いつも拝見しているブログに『吉田道昌の学舎』があります。
読んでいると、自然に背中がピンとなってくることがよくあるんです。
書いておられるのは、
『架け橋をつくる日本語―中国・武漢大学の学生たち』の著者。
日本で、また中国で、先生をしておられ、
とても温かく、心の絆を大切にされる方。
(私も、子どもの頃に、こんな先生と出会っていたらな――
なんて、よく思うんです。)
このブログの8/26のテーマは『落穂ひろい』でした。
ミレーの、「落穂拾い」という絵は、ウチにも飾ってあって、
見るたびに心惹かれ、
健気につつましく暮らしている姿ねぇ、と思ってました。
でも、拾っているのは、その畑の人じゃないんですね!
ブログ『学舎』では、ある書籍から引用されてます。
麦の落穂拾いは、自らの労働で十分な収穫を得ることのできない人たちが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。
そして、それはなんと日本でもあったそうです。
かつて米は、天地からの恵みだった。百姓はけっして『米をつくる』とは言わず、
『とれる』『できる』と言っていた。
人間が主役ではなく、百姓はめぐみを受け取るのである。
百姓だけが独占的に受け取るのではなく、貧しい人たちと天地のめぐみを分かち合っていたのである。
さらに、
天地のめぐみは、渡り鳥たちとも分け合ってきた。
耕作する土地は、地球の一部、自然界の一部。
宇宙、地球、自然界はだれのものでもない。
――静かに謙虚に省みてみたいです。