懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

回想 初任給

2018年03月01日 | 日記
私が初任給を手にしたのは半世紀以上前だ。
初任給は16000円だった。
入社した時の案内に三年くらい貯金すれば電蓄が買えると書いてあった。
今ならばステレオとかコンポというのであろう。
戦後の復興期に育ったので貧乏根性が沁みついていた。

小学校では日本の車の台数は250人に一台 アメリカは3人に一台、
電話は100軒に一台、アメリカはほぼ100%、イギリスの舗装率は100%と習った。
私の住むところの県道は砂利のままタイヤ跡で穴が掘れるのて定期的に整地していく。

この給料では毎月2千円を貯金してボーナスで二万円していた。年間6万ほどの貯金である。車を持つなど夢の夢だった。
しかし、職場にクラウンの車をもっている人がいた。中学卒だったが副業で車の修理工場をやっていた。会社勤めで副業は禁じられていた。親が社長で休みに手伝っていた。
私が入社して2年後に退職して本格的に修理工場を始めた。
これから車社会がくるのを先読みできたのである。
厳しい人だったので私は避けていた。避けずにこれからの将来の事を聞いておくべきだった。
昭和43年頃になると自動車の免許を取りにいくようになった。
私の住む市には教習所はなかった練習場しかなく試験は宮崎市まで受けにいっていた。
何事も早く取得するものだ。私のようなグズは駄目だなあと思う。

車や自宅を持つのはずっと先の夢だと思っていた。子供の頃からの貧乏根性がコンプレックスになっている。しかし、11年後には自宅も持つことができた。
初任給16000円で田舎と言えども1500万円は掛かる自宅を建てられるものだ。
あの安い給料で10年後にはみんなアメリカのような暮らしに成れたのは不思議なものだ。

家を建てるについて住宅担当の人に相談に行ったら頭金なしで建てた人がいると説明があった。その軽さに驚いた。
会社も社宅を造ると維持費は掛かるし個人の財産になる自家建設をすすめた。
金も低利で貸してくれた。
高度成長期で給与は10年で五倍になった。20年後は10倍になった。ベースアップもあり20倍以上になった。今の中国である。
それと残業が多くローンの支払いにもくろんでいた者もいた。今は36協定で厳しく管理されているが80時間以上残業をしていた者もいた。
農産物の自由化や1ドル360円の固定相場から変動相場になり円高で暮しが楽になった。

バブルまで給料は上がり続けたが世界一高い給料に競争力を失い正規、非正規の身分制度を作ってしまった。

昭和41年の文芸春秋にアメリカの経済学者が21世紀に向けて成長するのは日本。韓国、中国であると書いてあった。中国はみんな国民服の貧しい時代であった。
もう一度どんな未来予測だったか読んでみたいものだ。

私の昭和鉄道遺産 その63 直方駅9600型

2018年03月01日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 福岡県 筑豊線直方駅

直方駅に停車している9600型蒸気機関車
貨物を牽引して発車まで待っている。機関士は新聞を広げて読んでいる。
鉄道に興味のない人が見れば何の興味も湧かない写真であろう。
しかし、鉄道に興味のある人はこんな写真にも懐かしさを覚える。

自分も余り考えもせず汽車がいれば撮影していた。
40年後、50年後どうなるかも考えず撮った。
30年後にはパソコンが発達してアナログ写真がデジタル化されて画面でも印刷物にも
なりデータを他人に送れる時代がくるとは思わなかった。
そんな時代が来るのが分かっていればもっとと違った写真も撮っていたであろう。

その当時は何でもいいから撮っておこう何でもいいから集めておこうの考えだった。
素人考えでこうなるだろうと思っても当った試しがない。
株にしても金を買うのにしても思惑で買ったものは見事外れる。

長年コツコツと自分の興味のある事を続ける事であろう。