モアイのためいき

日々のこと・ハンドメイド・若い頃の旅など

こ寿々のわらび餅

2011-09-25 09:02:46 | グルメ

こ寿々のわらび餅、頂き物です。

鎌倉にあるお店だそうです。

食べ応えのあるわらび餅でした~

台風が過ぎた後、ここ数日の空気は爽やかに感じます。

朝、新聞を取りに玄関を出る時に、

少しだけ ひやっとする感覚。

秋分の日が過ぎれば、当たり前ですが夜が長くなってゆく。

職場を出る時間には、暗くなっているのが普通になる、というのが少し寂しくもあり。

職場では、この9月で、人員調整のために異動する人が多く、

顔を合わせなくなる人もいるのは寂しいことですが、

・・・我が班には、念願のパートさんが10月から加入することになり

その代わりに、業務が少し増えるのですが、

それでも人員に余裕ができるのは喜ばしい

ここ1年くらいは、人員不足のまま、

時間に追われて業務をこなしていたのです。

ある意味、それが自分を成長させたとも言えるのかもしれないと、

プラスに捉えてきましたが

昨年まで続けていたパッチワークのサークルの作品展が、

もうじき始まります。

仕事が忙しくなったので通えなくなって、

それでも、サークルの師匠が、「ひとつでも作品があれば飾るわよ」と

声を掛けて下さったけれども、・・・作品、まったくできておりません。

パッチワークも布小物も、本当にご無沙汰です。

過去のブログを見て、「こんなの作ったんだっけか」と、思い起こせるという点で、

ブログに残しておいてよかったと、ちょっと思います

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父島*1989年*その7*余談

2011-09-22 23:41:20 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年3月*

平成になったばかりのこの頃、

まだ携帯電話もなく、インターネットも普及しておらず、

我々は父島にいる間、テレビを見ることもまったくなくて、

(テレビだって、このころ衛星放送でようやく見られるようになったらしい)

新聞もないので、情報のないところにいたわけですが、

数日のことでしたので何の支障もありませんでした。

先月だったか、テレビ東京の「アド街ック」という番組で、

小笠原について取り上げられていました(世界遺産登録記念的に?)。

それを見ると、お土産物も豊富にあるし、

ベーカリーもあるし、飲食店もおしゃれだし、

ずいぶん都会的に感じられました。

アド街ックだけではなく、テレビ番組で小笠原のことを放映すると、

「今はどうなっているのかな~」と、つい見てしまいます。

発展していくのは島の人々にとっては喜ばしいことでしょうけれども、

旅行者からすれば、素朴な小笠原の文化を失わないでほしい・・・、

島民の方々ごめんなさい。

さて、「その5*島内散策」で記した「ウェザーステーション」について、

自分の記憶に自信がないのですが、

1989年には確か、「三日月山展望台」とは別の場所だったようでした。

今回、「ウェザーステーション」でネット検索をかけてみたら、

三日月山展望台とウェザーステーションが同じ所にあるようですが、

画像からすると、新しく建て変わったのかもしれません。

「その5」を読んだ方で「あれ?間違っているんじゃない?」と思われた方、

あしからず、ご了承くださいませ。

おみやげ物に関して・・・、

何を買ったのか、正直あまり覚えていないのです

*「ハイビスカスティー」・・・小笠原でなくても、

たぶん、同じ物が沖縄や伊豆七島みやげにあったと思われる。

ちなみにあまりおいしくなかったです。

*「タマナの実のキーホルダー」・・・直径3㎝くらいのタマナの実を加工した物。

だいたい、小笠原で生産している物など、当時よくわからなくて、

・・・あとは貝の加工品とか、珊瑚もあったのかなぁ。

若かったのでひねくれていて、

「島外で作った物を運んできて、売っているんだったら、

みやげ物として意味ないじゃん」とあまり買わなかったのだろうなぁ、自分は。

父島から戻ってきて1週間ほど経った時、

父島から小さな小包が届きました。

バナナ荘で同じ部屋に泊まっていたTさんからです。

Tさんは卒論を書くために父島に行ったそうで、

我々の次のおがさわら丸で帰ると言っていました。

とっても物静かな方で、あまりお話できなかったのですが、

・・・さて、小包の中には・・・

タマナの実が、ころころ~っと10数個入ってました

父島ののんびりとした時間から、

現実世界に戻って、バイトに精を出して忙しくしていた身に、

なんとも、嬉しく、ほっこりさせられた贈り物

添えられていたTさんからの手紙には、

我々がおがさわら丸で帰った後のバナナ荘の夕飯のメニューとか、

(確かカレーが二日続いたとかで、妹と大笑いした)、

次のおがさわら丸が来るまでの父島の寂しさの様子などが書かれていました。

この時のタマナの実・・・まだ実家にあるかも。

父島で買ってきたハイビスカスティーは、大学のゼミ室に持って行き、

友人のクミちゃん(旅好き)に旅話をおやつに飲んでもらった

ハイビスカスティーが気に入ったのか

クミちゃんはこの2年後、小笠原に行きました。

帰路は貨物船「共勝丸」で40時間以上かかって帰ってきたそうで・・・。

さすがアドベンチャー好きクミちゃん。

高速船が就航するとか、飛行場が作られるとか、

そういうことがあればもう一度小笠原に行ってみたいと思いますが、

片道25時間かけてのおがさわら丸での旅はおそらくもうないと思います。

いや、飛行場など作ってほしくはないから、行かないだろうな。

1989年の父島の思い出を一層大切にしていきます。 

~ おしまい ~

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父島*1989年*その6*あっという間の・・

2011-09-19 14:13:22 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年・3月*

昭和から平成になったこの年、

時間があれば、色々な所を旅していました。

1月には飛騨高山、2月には北海道、そして3月に父島・・・。

北海道、それも宗谷岬で最北を体感し、

その半月後には半袖でいられる父島にいるのですから、

なんともフリーダムな時代でした。

学生だけど、本業バイトくらいに働いて、

世の中はディスコブームでしたが、そちら方面には興味はなかったもので、

旅費くらいはすぐに貯めることができました。まっとうなバイトです。

さて、小笠原が世界遺産登録になったのは、

島固有の動植物が評価されたということらしいですが、

我々が父島に行ったときには、

動植物について「これを見なければ」という意気込みなどはありませんでした。

ただ、緑に発光するきのこ(グリーンぺぺ?)など、

見られたらいいなぁと思っていた程度。

父島に着いた日の翌日、

せっかくきれいな海に来たのだからと、

朝、早起きして一人で大村海岸に行ってみました。

残念ながら曇天で薄暗い朝。

変わった貝など落ちていないかと思いましたが、

白いチョークのような珊瑚が浜一面にあって、そこに寝っ転がってみました。

誰もいない海。

話は前後しますが、

バナナ荘の面々と南島の遊覧から戻ってきたところで、

誰からともなく「小笠原まで来て、海で泳がないのはいかがなものか」、

・・・ということで、8人位で、

宿から近い大村海岸へ繰り出すことになりました。

卒論を書く為に来ていた同部屋のTさんにも声をかけてみると、

一緒に行くことに・・・そうそう、息抜きしなくちゃ

父島に来て三日目、ずっと曇天で、涼しく、

正直、水着では寒かろうと躊躇しましたが・・・海に入りました。

やはり・・・寒かった

このときに撮った写真は、寒さのためか、皆、身をすくめている。

早々にバナナ荘に戻りましたとさ

この日の夜が父島での最後の夜で、

夕食の後、父島のおみやげ物を見にお店をまわったりしました。

現代のようにもっと情報があれば、

うまいこと父島を回れたのかもしれませんが、

あっという間に時間が過ぎてゆきました。

翌日がおがさわら丸が東京に戻る日。

おがさわら丸の出航までは、宿の周りを散歩して過ごしました。

出航は確か11時か12時だったかな。

今は港のターミナルも立派になっているようですね。

父島を出航するおがさわら丸を見送るために、

追走する小船の光景は、今では知る人ぞ知る・・・ですが、

実際に見送られてみると、なんとも心に響くものがあります。

旅行者でさえこのような気持ちなのですから、

住民だった人が島を出る時にはいかばかりか。

桟橋には同部屋だったTさんも見送りに来てくれました。

あと、南島に一緒に行った、KさんとGさんも。

もう一サイクル残れるのが羨ましかったなぁ。

出航して、人々はしばらくデッキにいたまま海を眺めている人が多く、

すると、「あっ、鯨かも」という声が。

見送りの感傷に浸っていた人々も、「鯨」の声に色めきたち、

海原に目を凝らす。

・・・が、そう簡単には見えることはなく、

自分も、「ひょっとして今くじらの潮吹きだった?」くらいのが見えた程度でした。

東京に向かうおがさわら丸は、場所の指定はなかったので、

バナナ荘で一緒だった面々と車座のようになり、

・・・しかし、自分は船酔いが心配で、

念のためずっと横になって過ごしておりました。

この時、我が妹はトランプやおしゃべりで時を過ごしたようですが、

接待役を妹に任せられて正直助かった~

自分は結局船酔いはしなかったのですが、

父島から東京までの約28時間の記憶がほとんどないので~す。

とりあえず、日の入りと日の出は見たいと思って、

デッキには出たけれども、やはりに阻まれた・・・と思う。これもあいまい。

自分の中では昼頃父島を出航して、その数時間後の夕方、

東京に着いた感覚なのです。

竹芝桟橋に到着して、

バナナ荘の面々と記念撮影。

(この写真が偶然検索でヒットしたN先生のホームページにあって、驚いた

その後、すぐには別れがたく、浜松町駅の喫茶店でお茶を飲んでから別れました。

この、五泊六日の旅は、異空間にいたような不思議な旅でした。

南の島に行ったのに、ずっと曇天でブルーグレーの空。

静かな海、観光客も少なくて、世の中の情報からも離れ・・・。

ちょっと変わった旅だったなぁ。 ~ つづく ~

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父島*1989年*その5*島内散策

2011-09-18 14:26:33 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島*1989年3月*島内散策

父島での時間は意外と短い。

おがさわら丸の1サイクルでの旅程だと、

丸々1日フリーの日は、二日間しかありません。

島内を移動する手段としては、レンタカーとか、レンタルの原付バイク、路線バス。

われわれ姉妹はこの時運転免許を持っていなかったので、

離れたところへは路線バスで行きました。

日にちは前後しますが、父島に着いた日は、

午後から徒歩で大村界隈を散策しました。

小笠原ビジターセンター、聖ジョージ協会、郵便局、大村海岸、生協(お店)など・・・。

自分の旅の目的は、父島ってどんなとこだろう?という、

「なんとなく」的な部分が大きかったので、

あまりガツガツと動き回りませんでした。

父島へはダイビングや釣り目的で来ている人も多くいたし、

「秘境が好き」みたいな人はそのまま母島へ行く船に乗るし・・・で、

いわゆる自分たちのような観光客はあまり街中で見かけませんでした。

それでも、太平洋に浮かぶ島に来たのですから、

ぜひとも「ビーチ」には行ってみたい。

宿の近くの大村海岸は内地に比べたら十分きれいですが、

もっと、白砂のさらさらした所に行こうというわけで、

翌日、比較的行きやすい「小港海岸」へバスで行くことにしました。

いざ、バスに乗り込むと・・・バスといってもマイクロバスだったような・・・。

乗客は少なかったです。観光客は我々姉妹だけかも?

バスで30分も乗ったかどうか・・・で小港に到着

前述しましたが、我々が父島にいる間、ほとんど曇天で、

好天ならば小港海岸で泳いでもいいかなぁと一応水着は用意してあったけれども、

この日はトレーナーを着るくらいの涼しい気候だったので、

海水浴をするには勇気が必要だったのでした。

父島の中では小港海岸は一番一般的な海水浴場なので、

他に泳いでいる人がいるかと思ったけれども、

・・・そもそも人がいません。ここは小港海岸ではないのか

自分の感覚の中では、海水浴のできるビーチには、

お店やせいぜい自動販売機くらいあるだろうと思ってしまうのですが、

そういうのもないし・・・。

小港海岸からさらに歩いて行くと、もっときれいなビーチがあるというので、

気が向いたら行ってみようと妹と言っていましたが、

小港海岸があまりにも寂しくてすっかり不安になってしまい、

ここから歩いてどこかへ行くうちに迷って帰れなくなっても困るので、

早々に小港海岸をあとにすることにしました

この頃、まだペットボトルもなくて、飲み物も特に用意していなかったし、

食べ物もお菓子程度しか持っていなかったし。

小港海岸の少し南の「中山峠」という展望台で紺碧の海を臨みまして、

その後、どうせバスを待つなら道路を歩いてみようとてくてく進んで行くと、

「亜熱帯農業センター」があり、蒸し暑い温室の中の花を見て回り

そこからバスに乗って、境浦へ・・・。

ここには戦争の遺物「座礁船・濱江丸」がありました。

画像ではわかりにくいけれども、さびに覆われたような色合いでした。

後に読んだ有吉佐和子さんの「日本の島々、昔と今」によると、

第二次世界大戦中からあと、小笠原の住民は本土に強制疎開させられたそうだ。

欧米系の住民は戦後小笠原に戻りましたが、

島が日本に返還されたのは1968年のこと。

1989年のこの時はまだ20年余りしかたっていなかったのです。

曇天のせいもあるかもしれませんが、

島に漂う空気が「南の島の明るい陽気な雰囲気」ではなかったのは、

こうした歴史のせいもあるのかもしれません。

アオウミガメの研究機関である「海洋センター」で水槽を眺め、

てくてく歩いて、大村に戻ってきました。

気づいたらお昼ご飯を食べる間もなく・・・というかお店も途中にないし、

かなり空腹をかんじておりまして・・・。

外食できるところはあまりないのでしたが、

ある民宿(ペンション)がランチの営業をしていて、

そこで遅い昼ご飯にようやくありつけました

我々がバスと徒歩でまわる観光客だと知って、

そこのご主人が「ウェザーステーションまでで連れて行ってくれる」と、

親切にもおっしゃってくださり、好意に甘えてしまいました。

ウェザーステーションは距離はそう遠くはないようですが、

坂をグーッと上がったところにあるので、車は有難い

ウェザーステーションから太平洋の水平線を西に望み、

もし、夕日が沈む頃なら最高だろうなぁと思いをめぐらせる。

そこから、三日月山展望台へ行くことにして、

帰路は歩いて帰りますと、ご主人にお礼を言って別れました。

三日月山展望台からは大村を眼下にし、二見港がよく見えます。

撮影した写真がどれもスモーキーブルーの空なのが惜しまれる

ちなみに、夕日の時間ではなかったせいか、

ここでも観光客に会わなかったなぁ。

バナナ荘に戻ったところで、バナナ荘の宿泊者たちに、

「夜、カメ肉を食べに行かないか」と誘われたわけですが・・・。

(そのことについては  ←こちら)

のんびり過ごすというより、盛りだくさんの1日でした。 ~つづく~

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父島*1989年*その4*南島へ

2011-09-11 09:13:55 | 小笠原・父島*1989年

小笠原・父島・1989年3月・その4

父島のバナナ荘で顔見知りになった方々と、

南島へも同行することになりました。

南島は父島の南西にある小さな無人島で、世界的にも珍しい地形らしいです。

現在は南島に上陸するのには人数制限などあるらしいですが、

1989年当時は、南島に行きたい人は港に行けば、

南島に行く遊覧船に乗れました。

「コーラル・シー」という遊覧船に乗船し、南島へ(値段は忘れました)。

あいにく、我々が父島にいる間、雨には降られなかったけれど、

雲がもくもくという感じで湧いていて、

南国特有の日差しの恩恵を受けることはありませんでした

この日も、船上では肌寒く、

もっとも内地にいればまだコートを着ても普通な時期ですから、

十分暖かいのでしょうけれど。

コーラル・シーのデッキで適当に座りながら、

ある者は父島を海からじっと眺め、

ある者は偶然にでも鯨に出会わないかと水平線を眺め、

潮風に吹かれていねむりしているうちに南島に到着

小さな湾のようなところでボートに乗り換えて上陸しました。

現在と違って、道の制限などなかったので・・・、

今となっては大変申し訳ないことに・・・・・・真ん中に寝っ転がっている自分。

カルスト地形に囲まれて。

・・・こんなふうに、銘々に動いていたわけですが、

同じ船で来た人たちは20人もいなかったのではないかしら。

そして、がつがつ動き回る類の人もおらず、

曇天のためか砂浜で海水浴をする人もあまりおらず。

のんびり散策する人ばかりでした。

・・・そうそう、砂浜の砂がとってもさらさらで、

曇天にもかかわらず海水がエメラルドグリーンだったのには感動。

(冒頭の写真です)

これで晴天だったなら、最高の景観だったでしょう。

こうして、静かに南島の時間は過ぎてゆきました。

砂を持って帰りたかったけれど、

確か、南島の物は持ち出し禁止と聞いていたので、持って帰れず。

南島のあとは、港に戻るだけでしたが、

風の影響か潮流のためか、北上する方が船の揺れが大きくて、

波を乗り越え乗り越えという感じで、

しばしば「お~っと」という乗船客の声があがりまして・・・。

そんななか、オバサン(ちょっと欧米系の面立ち・男性風)が、

当時まだ一般的ではなかった家庭用ビデオを回していたのが、

我々一行の中で非常に受けて・・・

撮影中に入れるナレーションの内容が妙におかしくて、

我々も「若者たちがいます」的に写されていたようです。

オバサンの同行者でちょっと若めのおじさんは、

ビデオカメラの前でポーズをとったりして、そのポーズも可笑しかった。

当時のビデオカメラは重かっただろうなぁ。

帰路、船が結構揺れたので、ちょっと顔が青ざめた人もいましたが、

無事、港に到着。

20数年経った今、正直言うと南島の景観はあまり覚えていないのです。

写真で見て、「こうだったなぁ~」と思うわけで。

ただ、可笑しかったオバサンとおじさんの顔は覚えているの。

記憶と感情の結びつきって重要なのですね。 

父島とあまり関係のない話題でした。 ~つづく~

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