとに父島に入港するサイクルで、

つまり、それまで内地からは物資が届かないというわけで、

おがさわら丸が着いたその日は、人々が商店に向かう日でもあります。

我々は旅行者なので、できるだけ島内の方に迷惑をかけたくはないと、

あえて、商店が混んでいない時に行ってみました。

すると・・・菓子パンなど、すぐに食べられるものはほとんど売り切れ(当たり前か)。

普段はあまり食べないジャムパンを一個、とりあえずの昼食のために確保しました。

商店には新聞の何日か分の束がセットになって売られております。

確か、テレビがようやく衛星放送で受信できるようになった時代で、

それ以前は情報もすぐには入ってこなかったのでしょうか。

さて、バナナ荘の周辺はいわゆる繁華街・・・というか、

多くの宿泊施設や商店や官公庁がある地区にあったので、

散策するのにも便利でした。

郵便局はカードでお金が下ろせるのかしら・・・と思って行ってみると、

電卓のようなの暗証番号を押す機械があったような気がします。

ふと、公衆電話ボックスに入って、電話帳を広げてみると、

欧米系の方が日本名にしたという苗字がずらっと並んでいました。

父島についてからは結構カルチャーショックというか、

日本でありながら少し違う国にいるような、そんな感じでした。

現在は当時ほど、父島と内地の差はないのかもしれませんが。

話はバナナ荘で出会った一人旅の面々のことになりますが、

我々と同様になんとなく南の島に行ってみたかったような学生が多かった。

思い起こせば難関大学の人が多く、

早稲田のKさん、Bさん、一橋のIさん、ICU出身のN先生、山形大のHさん。

あと、なぜか高校生のG君(ちょっと正体不明だったが)。

父島への旅行のことを思い起こすにあたって、インターネットで検索をかけたところ、

思いがけずバナナ荘で出会ったN先生の旅日記にヒットしてしまい(驚き)、

それを読むと、思い切って我々姉妹に声をかけてくれたようです。

彼らは見かけからしてもやましい下心は感じず、

こちらも化粧っ気もなく小汚い風貌だったので、声をかけやすかったのでしょう。

こうして連れ立って、小笠原名物「カメ肉」「島寿司」を食べに行くことになりました。

そのお味は・・・

カメ肉・・・刺身を食べましたが、正直好んで食べるものではないと

動物性たんぱく質の補給には島の人にとって格好の獲物だったのか。

刺身を食べた後に煮込みも食べて見ましたが、

お醤油で臭みが減った分だけこちらの方がよい。

スジ肉の印象でした。

島寿司・・・ヅケにしたお魚をわさびの代わりにからしを付けて握ったもの。

これはこれでおいしかったと思います。

お魚の種類は忘れました

姉妹だけだったら、これらの名産物を食べずに帰ってきたかもしれません。

その時、彼らと何を話したのかはほとんど覚えていないけれど(スマン)、

カメ肉のスジの感じとか、

盛り付け方が小料理屋さん的な情景は覚えております。

誘ってくれた彼らに感謝 ~つづく~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その2*バナナ荘

2011-08-07 20:59:05 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島・1989年3月*その2

おがさわら丸で約28時間揺られ・・・、

現在はもう少しパワーアップして25時間位で着くようですが・・・、

無事に父島二見港に到着しました。

船から下りた人々は、皆陸地を踏みしめて確かめつつ、

「まだ揺れてるよ~」と口々に言っています。

港には、民宿の案内の方が来ていて、

自分も、妹と共に、予約を入れていた「バナナ荘」のところに行きました。

まだ宿が決まっていない人たちを呼び込み、

10人前後だったか・・・でバナナ荘へぞろぞろと向かいました。

どうやら、バナナ荘では、男女別相部屋が基本で、

いわゆる「ユース(ホステル)民宿」のようでした。

我々の同室は、山梨から来た女子大生のTさん。

卒論を書くために父島にやってきたそうですが、きれいで、物静かな方でした。

バナナ荘で女将さん(この言い方はそぐわないかもしれませんが)に会って、

予約を入れたときに感じた訛りの理由がわかりました。

欧米系の方だったのです。

父島に最初に住みついたのは欧米系の人種なので、その流れを汲む方なのでしょう。

お名前も、J〇〇〇さんというらしい。

その、Jさんに、「ちょっと、領収書を書いてくれないかしら」と、

宿泊代の領収書の代筆を頼まれました。

こうして、何枚かの領収書を書きますと、

宿泊者の中には欧米系の大平〇〇(=カタカナ)さんもいて、

Jさんとは何年ぶりかの再会らしいです。

大平さんというのは、後に読んだ有吉佐和子さんの著書によると、

欧米名はワシントンさんなのだそうです。

バナナ荘について早々に、父島の歴史を感じてしまった場面でありました。

お部屋は和室で文机が置いてありました。

女性の宿泊者は我々姉妹とTさんの3人です。

我々姉妹が島をうろついている間、Tさんはこの文机に向かっていたのでしょう。

Tさんはほとんど観光をしていない様子でした。

あとで妹と話していたのですが、TさんはJさんと親戚か何かではないのかと・・・。

Tさんのお顔立ちも少し白人ぽかったし。あくまでも想像ですが。

卒論の邪魔をしてはいけないと思い、あまりお話もできなかったのでした。

男性の宿泊者は年齢層が色々でした。

若い人たちは「ユースホステル」に泊まるつもりでいたみたいなのですが、

満室のため、バナナ荘に来た人が多かったようです。

そんなわけで一人旅の若者たち何人かと、

その後一緒に「カメ肉」を食べに行ったりすることになるわけです。

父島へ一人旅する若い男性・・・何を目的に?・・・と思いますが、

自分と同様に、「なんとなく・・・南の島に来てみたかった」的な人が多いみたい。

新島など、伊豆方面だとナンパ目的の軽そうな男性もいそうですが、

さすがに片道28時間も船に揺られて来る方々、

見た目、ちゃらちゃらした人たちは少ない模様でした。

バナナ荘の食事はあまり覚えていませんが、

島ならではの食事ということではなかったと思います。

そのため、宿泊者の方たちと、島の名物「島寿司」「カメ肉」を

居酒屋に食べに行くことになりました。

~つづく~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島*1989年*その1*おがさわら丸

2011-08-04 12:37:12 | 小笠原・父島*1989年

<おがさわら丸・パンフレット>

1989年3月16日、朝、東京・竹芝桟橋を父島へ、おがさわら丸は出航しました。

父島とは、東京から南南東へ約1000㎞の小笠原諸島の主島です。

なぜ、小笠原に行ってみたいと思ったのか、

今となっては明確には思い出せませんが、

ちょっと変わったところに行ってみたいと・・・、

そんな軽い気持ちだったのではないかと思います。

その当時、日本はたぶんバブル時代で、

学生だった我々にとっては、海外旅行に行くことも珍しくなく、

もちろん、その為にバイトで汗水たらして、働いて貯めたお金で行きましたが、

そんなわけで、仲のよい友人たちは、春休みに、

「イギリスへ1ヶ月行ってくるね~」とか、

「トルコ、エジプトへ1ヶ月さすらってくるよ~」とかいう感じで、

父島に一緒に行ってくれそうな友人はいませんでした。

とはいえ、父島と言えば「海」。

亜熱帯の海ならば水着になることもあるでしょう。

さすがに、女子大生一人では水着で海を楽しめないのではないかと思い、

旅費を持つという条件で妹を道連れにしました。

妹とは普段はほとんど一緒に行動はしませんが、

やはり女子大生だったので、時間はあったのです。

父島へは当時、おおむね6日周期でおがさわら丸が出航していました。

東京を朝出航して翌日の昼に父島着~父島で3泊停泊して、

5日目の昼に父島を出航して翌日夕方に東京着というパターン。

大体、28時間くらい船に揺られることになるので、

実のところ、船酔いも心配でした。

一等船室なら揺れは少ないのかしら・・・と思いつつ、

学生の身の上、豪華な旅は不要と、当然二等船室を予約。

確か、往復で一人3万円くらいだったような(記憶が不鮮明)。

いや、もう少し安かったかな。

次に、宿の予約。

ガイドブックを買ってきて、なるべく便利そうな立地の民宿にしました。

「バナナ荘」・・・当時の言葉で言えば、ナウくない感じですが、

そこになんとなく惹きつけられて・・・に電話してみました。

果たして、電話に出てくれた方は、ちょっと訛りのある中年の女性で、

こちらの名前などを何度も聞き返されたりして、ちょっと心配になってきました。

それとも父島は電話の回線が遠くて聞き取りにくいのか

もし、予約がうまく取れていなくても、

おがさわら丸に「ホテルシップ」という、停泊中の船に泊まることもできるので、

まぁ、いいか~と。

こうして、3月16日早朝に横浜の自宅を出発して、東京・竹芝桟橋へ。

無事、船上の人となりました。

おがさわら丸は約3500トン。

東京湾は意外と船が多くて、デッキから海上を眺めるのも楽しくて、

しばらく風に吹かれておりました。

さて、二等船室はどこかしら・・・と、番号札を持ってさがしていると、

(番号札255・・・冒頭の写真に写っています)

カーペットのフロアに、ずらーっと枕が置いてあって、

その間隔が思ったより狭い

見知らぬ人とこんな狭いところで雑魚寝なのか~と、ちょっと気分はダウン。

そして、ところどころに、アルマイトの洗面器がある。

船酔いで、間に合わなかった人の為用かリアルだ。

せっかくなので船内を妹と探検してみました。

食堂やシャワー室など、ちらっと見て回り、

トイレに行ってみると、多分、嘔吐の人用のトイレっぽいものが・・・

お世話になることがなければ良いが。

そして、下の階に行ってみると、そこにもカーペットのスペースがあるのだけれど、

フリースペースになっているみたい。

自分たちの寝床はあんなに狭いのに、こんな広いとこがあるじゃん、と

妹と荷物を持って、こちらに移動してきました。

夕刻、海に沈む夕日はぜひ見たいと思い、外へ出てみましたが、

あいにく、雲が多い日の入りとなってしまいました。残念

さすがに外洋に出てからは本格的に揺れはあって、

波を乗り越えてゆくように、常に浮遊感とGが掛かる感じがありました。

船底に近いスペースにいたためか、エンジン音?も豪快で、

いや、「快く」はありませんでしたが、

それでも、周りに人はまばらで(他にもこの広いスペースを見つけて来た人有り)、

心置きなく寝っ転がっていられたので、さいわい、船酔いにならずにいられました。

上方に取り付けられたテレビを何とはなしに見ていましたが、

それも、だんだんと電波の状況が悪くなってきて、

ザザッザザッと画面にノイズがはしり、

ついに映らなくなったのが、妙に印象的でした。

そのうちに、船のスタッフの方が、「こちらは閉鎖します」と知らせてきたので、

嫌々ながら、本来の自分の陣地へ行きました。

もう、夜になっていて、寝っ転がっている人が大半で、

自分も船酔いする前に寝てしまおうと、すぐに眠ってしまった

隣に人がいたはずなのですが、そのことはまったく覚えていません。

妹は他の乗客と少し談話をしていたみたいで、

島に何年かぶりに帰る人の話とか、夜中に洗面器に向かう人がいたとか、

そんなことを、後になって聞きました。

さて、早朝、今度は海から上る朝日が見たくて暗いうちに起きたのですが、

相変わらず揺れていて、

手摺につかまりながら外に出たような・・・、

白ずんでゆく朝、しかし残念ながら雲が多い空、

それでも、雲の切れ間から太陽を確認して、菓子パンを頬張りました。

潮風が少し寒かったような・・・凍えることはなかったけれど。

結局、船の揺れの為か食欲はあまりなくて、

食堂に行ってみようかという気も起こらずに、1日が過ぎてゆきました。

船酔いしないようにするには、自分には横になっているのが合うようです。

こうして、横になりつつ、うとうとと時を過ごし、

父島がやがて大きく見えるようになってきて、

父島二見港到着。いざバナナ荘へ

~つづく~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成元年*父島への旅

2011-07-31 08:57:56 | 小笠原・父島*1989年

東京都の小笠原諸島が世界遺産に登録されましたね。

20数年前、学生時代に、小笠原の父島に旅行で行ったことがあります。

なぜ父島に行きたかったのか・・・。

今となっては、そのきっかけさえも思い出せません。

父島に行った思い出も綴ってみたくなり、

先日、試しに「父島」と、あるキーワードで検索をかけてみました。

トップに出てきた記事はどなたかの旅日記のようです。

なかなか面白く読み進めて行き・・・、

衝撃を受けたのは最後のほう・・・、

「皆さん、お元気ですか?」のあとに、

なんと、自分が写真に写っているではありませんか~~ いやぁ、驚いた

つまり、父島で顔見知りになったN先生の記事だったのでした。

読んでいる途中では気づかなかったのです。

ブログではなく、こちらからコメントすることもできませんが、

「N先生、我々は元気ですよ!」

父島に行くにあたり、さすがに一人で行くという感じではありませんでした。

泳ぐにしても、女子大生がひとりでいればわけありっぽいし、

自分自身も楽しめまい。

かといって、東京から船で1日以上かかり、行って帰ってくれば最低六日間かかり、

船酔いも覚悟しなければならないところに、気軽に友人たちを誘うこともできず、

それ以前に友人たちはそれぞれ海外へ行く計画があり、

それなら、旅費を出してあげるという条件で、

自分の妹を道連れにすることにしました。

普段はあまり一緒に行動することもない妹ですが、

さいわい、妹も女子大生で、時間はあったのであります。

妹にもこの件を伝え、N先生の記事を早速読んだようで、

昨日妹に会ったので、父島の思い出話などをしてみました。

お互い記憶が曖昧になっていることも多かったなぁ。20数年前のことだし。

この時はあえて旅日記も書いていなかった。

そんな感じで、写真を見たり妹の話やN先生の記事から思い起こしながら、

のんびりと父島の旅について綴ってみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする