上記の前者においては賛成は出来ず、後者の話題については「禿しく同意」しよう。
てな訳で、私が、2006/12/05に書いた石原慎太郎についての文章を再掲する。
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[「腐女子」よ怒れ! 石原慎太郎に!!^^](2006/12/05)
▼毎月最初の月曜日、産経新聞の一面には『日本よ』と題して、石原慎太郎都知事が時事問題を語る連載をしている。
昨日は<情報氾濫のもたらすもの>と題して、携帯・インターネット社会の弊害について書いていた。
この人は、やはり文章がうまい。
ハッとするような表現で、自分の主張したい事のニュアンスを読者の心に見事に転移させる。
以下は、宮台真司氏(※1)の分析を、石原氏が咀嚼した文だ。
<・・・そもそも情報なるものは、現実を希薄にしてしまう。第一に、情報は勘違いを難しくしてしまう。昔は勘違いだらけだったからこそ夢を追い試行錯誤があった。情報に依って、「どうせ現実は‐‐‐」という容易な断念は人間の想像力を減退させてしまう、と。
第二は、情報化は規範の輪郭を曖昧にしてしまう、と。昔は良いこと悪いことの境目がはっきりしていたが、今は昔は有り得なかった情報によって、例えば性愛に関して言えば、スワッピングや乱交などという風俗が晒しだされ禁忌なるものが消滅してしまい、それを侵して超えるといった姿勢や行為の濃度が希薄となり人間の活力の低減に繋がっていく。
第三には、現実を入れ替え可能にする、と。かけ替えない体験だと思っていたことが、「そんなものはよくあることだ」といなされ、素晴らしい女性だと思っていたのに「よくある女だよ」と水をかけられてしまう。
つまり自分の感性や情念にのっとった決断や選択の、自らの人生における比重がごく軽いものにされてしまうことで、生きるということの中での、人間としての積極性が殺がれてしまう。これは人間全体にとっての損失以外の何ものでもありはしない。・・・>
さすがにうまい文章である。
御意、である。
私は、ここのところ延々と、一年近く、「瑣末な情報に流されるヤカラども」と対していたような気がする。
石原慎太郎言うところの『自分の感性や情念にのっとった決断や選択』こそが、「思想」であり「哲学」だよ、と言い続けていた。
「情報」なんてものは、【大枠】さえしっかりと把握しておけば、それ程踏み外した結果を導き出したりはしないものだ。
溢れかえる信憑性のない情報に惑わされて、自分の「道」を右往左往させ、アイデンティティを喪失させていく見苦しさをこそ、私は「悪」とする。
『かけ替えない体験だと思っていたことが、「そんなものはよくあることだ」といなされ、素晴らしい女性だと思っていたのに「よくある女だよ」と水をかけられてしまう』・・・、
これは、「2ちゃんねる」でのレス応酬に対しての石原慎太郎的な表現だろう。
うまく、確かに上品な表現である。
アイデンティティに「信念」のない人間は、他人の些細な一言で、世界観を180度反転させる。
事件を構成する100の因子に「正しさ」を感じても、いつしか、それを常態と感じ、新たに加わった1のマイナス因子で、それまで信じていたモノに疑惑を生じさせるのだ。
(※1)これは、何度もネット上で書いたが、宮台氏は、十年ほど前、私の書いた文章を誉めてくれたことがあった。
それ以来、保守論壇では評判の悪い宮台氏だが、私は、批判する気持ちなど毛頭ない^^;
▼さて、今回、石原慎太郎は、何故、「情報の氾濫」について書いたか?
まあ、それ以前から問題視していたのだろうが、直接の引き金としては、先月、フジテレビで放送された「たけしの教育6時間スペシャル」での久米宏(※2)との討論に端を発するだろう。
この番組の中で、
携帯害悪論を語る石原氏に、久米氏が、
「もう、そこに存在しちゃってる物を、社会を変える立場であるあなたが否定してばかりではしょうがない。現状に即応した対策を発すべきだ」と言う趣旨の正論を言った。
今回の『日本よ』で石原氏は、その時に言い残したことをちゃんと言っておきたかったのだろう。
携帯電話が、子供に限らず、あらゆる人間のイマジネーションを破壊している、と言う石原氏の趣旨は分かるのである。
しかし、なおも、久米氏の言葉は有効で、『「駄目だ、駄目だ」言っている石原氏ではしょうがない』のである。
携帯が人類の成長を阻害するのは分かったが、石原氏は、何ら対策を講じようとしない。
携帯が悪い。
じゃあ、『禁携帯法』を発布するのか? と言うと、そんなことは出来ようはずがないし、出来てしまったら暴動が起きよう。
石原氏と久米氏の会話は、永遠に平行線を辿るだろう・・・。
(※2)久米宏は、言わずもがなの「左翼」筆頭である。もち、私の「敵」である。
だが、『ニュースステーション』のキャスターを辞めて、その後、いまいちテレビで活躍できず、しばらくテレビと言うか社会を客観的に見つめていただろう久米氏の言葉には、ちょっと共感できる点も多々あるのだ。
ただ、くだんの「たけしの教育6時間スペシャル」の中で、「時代は進歩していく、これはしょうがない」と言ったのは100%間違いで、左翼に毒された言葉だ。
時代は「変化」はしていく。
しかし、「変化」はけして「進歩」ではない。
そういった認識が、左翼になく、「時代は進歩していく」と言う標語で思考停止してしまうのだ。
井筒和幸監督がよく映画評論で『この作品は、「反権力」じゃないからダメだ』などとのたまっていたが、これは、「権力=悪」と言う標語で思考停止してしまう左翼虜囚だからこその思慮のない言葉だ。
いい権力だってあろうよ・・・。
そうそう、左翼にとっての「中国共産党一党独裁政権」やら「金正日体制」やらさあ^^;
▼石原慎太郎の今月の『日本よ』だが、その最大の問題点は、以下の一文にある。
<・・・子供たちの所持している携帯電話には規制の無いまま、売春や変質者の嗜好に応えて容易に多額の金を手にする手引きまでが盛り込まれている。それらの情報は風俗の紊乱にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況は性愛に関していえば「体は手に入るけれど心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の若い女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような徴候は、喪失以外の何ものでもありはしない。・・・>
いい文章だよ。
だが!
おーい! 誰か、石原の慎ちゃんに【腐女子】という言葉の正しい意味を教えてやってくれぇぇええ!!!
産経新聞は、全国紙だべ?
編集者は、何で、この誤った言葉の使い方を、全国紙の一面でそのまま通しちゃったんだよ!
【これでは、あたかも「腐女子」が、
援助交際に代表されるような行為をするタイプの女の子のようではないか!】
「腐女子」ってのは、そう言ったベクトルの女の子のことを言うのではない。
どっちかと言うと、いわゆる「オタク」の女の子に冠せられる言葉なのである。
(Wikipedia『腐女子』の項より)
<・・・腐女子は漫画・アニメ・他の二次元作品、時には芸能などの三次元をして、男性キャラ同士が「恋愛していたら」という妄想で楽しむ同人女性であり、日本の漫画・アニメ市場の有力な購買層の一つである。
ボーイズラブ(BL)というジャンル自体が普及し、BL市場が発展したことにより、原作の漫画・アニメ・ゲーム自体がボーイズラブである作品を愛好する女性を含む呼称となった。
・・・この呼び名は「腐女子」自身が自嘲の意味を込めて言い始めた言葉だが、その呼び名が広く知れ渡った現在では、オタク女性全般に対する呼称としても使われる事が多い。
とくにTVなどのメディアや所謂オタクとは呼ばれない人には、この使い方の方が浸透している。・・・>
私は、アダルトビデオなどで見る援助交際女子高生は楽しんでみるが、実際、実社会で、自分がそんな若い娘を目の前にしたら、いささか、まともなつきあいが出来るとは思えない。
しかし、【夢見る少女】の亜種である【腐女子】だったら、私は、全く問題なく交際し、その娘に「大人の階段」を上らせてあげられると思う^^;
♪大人の階段 の~ぼ~る~
♪君はまだ シンデレラさぁ~
♪幸せは誰かがきっと~
♪運んでくれると信じてるね~
石原慎太郎の「腐女子」認識は、腐女子(オタク婦女子)に対し、非常に失礼である。
産経新聞は、訂正記事を出さねばなるまい。
さあ、美しくも「腐女子」に堕ちた天使たちよ。
我がもとへ、いざなわれよ・・・。
再び、天へ・・・。
(2006/12/05)
◇
一昨々年に死んだ我が父親は、ゼネコン畑で活躍してきた男なので、石原慎太郎と何度も会っている。
(2010/04/14)