懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

日本茅葺紀行 NO,258 青森県津軽地方の民家

2015年12月10日 | 日本茅葺紀行
青森県の津軽地方は日本では茅葺き民家の多く残る地域です。
私は全く記録していなくて何軒撮影したかわからない。それでも数百軒は撮影したと思う。
現在では千軒も残っていないが探せる人はかなり見つけられると思う。
津軽となると私のような身体の者は車なので何度も行けない。しかし、行く都度茅葺き民家がへっている。津軽までだと1400kmはあるので一気に一日でいくのは無理なるので山形や福島で泊まり磐手や秋田で撮影して夕方に青森に移動する。帰りも青森から南下もして山形から帰る。
往復に二日かかるので一週間は滞在したい。

10年後にはここ津軽も茅葺きがかなり消えるかもしれない。
この地域は平野部なので高いところから撮影が出来ない。俯瞰的な写真が撮れないのが欠点であろうか。
津軽のふるさとや津軽平野に唄われるようにゆったりした風景がいい。瀬戸内海沿岸の段々畑や棚田地域と全く違う風景である。農耕地の少ないところとゆったりと広い土地のある地域では風景が違う。双方とも写真に記録したいものだ。

茅葺きが減るなか田舎者風景や茅葺き民家ブームでも起きるかと思った。みんながカメラを持っている時代だけに脚光を浴びるかと思ったがそんな気配はほとんどないようだ。次第次第に姿を消すのであろうか、マスコミで取り上げられブームだとお墨付きをもらわないと行動を起こさないなのだろうか
蒸気機関車など復興したが大変な人気である。

昭和の遺物たち 消えた特急列車

2015年12月09日 | 昭和の遺物たち写真展
昭和の時代からすると特急列車もずいぶん減った。新幹線網の整備、格安航空料金で在来線の特急の必要性がなくなった、車両の老朽化で姿を消したのもあった。
そうしてみると昭和40年代は特急の黄金期であった。
エル特急など一時間、二時間間隔で発車する特急もあった。
山陽新幹線の開業で多くの特急が消えたがブームになることはなかった。
それより平成に入り国鉄車両やブルトレ、ボンネット特急が消える時の方がにぎわっていたのではないか

あれだけ走っていたが案外撮っていないものだ、モノクロフィルムでは色のついて電車を
撮っても意味がない諦めもあったようにおもう。

人間は沢山の残っている時はなかなか行動を起こさない。みんなが動きだしブームを起きると大きな潮流になりみんなが押し寄せる。
現在のようにスマホやネットでみんなが情報を共有しているとその兆候は著しい。
私はみんなと同じ物を後追いで撮っも価値のあるものは残せないと思う。所詮人真似で人生を終える。人真似人生は悔しい。
自分で考えた個性的なテーマを探し出した方がいいと思う。



岡山の茅葺民家 井戸のある家

2015年12月08日 | 茅葺き民家
倉敷市南東部の旧家に井戸のある家を撮影させてもらう。井戸くみや洗い物で濡れないように屋根がついている。
岡山南部は干拓地のため水の確保が厳しかった。
井戸を掘っても塩気や鉄気があり良質の水は得られなかった。
子供の頃に海に近いところの井戸水を飲むと塩気があるし鉄くさい水だった。
手押しポンプの水の出口に砂袋を付けてあり鉄気を除去していた。
砂袋で濾過すると鉄気が少なくなったようにおもう。

井戸水も飲料水に使うのかが精々で風呂などには使えなかった。
風呂の水は農業用水の水を使った。年寄りに話を聞くと風呂に水草が浮くのが嫌だったという。都市部 の人口密集地は水がないと生活が出来ないので水道が早くから敷設されたであろうが、農村部に水道が普及したのは昭和40年いこうである。
昭和30年代の日本は敗戦からの復興で厳しい生活を強いられた。
インフラ、水道や交通、病院や文化施設スポーツ施設は大変遅れていた。

しかし、不便であろうと暑かろうときつかろうと我慢強く安い給料で頑張った。
一億国民の頑張りと我慢と勤勉さで豊かな生活ができる。
しかし、今のような七儲けの八使いの国家、個人の経済を続ければいつ凋落するかわからない。生活レベルを2/3や半分に下げる時代もありうる。

江戸時代、明治から昭和の水の確保はどうしていたのか都市部、農村部ではどうしていたか調べてみるのも面白い。いつ頃から風呂に入るようになっかも


茅葺き民家 島根県旧吉田村菅谷の民家

2015年12月07日 | 茅葺き民家
吉田村菅谷はタタラ製鉄で栄えた集落だそうだ。
江戸、明治の生活歴史は説明を聞かないと分らない。
タタラ製鉄をやっていた痕跡などもうどこにも残っていない。
山林の復元力のある日本の地形、地中海沿岸や砂漠の沿岸は乾燥砂漠化を防ぐのに大変努力している。日本はほったらかしても林や森に復元する。
それは司馬遼太郎氏が街道を行くでも書いている。スポンジのような日本の山と表現している。第二次世界大戦の燃料不足で伐採された日本の山、あれから70年、はげ山など見なくなり一番豊かな森林資源になっている。
タタラで削られた山など復元してどこかもわからない。
出雲でタタラをやっていた痕跡は土砂の流出で出雲平野、斐川平野や弓ヶ浜を作り島根半島を陸続きにしたことであろうか。

菅谷の谷間のわずかな田で米を作り生活をしてきたのであろう。
戦前までは食べるだけが精一杯の庶民がほとんどあったとおもう。
終戦後は都市部では配給が満足に手に入らず田舎の方が豊な暮らしだった時期もあった。
しかし、だれでも車を持ち電化製品に囲まれた生活になれば農業所得ではやっていけない。
給与所得が得られる都市部でないと暮らせない日本の構図になっている。
人々が暮らした生活の痕跡も自然に飲み込まれそうだ


日本茅葺紀行 NO,257 兵庫県旧丹南町の民家

2015年12月06日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 丹南町一印谷

兵庫県の中央部に95メートル低い分水嶺があるので見に行った、
南は瀬戸内海、北は日本海に流れる。
緩やかな傾斜が分水嶺になっている。地名は水別れとなっている。

そこから東に篠山に向かい走る。いままで通ったことのない道を走る。
丹波篠山にも何度も通ったがみんな道を走ったかと言われるとザルである。
茅葺き民家は道路から見えない集落にひっそりとある。
丹南町の一印谷にひっそりと茅葺き民家が二軒あった。
丹波地方の昔の風景に出会えた気がする。きっと昔と何十年変わらない景色なんだろう。
今行ってももうトタンをむ覆っているかもしれない。




昭和の遺物たち 消えた客車貨車 番外編

2015年12月04日 | 昭和の遺物たち写真展
写真展には出さなかったが番外編で石炭列車を投稿します。
石炭は日本の近代化を支えた主要産業であった。
昭和30年代までは日本の産業を支えた。戦後で就職で人気のあったのは石炭
産業と繊維であった。株価も他の産業より人気があった。
そんな石炭を鉄道輸送が支えた。
筑豊線や室蘭線の複線化された線路を頻繁に行きかう蒸気機関車を見て心躍った。
しかし、そんな姿は炭鉱の閉山と同じくして蒸気機関車の廃止で消えてしまった。

蒸気機関車が牽引しての石炭列車であった。
私が見たのは最後の雄姿だったのかもしれない。
北九州や北海道に網の目のように張り巡らされた鉄道支線
閉山とともに鉄道も超赤字路線に転落した。

今はそんな網の目の鉄道網は消えてしまった。
石炭の衰退から鉄道廃線への変化をテーマにすべきであった。
凡人は過ぎ去ってそれに気づくものだ。
鉄道写真でも社会の流れを作品にしないといけない。
電車の写真ばかりではいけないと思う。
何歳になっとても新聞テレビの報道から時代を読み取るれと諭されているようにおもう。


石炭専用の貨車セキと表記されている。
私が働き始めた頃は工場でも石炭から石油に大部分エネルギー転換されていた。





蒸気機関車 吹田機関区

2015年12月03日 | 蒸気機関車
城東貨物線は蒸気機関車が牽引していたので吹田機関区が機能していた。
大阪に近郊に住んでいる人は梅小路や竜華、吹田の機関車を撮った人が多いとおもう。
吹田で撮っていた。三脚を構えて撮影していたら中学生の五人ほどのグループが私の前で必死に撮影を初めた。機関車の事に興奮して周囲がまるで見えてない。
機関区では機関車が出入りするので危険極まりない。

私も竜華や関西線の機関区に行かずじまいだった。D51蒸気機関車だったことも行かなかった要因か。D51ならば撮りに行く必要はないと思ったことか
機関区に行くのは蒸気機関車の写真だけではなく施設を撮りに行くことでもある。
蒸気機関車の廃止により撤去される運命にあった。

その当時は世界遺産、近代化遺産の言葉はなかった。明治以降に作られたものが評価はされないだろうと思った。.しかもコンクリートの建造物は評価されないだろうと思った、

それでも機関庫、ターンテーブルや給水塔を見ていたら愛しくなり撮っておいと懇願されているようでシャッターを押した。蒸気機関車はいまでも沢山各地に何百機と保存されている。保存されているもので蒸気機関車ほと数の多いものはないであろう。しかし施設のほとんどは解体撤去された。

近代化遺産として評価されるのがわかっていればもっと多くの人が記録していったであろうか
世の中には達人といわれる先読みのできる人が何人かいるものだ。そんなホームページがいくつかあるすごい人たちだと眺めている。
これからの時代、何んの記録が求められるか。この世から今日も何か消えていく。





岡山の茅葺き民家 旧加茂町の民家

2015年12月02日 | 茅葺き民家
加茂町や阿波村には茅葺きが残っていた。平成の時代になってもこんな日本の風景に出会えるのは感動物だった。しかし、感動も慣れてくると次第に薄らいでくるのが人間の悪いくせ。それとネットなどで得た情報で探しに行くので発見の感動がうすれている。
茅葺き1の減った現在、走っていて発見は少なくなった。
何度も足を運んだところでも感動する心や発見する目をどうしたら養われるのだろうか

この家はおばあさんの一人暮らしだった。
娘さんが世話をしに立ち寄っていた。
その後、トタンで覆い、今は家もない。
加茂町も90歳くらいの老夫婦や一人住まいの人が多くなった。
10年後はどうかわっていくのか
家と一緒に住んでいる人も撮っておけば時代の変化がわかったとおもう。


茅葺き民家 広島県旧布野村

2015年12月01日 | 茅葺き民家
布野村は現在、三次市に併合された。三次から国道54号線沿いにある。
国道54号線沿いに茅葺き民家を求めて走る。山間地にしてはみんな民家が大きい.
総理大臣を務めた竹下登氏の郷里、島根県の掛合町周辺に茅葺き民家があるとの漠然とした情報をもとに一般道で走ってきた。
布野村は三次の北で島根県に接している。
国道の少し脇に茅葺き民家があった。しっかりしたいい家だった。
冬に使う薪を家の周りに沢山積んである。
茅葺きの写真を撮りにくるか聞いたら国道沿いなので訪れてくるといっていた。
薪の写真も撮っいく、みんな頑張って日本の懐かしい風景を撮っているのだとおもった。
布野村には茅葺き民家は残っていないかと奥さんに聞いた。無いと言ったが根性をだして回れば一、二軒発見できるかも
その後は緩い峠を越えて島根県に入る。
茅葺き民家探訪は言葉を交わしながら一軒一軒撮っていく。長い時間との記録でもある。