小笠原・父島・1989年3月*その3
父島は当時、船で28時間以上も揺られ、
定期船おがさわら丸は五日か六日ごとに父島に入港するサイクルで、
つまり、それまで内地からは物資が届かないというわけで、
おがさわら丸が着いたその日は、人々が商店に向かう日でもあります。
我々は旅行者なので、できるだけ島内の方に迷惑をかけたくはないと、
あえて、商店が混んでいない時に行ってみました。
すると・・・菓子パンなど、すぐに食べられるものはほとんど売り切れ(当たり前か)。
普段はあまり食べないジャムパンを一個、とりあえずの昼食のために確保しました。
商店には新聞の何日か分の束がセットになって売られております。
確か、テレビがようやく衛星放送で受信できるようになった時代で、
それ以前は情報もすぐには入ってこなかったのでしょうか。
さて、バナナ荘の周辺はいわゆる繁華街・・・というか、
多くの宿泊施設や商店や官公庁がある地区にあったので、
散策するのにも便利でした。
郵便局はカードでお金が下ろせるのかしら・・・と思って行ってみると、
電卓のようなの暗証番号を押す機械があったような気がします。
ふと、公衆電話ボックスに入って、電話帳を広げてみると、
欧米系の方が日本名にしたという苗字がずらっと並んでいました。
父島についてからは結構カルチャーショックというか、
日本でありながら少し違う国にいるような、そんな感じでした。
現在は当時ほど、父島と内地の差はないのかもしれませんが。
話はバナナ荘で出会った一人旅の面々のことになりますが、
我々と同様になんとなく南の島に行ってみたかったような学生が多かった。
思い起こせば難関大学の人が多く、
早稲田のKさん、Bさん、一橋のIさん、ICU出身のN先生、山形大のHさん。
あと、なぜか高校生のG君(ちょっと正体不明だったが)。
父島への旅行のことを思い起こすにあたって、インターネットで検索をかけたところ、
思いがけずバナナ荘で出会ったN先生の旅日記にヒットしてしまい(驚き)、
それを読むと、思い切って我々姉妹に声をかけてくれたようです。
彼らは見かけからしてもやましい下心は感じず、
こちらも化粧っ気もなく小汚い風貌だったので、声をかけやすかったのでしょう。
こうして連れ立って、小笠原名物「カメ肉」「島寿司」を食べに行くことになりました。
そのお味は・・・
カメ肉・・・刺身を食べましたが、正直好んで食べるものではないと。
動物性たんぱく質の補給には島の人にとって格好の獲物だったのか。
刺身を食べた後に煮込みも食べて見ましたが、
お醤油で臭みが減った分だけこちらの方がよい。
スジ肉の印象でした。
島寿司・・・ヅケにしたお魚をわさびの代わりにからしを付けて握ったもの。
これはこれでおいしかったと思います。
お魚の種類は忘れました。
姉妹だけだったら、これらの名産物を食べずに帰ってきたかもしれません。
その時、彼らと何を話したのかはほとんど覚えていないけれど(スマン)、
カメ肉のスジの感じとか、
盛り付け方が小料理屋さん的な情景は覚えております。
誘ってくれた彼らに感謝 ~つづく~