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キュリー夫人 生涯を研究に

2011-10-02 08:14:48 | 海外ネットワーク



  9月18日 海外ネットワーク


  マリー・キュリー博士
    1903年 特定の元素が放射線を出す現象を放射能の研究でノーベル物理学賞受賞
    1911年 放射性元素のラジウムとポロニウムを発見しノーベル化学賞受賞

  女性初のノーベル賞受賞者キュリー夫人、
  一人の研究者が物理学賞と化学賞を受賞したのも初めてである。
  キュリー夫人の長女イレーヌは夫のフレデリックと共同でノーベル化学賞を受賞している。

  1967年 マリー・キュリーはポーランドの首都ワルシャワで生まれた。
  今は記念館となっている生家にゆかりの品々が展示されている。
  女性が学べる大学を探して24歳のとき(1900年)パリに渡った。
  そこで夫のピエールと出会う。
  二人は共同で放射能の研究を始め、
  ラジウムなど放射性元素を発見するなど科学の発展に大きく貢献した。
  その功績でマリーとピエールのふたりは1903年にノーベル物理学賞を受賞。
  その後ピエールは交通事故で亡くなるが、
  夫の死を乗り越えたマリーは1911年にノーベル化学賞も受賞する。

  マリーの孫娘エレーヌさんは、
  マリーが二人の娘たちと交わした手紙を紹介する本を今年、出版した。
  研究で家を空けがちだったマリーは、
  長女エレーヌ、次女エーヴをはじめ家族らと交わした手紙は千通以上にのぼった。
  そこには子供の成長を喜び、心配する母親の姿があった。
  次女エーヴ
  “きのうから水泳の飛び込みの練習をしているの。
   午前中に30~40回 午後も12回よ。”

  マリー・キュリー
  “1回でそんなに飛び込むなんてよくできたわね。
   でもそんなに回数が多いと心配だわ。”

  長女のイレーヌは早くから数学に関心を示していた。
  長女イレーヌ(当時10歳ごろ)からの手紙 1908年
  “愛しいお母さんへ
   お母さんの出した問題のうち1つはすぐにわかった。”

  娘たちの数学の先生でもあったマリーはイレーヌの好奇心をくすぐる手紙も送っている。
  長女イレーヌ(当時15歳)への手紙 1913年
  “心からのキスを贈ります。
   かわいい子。
   だ円の作図法できっとあなたの知らない描き方を1つ教えてあげましょう。”

  1914年に始まった第一次世界大戦、
  マリーはトラックを改造してX線装置を積み込み、自ら運転して前線に向かった。
  長女イレーヌ(当時17歳)への手紙 1915年
  “大砲の音がいつも聞こえてきます。
   仕事にとりかかるには病院の内部を少し改造しなければなりません。
   レントゲン室を作るために大きな病室に仕切りをしたいのです。”

  当時大学生になっていた長女イレーヌも母を手伝った。
  長女イレーヌ(当時18歳)からの手紙 1915年
  “砲弾の大きなかけらが食い込んだ腕のレントゲンを撮影し調べました。
   この前検査した人はまた歩けるようになったんですよ。”

  イレーヌは母と同じ放射能の研究の道に進み、
  1935年、共同研究者の夫とともに ノーベル化学賞を受賞する。
  しかし、母のマリーはその姿を見届ける前に66歳でこの世を去った。

  マリーがノーベル化学賞を受賞して100年の今年、
  こどもたちに科学の楽しさを伝える催しが世界各地で開かれている。
  日本では作文コンクールが行なわれ、全国の小中学生から470もの作文が寄せられた。
  優秀賞に選ばれた天野双葉さん(13)はイタリア・ミラノの日本人学校に通う中学2年生。
  今年日本で起きた原発事故に触れ、
  人類の未来のための科学の重要性を訴えた。
  “キュリー夫人の発見を決して自身への武器に変えてはならない。
   キュリー夫人の根底にある大きな愛を受け継がねばならない。
   私も自然 家族を愛し 人のため尽くせる仕事をいつかもちたい。”

  家族との絆を支えに研究に情熱を注いだキュリー夫人。
  時代を超え、世界中で若い研究者や子供たちを勇気づけている。
  














 

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