安倍さんの事件。大変驚きました。
いくつもの視点、問題点が浮かび上がってきた。
その一つ。ある宗教団体に対する誤解・思い込みが動機、というニュース。もしそうだとしたら、思い込みとは何と恐ろしいことか。身近で小さな思い込みなど、私にも時々あります。気を付けようと思った。
また、警護のこと。アメリカなどでは、こういったことは「またか」となりがち。日本では「まさか」。警護の連携が問題、と言う専門家の意見もあり、気構え・立ちどころとしてどうだったのかな、と思いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/2e/507127cea54d2570f4d4f0482ef2831a.jpg)
ここ数日、自分の聴こえないことで 色んなことがありすぎて――。
(1) 胃カメラ
(2) その間、母を見てもらうことについての連絡トラブル
そして *投票のこともチョット。
胃カメラの病院に、私は耳が聴こえないので、とあの手この手で伝えておいた。それでもやはり声で言われる。身動きできない状況で、苦痛に耐えながら、言われたことを必死で推測しなければ、という状態。
(書いてもらっても見えなかったり。)
事前に流れや注意点など伝えてもらってはありましたが、やはり大変でした。
も、とにかくナントカ終われば良い――、そんな気持ちになっていました。
そして、
その間の母を見てもらうことに関連して。このことについては、とてもこういう場では書ききれません…。
これらのことで、一時は頭がいっぱいになりそうでした。
30数年前から難聴になり徐々に聴力が落ちて、聾の手前。
「耳が遠いのではなく、耳が聴こえないのです」と言っても通じない。
社会の中で人と生きていくのが難しかったり、半人前扱いだったり。そんな想いが積み重なってしまう。
さらに投票のこと。
いつも投票の券を最初に差し出すと「〇〇さんですね?」と確認される、それが聴こえないので、メモ帳に『耳が聴こえません。投票のやり方は分かります』と書いたものを同時に差し出しました。
すると係の方が、こちらへ、と別コーナーへ。‘訳あり’の人の相談コーナーです。
そこで氏名・住所を書かされました。係の方2人がパソコン画面を見ながらあれこれ相談しておられた。きっと訳ありの人の対応マニュアルなどあるのでしょう。
しばらくしてから、ようやく普通に用紙をもらえて投票できました。
私は、用紙をもらった時に「あちらで記入を」と手で方向を示してもらうくらいで良いのに、と思っていました。(それも無くても分かるのですが)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/b4/63268ddc3be78878de5ddd458cc6c916.jpg)
はぁ。。
聴こえないって大変。生きづらい。というのがまた出てきてしまった。
それでも、
こういったことをそんなに問題視しない人もいるだろうな、とは思います。
その時その時、それなりにやったら良いよね、とか?
も少し、ゆったり大らかで のどかな人柄でありたい、という希望・願望が無意識の中にあるようです。
(写真は、数年前のものです。ポトスがぐんぐん伸びてくれる、その生命力に感動☆ 日々とても楽しみでした。)