貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

向かい合う人を大師と思え!大師への道!!

2022-08-06 14:20:37 | 日記
令和4年8月6日(土)
第21番 阿南市: 太 龍 寺    
 道の駅「鷲の里」に泊まる。
 他に一台しかなく、
ほんとに静かな一夜を過ごす。
 ロープウ ェイ乗り場のある道の駅。

 ロープウェイ代往復2600円。
 8時の 一番車に乗る。

 八十八寺の四番目に高い山の上に
あるお寺。                     
 「百日修行の時、『空』という文字を
思いつかれた。」というロープウエイの
案内の人の話。
 「海」は土佐かな?
 「空海」という名称も壮大!
 考えたこともない発想!!!!

 当寺は、桓武天皇の勅願により、
弘法大師が自ら本尊虚空蔵菩薩を刻み、
本堂に安置し、開基。

 古来より西の高野と呼ばれ、
若き日の弘法大師修行の地。

 大師の著作『三教指帰』に、
「十九歳の時、阿国太龍嶽に登り、
虚空蔵求聞持の法を修し・・・」
とあり、
舎心ケ嶽の切り立った崖の上に、
大師の座像がある。

 持仏堂廊下の天井で、
迫力ある龍が睨みを効かせている
そうだ。




八九間とは?

2022-08-05 14:20:20 | 日記
令和4年8月5日(金)
東白河郡: 芳 松 寺  
       
 案内と符合はしていたが、
山門が引っ込み、通りも狭い。
 車を一時停車する場所もなく、
ぐるぐるその周りをめぐること
4・5回。  
 郵便局の駐車場に一時止め、
歩いて探し、やっとの思いで、
狭い山門を見つける。
 
 車を取りに戻り、やっと参拝。

 芭蕉の句碑は、自然石に彫られている。
 
     
 芭蕉の句は、      
「八九間 空で雨降る 柳かな」
 珍しい句だ。
 
  八九間は、柳の高さ、広がりをいう。      
 陶淵明の句から出たことば。
 八九間の空から柳の糸をつたって滴る雫を、
空で雨降ると言ったらしい。


鶴林寺(かくりんじ)の命名由来!

2022-08-04 15:59:31 | 日記
令和4年8月4日(木)
第20番 勝浦郡: 鶴 林 寺    

 最大の難所といわれるだけあって、
曽於山道の勾配や道のりは流石としか
言い様がない。
 四駆のローで、最後まで登り切る。                       駐車場代300円で徒歩数分の所に、
本堂があった。

 この寺は、延暦十七年(798)、
桓武天皇の勅願により、
弘法大師によって開創。
 大師が鶴ノ嶽で修行中に瑞雲がたなびき、
雌雄二羽の白鶴が黄金の地蔵菩薩を
守護しなから、老杉の梢から舞い降りてきた。

 この情景を見て歓喜した大師は、
一刀三礼一木の地蔵菩薩を彫像し、
黄金地蔵をその胎内に収め、本尊とした。
 山頂の形容が
インドで釈尊が説法したと伝えられる
鷲峰山に似ていることから、
山号を雲鷲山沙羅双樹林の風姿と
本尊降臨の由来によって、
寺号を「鶴林寺」と名付けた。
















延命菩薩の胎内に行基作の黄金の仏像が!

2022-08-03 14:43:47 | 日記
令和4年8月3日(水)
第19番 小松川市: 立 江 寺  

  聖武天皇の天平年間(729~749)、
行基菩薩が光明皇后の安産を祈願し、
念仏仏として一寸八分(5.5㎝)の
黄金の「子安の地蔵さん」を彫像。
 これを「延命地蔵尊」と命名し、
本尊として堂塔を建立した。

 その後、弘仁六年(815)、
弘法大師が当寺を訪れ、
小像の本尊では、後世になって                     紛失する怖れがあると、
自ら一刀三礼して高さ六尺(1.9㍍)の
延命地蔵菩薩を刻む。
 その胎内に行基菩薩作、黄金の仏像を
納め、
寺号を立江寺として、
第一九番霊場に定めた。

 本堂の天井画は東京芸術大学の教授ら
により描かれた花鳥風月などが金色に
輝いているそうな。
弘法大師立像と三重塔

花に憩う

末世薄福の衆生の難厄除去の誓願!

2022-08-02 11:20:57 | 日記
令和4年8月2日(火)
第18番 小松島市: 恩 山 寺  

 駐車場より山道を登ること5分。
 山門前に弘法大師尊像のでっかさに
吃驚!

 
 その素晴らしさに圧倒される。
 聖武天皇の勅願により、
行基菩薩が厄除けのために薬師如来を刻み、
本尊として開基。

 大日山福生院密厳寺と号し、
災厄悪疫を救人禁制の道場であった。

 延暦年間(782~806)に、
弘法大師がこの寺に留まった時、
讃岐から母君の玉依御前が訪ねて来た。                   だが、寺は女人禁制。
 「花折り坂」から上には、女性は立ち入る
ことが出来なかった。

 大師は仁王門の辺りで十七日の秘法を修して
女人解禁の祈念を成就し、
母君を寺に招き入れて孝養した。
 やがて、母君は剃髪して、
その髪を納められたので、
寺号を母養山恩山寺と改めた。
 この時大師が修行したのが、
赤い欄干のかかる橋の下であり、
そのことを記念して、その後弘仁五年(814)、
大師41歳の時、自像を刻まれ大殿に安置され、
「我が願いは、末世薄福の衆生の難厄
を除かん」
と誓われた。