モアイのためいき

日々のこと・ハンドメイド・若い頃の旅など

30年近く前にイースター島へ

2018-09-30 11:46:16 | イースター島*1990年

お題に参加してみます。

学生時代・・バブル時代だったのでしょうか・・。

友人のクミちゃんとスキーしている時に、「南の島へ行きたいね」という話題から、

何故だか、タヒチに行くことになり、

調べているうちに、タヒチからイースター島へ飛行機の直行便があることを知って、

イースター島へ行くことにしました。

バブル時代だったとはいえ、一生懸命にバイトしてお金を貯めての、バックパッカーに近い旅行でした。

タヒチに着いてから地元の観光会社で飛行機のチケットを買ったので、

日本でチケットを手に入れるより、安かったと思います。

イースター島には4泊5日しました。

民宿は、イースター島に着いてから空港で客引きの中から決めました(当たりでした)。

今考えると、学生時代は行動力にあふれていたのだなぁ。

イースター島は当時、舗装された道路も無く、観光地でありながらのんびりした印象でした。

観光客はあまり見かけなかったなぁ。

話はそれますが、我娘B(社会人)は来年イースター島へ行く予定らしい。

自分が行った時はフィルム代をケチったためか写真もそう多くは撮らなかったけれども、

娘Bには街並みなども写してもらいたい。

イースター島の旅日記は、ブログにまとめてあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その11*最終日

2009-05-23 22:05:52 | イースター島*1990年

~1990年・イースター島5日目(最終日)~

天気に恵まれた五日間、現在ほど紫外線の恐怖は言われていなかったので、

日焼け止めは軽く塗っていた程度で、この頃、皮がちょっとむけ始めました

イースター島の主な見どころは見ることができましたが、

島内を歩いて、教会以外ではあまり人々を見かけず、

生活感に触れられなかったのは、心残りでした。

最終日、飛行機は夕方の出発なので、それまでは友人クミちゃんと、

ハンガロアをうろついていました。

小学校(中学校かも?)のあたりでは、白いシャツに紺色のジャンパースカートの

制服姿を見かけました。清潔感のある、かわいらしい子が何人か

にこにこ近づいてきて、我々もなんだか嬉しくなり、

「一緒に写真を撮る?」と聞いたら、はにかみながらも写ってくれました

郵便局で、イースター島から絵葉書も送ってみました。

家に帰ったらモアイの消印が押された葉書が届いてました

ハンガロアの小さな食品雑貨屋で、おみやげになるものがないかと

クミちゃんと探していたら・・・そうだ・・・

毎朝民宿で飲んでいた「ネスカフェのインスタントコーヒー

これが、日本のものよりおいしく感じられたので、買い!

それから日本にもあると思われた「マギースープ(粉)」。

このお店のおばさんは、店頭でカセットに合わせて「ラパヌイへ~」と

歌っていて、クミちゃんも私もそのフレーズが耳について、

つい歌ってしまう有様でした。何の歌かは不明。

クミちゃんがおばさんに写真を撮っていいかと問うと、写ってくれました

我々日本人を見かけて、珍しがって話しかけてくれる人も数人いらっしゃいました。

ある青年は、日本のサーフィン情報について尋ねてきましたが、

残念ながらサーフィンには詳しくないので話しが盛り上がらず・・・

イースター島では、とうとう舗装された道はありませんでした。

車もあまり見かけず、馬に乗った人がいたほど・・・。

世界的な観光地なのに、儲けようという感じがなく、

心が洗われるような時間を過ごさせていただきました。

民宿のおじさん、おばさん、息子くんと記念撮影をして、

折り紙のくす玉をプレゼントし(外国人は折り紙を喜ぶと当時言われていたので)

空港まで、おじさんに車で送ってもらいました。

おじさんは少しおしゃれな格好をして、サンチアゴから来た

お客さんをお出迎え。チリから来る乗客のほうがかなり多いようです。

我々も空港での客引きの様子を見ていましたが、

ここで、島に来て3人目の日本人男子学生に会いました。

 客引きの人々です。

日本人の彼はとある民宿の客引きを手伝いに来たそうです。

彼の情報によれば、民宿によっては、トイレが流れないで逆流するとか、

ひどく不潔・・・、の所もあるとか。

我々は幸い、よい民宿に泊まることができて、快適な旅となりました。

飛行場で時間があったので、みやげ物を見ていました。

うけ狙いで買った、モアイ柄のタンクトップ(7US$)・・・

写真を載せたいくらいですが、すそにレースがついていて、

モアイとレースの組み合わせがシュールです。いわゆる「いやげもの」。

あと、石のモアイは重いので、木製のモアイを買いました。

いよいよ、イースター島に別れを告げる時がきました。

18:00頃離陸し、タヒチのFAAA空港へ向かいます。

ランチリのおいしい機内食を堪能し、今度は時計の針を4時間戻し、

太陽とともに、西へ西へ。

タヒチ時間の18:00頃、島影が大きく近づき、タヒチに戻ってきました。

こうして、イースター島の旅は終わりました。~おしまい~ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その10*7人のモアイ

2009-05-22 23:34:07 | イースター島*1990年

~1990年・イースター島4日目・7人のモアイ~

イースター島も4日目の朝を迎え、そろそろタヒチに向かう飛行機の

リコンファームをしなければなりません。

イースター島内に、ランチリのオフィスは、その頃、島に唯一のホテル、

「ホテルハンガロア」の中にあったので、朝から出向きました。

さすがに、ホテルという感じで、1泊100US$位するらしかったので、

我々には高嶺の宿です。でも一泊位しても良かったかしら?

それから、7人のモアイ・・アフ・アキビに出掛けました。

地図では、片道5kmくらいなので、またもやのんびりとウォーキング・・・。

途中で道が合っているのか不安になったときには、

たまたますれ違った地元の人に「セブン?」と指を7本立てれば、

方角を指差してくれるので、比較的順調に行けました。

道の左右は乾いた林のようなところだったりして、

あまり見通しが良くなかったのですが、たまに民家もあるようで、

「ハポネス?」と姿が見えないところから声が聞こえたりして、

多少ミステリアスでもありましたが・・・。

視界が開けてきて、7人のモアイが見えてきました。

ここには観光客の一行がマイクロバスで来ていましたが、

入れ替わるようにいなくなったので、ゆっくり写真撮影しました。 モアイの横顔や・・

 海を見つめる後姿・・

海が近そうに見えますが、多分地図上では3km位あるのではないかな。

ここでもしばらくクミちゃんと二人でモアイを堪能して、帰途につきました。

ハンガロアに戻り、「そうだ、博物館に行ってないね」ということに気づき、

またもや道がはっきりわからず、博物館というスペイン語もわからず、

通りかかった女の子に英語で聞いてみたら、

きれいな英語で教えてくれました。英語教育が行き届いているのかと、

ちょっと羨ましくもあり感心もしました。

博物館は小さな建物で、クミちゃんは「モアイの目」を見るのを

楽しみにしていたのに・・・なんと・・・

「モアイの目」はたまたま日本のどこかに展示されに出掛けていたらしい。

イースター島に来るまでモアイに目があることを知らなかった我々・・・、

入れ替わりで、日本に行ってしまっていたとは

イースター島の夜も最後になりました。

暗くなるのが遅いので、折り紙でお花を折ってためていたのを

糸で固定してくす玉を作っていました。

それから、南半球の空を眺めに通りへ出て、

横になっていた南十字星を見てから、眠りにつきました。~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その9*

2009-05-21 21:16:11 | イースター島*1990年

~1990年・イースター島3日目・夕方~

ラノ・ララクのミニツアーから戻ってきて、少し休み、

ハンガロアへ散策&買出しに出かけました。

ところでイースター島に来る時にはUS$しか持っていなかったけれど、

町での買い物はペソ(P)です。着いた日も翌日も銀行は閉まっていたので、

とあるお店で両替をお願いしたのですが・・・。

使えないコインが混ざっていたよ~

日本人だから文句を言わないと思ってなめられたのか・・・

若い女性の店員さんだったけど、パスクア人ではなかったような。

私たちは大体、1US$=300P=150円で計算していましたが、

売っている食べ物などは、日本の物価とあまり変わらない印象でした。

後に出会ったチリから来た日本人に聞いた話では、

チリより物価が3倍くらいしているようです。島なので、仕方がありませんね。

民宿の朝食は、パン、クッキー、日本のマドレーヌのような物、

ジュース、インスタントコーヒー(ネスカフェ)でした。

パンが2種類あって、そのひとつが私にとってはどうしても口に合わず、

(まるでダンボールを食べている感じ・・作った方すみません)

こっそり持ち帰って、クミちゃんに食べてもらっていました。

クミちゃんに言わせると、「重曹が入ったパン」ではないかと・・・。

好き嫌いはあまりないはずの私ですが、飲み込めなかったです。

こういった食生活で、昼も夜も節約食事の中、この日はハムを買ってきて、

「リッチだね~」と喜んでいました。

民宿に戻ると、おじさんが、お友達となんだか陽気なご様子。

「一緒に軽く飲みましょ~」と持ってきたのは、ピスコというお酒とコーラです。

コークハイのように割ってくれて、乾杯・・・するとおじさんが

「イ~ッキ、イ~ッキ

と踊りだすではありませんか

そのころ、日本では確かに「一気、一気」の一気飲みがはやってはいましたが、

地球の裏側の絶海の孤島まで浸透しているとは!

今のようにインターネットも普及していないしね。

日本人の我々を喜ばせよう(驚かそう?)としてくれたのかな。

おじさんがあまりに陽気すぎて、とまらなくなったらどうしようと恐れて、

クミちゃんと私は軽く調子を合わせるにとどめ、部屋へ退散することにしました。

おじさん、ありがとうね、でもちょっとついていけなかったョ ~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その8*ラノララク

2009-05-20 23:48:00 | イースター島*1990年

~1990年3月・イースター島3日目~

9:40am頃、民宿の4輪駆動車で、ラノ・ララクへ出発

運転手は20代前半と思われる、民宿の息子さん。

同行者は神経質そうで30代と思われるイギリス人男性と

我が友人クミちゃん、そして私です。

イースター島の気候は、我々が島についてからすこぶる良好で、

暑いながらも風がさわやかに感じられました。

さて、車はハンガロアを出てから、道なき道のようなところを

進んで行きます。周りにはなにもなかったように記憶しています。

当初の予定通りクミちゃんと二人、徒歩で出かけていたら、

途中でさまようことになったか、疲れて動けなくなったか・・・

ラノ・ララク・・・モアイの製造地のようなところに到着しました。

なんとも不思議な光景です。モアイが半身で埋まっていたり、

作りかけのモアイが岩場に残っていたり。

息子さんはあまり愛想のある方ではないようですが、簡単にガイドをしてくれて、

とは言っても、私の語学力ではあまり理解できなかったのですけれど

石切り場は小高い丘のようになっていて、

上のほうまで、時間をかけてゆっくり見ました。

息子さんが「ハンガロアに雨が降っている!」と言うのでその方角を見ると、

まるでそこだけ空から薄ぼんやりとした幕が下りているようで、

まわりに遮るものがなく、空気もきれいだから、

こんな幻想的な光景が見られるのだと、感動的でした。

ほどなく、虹もかかりました

さて、現在はトンガリキという所に、日本の企業がモアイを復元したそうですね。

1990年は、残念ながら復元されておらず、

トンガリキはチラッと見てあまり印象に残らず・・・。

そして、島の北部にある、白い砂浜の海岸に着きました。

イースター島の地質とはまるで違う、細かい白砂です

クミちゃんはもと水泳部で泳ぎも得意なので、水着になって泳ぎました。

一方私は、なんせ時差ぼけが残っているのか、水着を後で洗ったり、

砂や塩でべたべたするのがめんどうで、水着を持って行きませんでした。

木陰でゴロゴロしたいと思ったのに・・・あまり木陰がないよ~

文科系イギリス人も所在無く砂浜をうろついてました(全く愛想がない)。

息子さんといえば・・・なんと小さな岬の先端で、

一人黙々とカラテの型に取り組んでいます

彼は、あまり愛想がないのですが、私たちが日本人ということで、

「自分はカラテを習っていて、沖縄に行ったことがある」・・と

自分の事に関して、このことだけ話してくれました。

イースター島から沖縄に行くのは、ものすごく大変な気がするけど、

ひょっとして、「行きたい」って言っていたのかしら(自信のないヒアリング)?

こうして一行は14:00頃、民宿に帰ってきました。

今日の行程でも、ほとんど観光客と会わず・・・。

作りかけのモアイをゆっくり見ることができて、紫外線もたっぷり浴びて

~続く~

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その7*民宿

2009-05-18 23:42:13 | イースター島*1990年

~1990年3月*イースター島2日目~

ラノ・カオからのんびり戻ってきて、ハンガロアの小さなマーケットで、

夕飯を調達。日持ちしそうなラスクと果物とヨーグルトなど。

友人のクミちゃんも私も、学生で、バイトして貯めたお金で来ているので、

どうしても食費を節約することになってしまいます。

夕飯を民宿で用意してもらうと1泊25US$。朝食だけなら15US$。

10US$(約1500円)の差は大きいのです

泊まっている民宿は、おじさん、おばさん、20代前半の息子さん、

そして、10歳くらいの息子さんがいて、

お部屋は新しくはないけど清潔な感じで、

おじさんが優しく接してくれたので、居心地はよかったです。

朝食時に食堂に行くと、我々のほかには欧米人の年配のグループと

個人で何人かが泊まっていたようでした。

おじさんの方から、「明日、車でラノ・ララクへ行きたがっている人がいるけど、

一緒にいかが?半日で3人で50US$だけど」とお誘いがありました。

ラノ・ララクとはモアイが作られた石切り場のような所で、

地図では15km以上ありそうですが、「地球の歩き方」では、

徒歩での行程が書かれています。

当初はクミちゃんと徒歩で行くつもりでいましたが、

ラノ・カオに行く途中で会った日本人学生の情報では、

徒歩ではやめたほうがいいとのことでした。

そんな時、おじさんからの提案は願ってもないことで、ラッキーでした

もう一人の同行者はイギリス人の30代くらいの神経質そうな男性。

「3人で50US$」という割り切れない数字に対して、

何の相談もなく「16US$」出してきました

ちょっと「え~っ?」と思いましたが、言い返す語学力もないしな・・・。

さて、その日の夜、民宿の我々の部屋に意外な訪問者が

イースター島に入国する時荷物検査で念入りに調べられていた、日本人青年です。

我々がここに入って行くのを偶然見かけた様子で、訪ねてきたのです。

彼は個人旅行を何度かしているそうなのですが、それにしては、

バックパッカーには程遠く、出張っぽい雰囲気を醸しだしていました。

この民宿を訪ねる前、一人で島のディスコに行ったらしいのですが、

日本人ということで、ちょっとボラれたらしい・・・

おおよそディスコが似合うとも思えないのに、チャレンジャーなのはあっぱれ

でも、ボラれたことを日本人に慰めてもらいたかったのでしょうか?

年上だけど、「大丈夫ですか~」と心配になりました

我々にとってはイースター島で話した2人目の日本人。

ひとしきり雑談して、「日本の味が恋しくなったらどうぞ」と、

インスタント味噌汁を置いて、帰っていかれました。

青年とこのあと出会うことはありませんでしたが・・・お味噌汁ごちそう様。

旅の途中でとってもおいしくいただきました ~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その6*ラノ・カオ

2009-05-16 23:44:32 | イースター島*1990年

~1990年3月イ-スター島*二日目・ラノ・カオへ~

日曜日の朝、薄暗いと思いましたが、天気はいいようです

8:00am頃から明るくなり始めたので、標準時の関係なのでしょうか?

朝食後、民宿のおじさんが「教会に行く」と言っていたので、

我々も興味本位で(すみません)ついていきました。

おじさんはフリルのついた白いシャツに着替えて、よそいきモード。

友人のクミちゃんは結構ウケていました

教会は「イースター島にこんなに人がいたんだ~」と思うほど人が集まっていて、

賛美歌は力強く、宗教のちから・・・というのかな・・・を感じました。

さて、その後の計画は、「地球の歩き方」というガイドブックを参考に、

島の南西部にある、ラノ・カオという火口湖を見に行くことにしていました。

食料などを買って、さぁ出発

ガイドブックでは、歩いて片道1時間半くらいとあります。

学生だった私たちは比較的歩くのは苦にならないので、

のんびり歩き始めましたが、途中から、お互い、

「思ったより時間かかるかも・・・?」と疑念がわいてきました。

火口湖を見るために登りが続くのですが、先が見えない

そして、ここで、レンタルバイクをひきながら、下りてきた、

日本人学生(男)と出会いました。

彼によると、「地球の歩き方」はかなりの健脚向けに書かれている

ということなので、時間も、多めに見積もったほうがいいとのことでした。

ちなみに彼は借りたバイクが故障してブルーになっていた模様で、

あまり話すことなく、その場を去って行きました。

とはいえ、この先を行けば間違いなくラノ・カオに着くことがわかり、

クミちゃんも私も少し元気復活

そして、彼の情報によって翌日からのスケジュールも見通しが立ち、

そんなことを話しながら、ラノ・カオに到着

暑いながらも、海から吹くような風が心地よく、火口湖も神秘の色合いで、

来た甲斐がありました

周辺のオロンゴの遺跡というのも見ましたが、実はあまり印象に残っていません。

日記を見ると、オロンゴで450P(約225円)払っているのですが、

そういった施設があったかさえ、覚えていないのです。

とりあえず、海の深い青さの美しかったことに感動しました。

そして、ここでもほとんど人間に会うことはありませんでした。

観光客の皆様はいずこへ~  ~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その5

2009-05-15 23:49:19 | イースター島*1990年

~1990年3月・イースター島1日目~

午前9時ごろ飛行機が着き、宿が決まって、荷物を置いて、

散歩に出かけて、あっけなくモアイに出会ってしまった我々・・・。

日本だと、観光地といえば人間がわんさかいて、

近くにお土産物屋があったりするのに、

モアイのまわりはただの荒地のようで、ほかに人もなく・・・。

それでも台座に寄り添って写真など撮ったり、触ったりしていると、

地元の偶然通りかかったおじさんに、

「さわらないように」(スペイン語がよくわからないので、多分・・・)、

と注意を受けたので、

「悪い日本人」と思われないように、軽く謝って、去りました

ところで、1990年頃はデジタルカメラは一般的ではなく、

フィルムでの撮影でしたので、ブログにはスキャナーで取り込んでみました。

便利な時代になったものです。

タハイのモアイを見た後、ハンガロアの町を通って民宿に戻る途中、

クミちゃんと「食事はどうしようか」と思い出し・・・。

機内食で深夜がっつり頂いたため、朝食は食べていなかったので、

さすがに空腹を感じていました。

民宿では朝食のみお願いしていたので、夕飯もなんとかしなければ。

町の様子からすると、レストランのようなものは見かけず、

テイクアウトの食事も売っている様子はなく、

・・もっとも、我々は節約旅行なのでそんなことは覚悟の上でしたが・・

パンと飲み物を小さなお店で買ってすますことにしました。

その頃、日本ではまだペットボトルが普及する前で、

それに比べて、タヒチにもイースター島にも、300ml位の、

日本でもおなじみの清涼飲料水のペットボトルが売られていて、大変重宝しました。

値段はおおむね1US$弱だと記録しています。

(ちなみに1US$は150円の計算でやっていました。)

昼過ぎに民宿に戻ると、嬉しいことに、民宿のおじさんが

「食べなさい~」と青空の下で焼いたお魚をとりわけてくれました。

市場で買ったばかりの大きな白身魚でした。

民宿の男の子(10歳位)が「これをかけるとおいしいよ」と

持ってきてくれた調味料・・・「SOYAだよ」・・・と言われて、

「お醤油かもね」とクミちゃんと私。

こんなところで思いがけず日本の味に出会えるとは

そして、ふかしたサツマイモ、すいか、サラダもごちそうになってしまいました。

素朴ですが、本当においしくいただきました。

おなかが満たされたところで、午後はお洗濯をし、

シャワーを浴びて、クミちゃんと「一眠りしようか」・・・

計算すると、日本でベッドから起きてから、48時間ぶりのベッドです。

数時間後、起きてみたら外は明るい・・・

時計を見たらもう薄暗くなってもよいはずの時間なのに?

いつ暗くなるんだろうと思っていたら、21時頃まで薄明るかったのでした。

長~い1日でした。~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島*その4*アフ・タハイ

2009-05-14 22:19:35 | イースター島*1990年

~1990年3月*アフ・タハイのモアイ~

イースター島時間の9:00am頃、飛行機が着陸しました。

飛行中、飛行機の窓から景色を見てみましたが、

本当に絶海の孤島という形容がぴったりで、

着陸は「海に突っ込むのでは?」というほどまわりに何も見えなくて、

突然滑走路にランディングしたような印象でした。

飛行機から降りてみると、日本人は我が友クミちゃん私のほかに、

数人いたようです。みんな個人旅行のようでした。

飛行場の建物が驚くほど小さく、入国審査もあっという間。

その後、預けた荷物を受け取って、荷物検査のところで、

私たちの前にいた日本人(推定30歳くらいの男性)は

島には似つかわしくないトランクをお持ちになっていて、

かなり念入りに調べられていました。

「あんなに細かく見られるのかなぁ・・」と一応乙女の下着類を

心配していましたが、いざ我々の番になると、

スポーツバッグだったせいか、確か中も開けずに通してもらえました。

ある意味いい加減ともいえますが・・・

次にすることは、宿を決めること。

前もって、地球の歩き方というガイドブックで見た程度で、

実際は・・・出国ロビー(と言えるのかな)の窓の外に、

鈴なりの客引きたち・・・

選ぶ基準もわからないので、結局ガイドブックの中の民宿にしました。

結果からいうと、この選択は「あたり」だったのでした。

空港から車で宿まですぐに到着し、

体は疲れていたと思うのですが、寝てしまうのももったいない気がして、

荷物を置いて、クミちゃんと散歩に出かけました。

気づいたことは、舗装されている道がまったくないこと。

ハンガロアというイースター島の中心の町を歩いても、

ここが??と思われるほど静かです。

ほどなくすると、タハイのモアイがありました。

~ホントにモアイが存在しているんだ~

感激というよりは、なんだか目的のひとつを達成してしまった感で、

不思議な気持ちだったのです。

周りには人もおらず、モアイの台座に寄り添って写真を撮ったりしました。

観光地なのに、全然それらしくなく・・・。

現在もそうなのでしょうかねぇ? ~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年*イースター島へ*その3

2009-05-13 23:07:51 | イースター島*1990年

~1990年3月~

タヒチの旅行代理店で、無事イースター島行きの航空券を手にすることができ、

・・・日本円で、往復10万円ちょっとの金額でしたが・・・

代理店の方はこちらが日本人だからとふっかけてきた様子もなく、

こちらもディスカウントを願い出ることもなく、

後で調べてみたら正規料金は倍額くらいらしかったので、

日本で買って行かずに正解のようでした。

その日の深夜にタヒチを発つ便なので、

それまでの時間は、イースター島から戻ってきたときの宿を予約したり、

パペーテのマルシェを見たり、ラグナリウム(水族館)に行ったり・・・。

午後になり、「そういえば、眠いねぇ」とクミちゃんと私。

昨日の深夜、タヒチに飛行機が到着してから空港で夜を明かし、

時差などもあって一体いつから横になっていないのであろうか?

早めにFAAA国際空港に行って、ベンチで体を休めることにしました。

イースター島はチリ領なので、通貨はペソ(P)。

とはいえ、民宿などはUS$がいいそうだから、Pは用意していきませんでした。

そしていよいよチリ国営航空(ランチリ)機に搭乗。

正直、眠かったりでこの頃のことはあまりよく覚えていないし、

日記にも記載していません。

ただ、機内はすいていて、CAがとても美人で、

機内食(23時発ですが、普通に提供されました)がとてもおいしく、

デザートに食べたチョコレートケーキの味がよかった~。

およそ5時間のフライトだったと思いますが、

東に向かうフライトなのであっという間に朝がきたような感じで、

タヒチ時間に合わせた時計の針を、

今度はイースター島時間に4時間進めました。

もう時差ぼけなんだか日本時間がどうとか、考えてもわからなくなり・・・。

いよいよ、イースター島に着陸です。~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年イースター島への旅*その2

2009-05-12 23:45:56 | イースター島*1990年

~1990年3月~

成田からタヒチへエールフランスで約11時間のフライト。

タヒチのFAAA国際空港には、出発の遅れの為、

23:30頃の到着となってしまいました。

詳しくはまたタヒチの思い出として綴ろうと思いますが・・・。

日本人で宿泊先が決まっておらず、空港に残されたのは同世代、6人。

自然とかたまって、空港で夜が開けるのを待つことにしました。

着いてからの予定をほとんど決めていなかった我々ふたりですが、

幸いなことに、空港の観光局に、日本語のわかる日系人の女性がいらっしゃり、

(日本からの直行便が出て、まだ1年もたっていない時期だったので、

深夜着にもかかわらず観光案内所を開いていたのだと思われます)

情報を得ることができました。

イースター島へ行くために、パペーテ(タヒチの中心街)の

旅行代理店の場所を教えてもらって一安心。

あまりにも飛行機代が高かったり、フライトのスケジュールが合わない場合

などは、別の案を考えようなどと、クミちゃんと打ち合わせました。

あとは、日本で両替できないタヒチのお金を空港で両替して、

(日本からはUS$で持っていきました)、

宿無しの6人で情報の交換などしておりました。

現在のようにパソコンや携帯電話から情報を得ることがない時代、

それが当たり前であれば、不便など感じることはなく、

わからないことは人に聞いたり、現地に足を運んでみたり、

それも旅の思い出となるものなのですね。

夜が明けて、「ル・トラック」という、日本で言うバスのような乗り物で、

とりあえずパペーテに行き、フランスパンのサンドイッチを食べ、

旅行代理店へ・・・お互いのブロークンな英語で、いえ、ほとんど

こちらはクミちゃんが応対してくれたので、私は横にいるだけです。

イースター島へは往復69000CFP(パシフィックフラン)。

当時のレートでは約¥103500。

もちろん高いのですが、その金額ならGOだとクミちゃんも私も

頭の中にモアイを浮かべておりました。

そして、フライトがその日の深夜23時にあるそうで、

思い立ったが吉日よ~チケットを手にして、旅行代理店をあとにしました。

ハードスケジュールの予感 ~続く~

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過去の旅*1990年*イースター島へ

2009-05-11 23:47:23 | イースター島*1990年

ブログの名前に「モアイ」とつけたからには、

イースター島の思い出話もたまには挟まなくては・・・。

パッチワークを頑張っている間は、

ハンドメイドについてのことを取り立てて綴ることもないので、

若い頃の旅の話を。

今日はイースター島に行くまでのきっかけなど・・・。

1990年1月のスキー場で、「南の島に行きたい」と思ってしまい、

一緒にいた友人のクミちゃんも同調してくれて、

その前年に「成田~タヒチ」直行便が就航され始めていたので、

タヒチ行きは即決でした。

早速スキー場から戻って、「地球の歩き方:タヒチ編」を購入。

すると、「イースター島への誘い」という章があるではありませんか。

イースター島へ行くには、南米チリか、タヒチからしか入れないというのです。

それまで、「イースター島=モアイ」という知識しかなかった自分にとって、

一生縁のない所だと思っていたのが、

「今回を逃したら多分行く事ができないだろう」というワクワク感が生まれ、

またもやクミちゃんも賛成してくれて、

イースター島行きへの意思が固まったのでした。

時はバブル時代(後期)とはいえ、学生だった我々にとっては、

ものすごく出費がかさむ旅の予感。

もちろん、旅はバイト代を貯めていくものですから、

無駄には使いたくありません。

飛行機代をリサーチすると、

タヒチまで往復のオープンチケットが約20万円(保険込み)。

この頃はまだ格安チケットが一般的ではなかった気がします。

タヒチ往復のチケットは特にあまりありませんでした。

イースター島~タヒチの往復は・・・いくらかかるのか

イースター島は南米チリ領なので、チリの大使館やチリ国営航空など、

東京方面へ情報収集に赴きましたが、

あまりよい情報が得られず、タヒチでチケットを購入するほうが、

日本で買うより安いらしいということで、そうすることにしました。

おおむね15万円見積もっておけばいいという感じでした。

私は海外は2度目でしたが、1度目はパック旅行・・・

国内での1人旅を何度かしていたので多少のトラブルには動じない性格。

クミちゃんは海外3度目で、フリー旅行の経験あり。

ただし、二人とも語学に堪能ではなく、タヒチはフランス語主体、

チケットをうまく取れるのかさえわからないのに、

若いということはチャレンジ精神旺盛なのでしょうね。

こうしてタヒチ行きを決めてから約1ヵ月後、

1990年3月2日早朝に成田を飛びたったのです。~続く~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする