緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

刺された

2024年11月12日 | 日記
私にはよくあることですが、ガーデニング中に虫に刺されました。
前に刺された時の記事。
刺されました。 - 緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -
この時も酷かったのですが、今回も酷いです。

やっと涼しくなって、久しぶりにガーデニング用の長靴を履いて、しゃがむとなぜか足首の筋が違いそうになり、スニーカーに履き替えました。
それが悪かった。
何のためにガーデニング用長靴を購入していたのか・・・、我ながら愚か。

足首上が剥きだしになったのです。
長い靴下に履き替えるのも面倒でそのまま庭仕事を続けました。
蚊取り線香も腰にぶら下げてましたので大丈夫だと思ったのが大間違いでした。

蚊は11月半ばくらいまで庭にいるので蚊取り線香は欠かせないのです。
蚊や蜂は見えるので避けようもあるのですが、私が痛い目に合うのはいつも見えない虫。
何だか分かりません。
いろんなモノがいるのです、庭には。
でもその日は何ともなかったのです。

翌日、お茶のお稽古に行き、夕方くらいに帰ったのですが、両足が恐ろしいことに・・・。
前日の庭仕事で虫に刺されたと思いましたが医者にいくほどではないと希望的観測。
でも次の日は痛痒くて歩くのも大変。
皮膚科に行った方が良いと思いましたがその日は眼科の予約が入っていてそちらを優先しました。

次の次の日、いよいよ皮膚科に行きました。
先生、私の足を見るなり「これは大変だ」
薬を何種類か塗られ、包帯をまかれました。

抗体ができているからでしょうか、前回ほど腫れまくってはいません。
でも症状は同じ。

これ、どうなのかと思うのですが、前回と違う皮膚科を受診したせいか、治療の方法がまるで違うのです。
前回は抗生剤とアレルギー反応を抑える薬でした。
今回は抗生剤とかゆみ止めのステロイドの塗り薬も処方され、飲み薬はなし。

今回の医師が懸念したのは二次感染によるリンパ管炎。
場所が足首上なので、歩いたり椅子に座ったりするとどうしても圧がかかる。
それを避けるため、足はだらしなく投げ出してくれといわれました。
椅子の時はオットマンを使用。風呂にも入らないでほしいと。

でも何日もお風呂に入らないなんて、それはできません。
ビニール巻いて入っても、どっちみち濡れそう。
両足上げて入るのも不可能(笑)。
結局、包帯取って普通に入り、自分で3種類の薬を塗り、包帯を巻きなおしました。
医師によれば、何日間かは包帯を巻いたままにしてほしかったみたい。

薬の種類。ゲンタシン(主に抗生剤)、リンデロン(主にステロイド)、亜鉛華単軟膏(消炎・保護剤)、調べてみると同じような効能の薬なのですが、少しづつ異なる、この3種の重ね塗りです。
ただ塗れば良いのではなく結構コツがあります。
包帯を取って見たところ、割ときれいに治ってました。

今週は忙しくて毎日のように出かけなくてはならないのですが、医師によれば歩き回るのも止めてほしいらしい。
そうも言ってられないので気を付けつつ歩き回ります。

                


さて、話題は変わって兵庫県知事選挙。
私は兵庫県民だから無関係ではない。
私はメディアはあまり信用していなくて、斎藤元知事に対する報道も今一つ距離を置いて見てました。
でも、ここにきてエライことになってきました。
斎藤氏、再選されるかもというくらい追い上げているとか。

それだけならまだしも、ウヨウヨと現れてきた斎藤氏擁護の怪しい人達。
まず初めはN党の立花氏、彼は斎藤氏を援護するために自分も立候補してます。(意味不明)
次に斎藤氏推しで現れたのが、あの暇空茜!!
もうこの時点で斎藤氏は推せません。

次に現れたのが統一教会。
斎藤氏、完全アウトです。
お友達は選びましょうね。

斎藤氏擁護に現れた3者に共通するのはネット工作が凄いということ。
ネットリテラシーを持たない人がネットを見たら、斎藤氏はメディアを初めとした何者かに陥れられたとしか思えなくなります。
でもこの3者、もう一つ共通点があって、トラブルが裁判までいくとほぼ負けているということ。

リアルでも、斎藤氏が街頭に立てば支援者がワンサカらしいですが、統一教会に動員された人達も多いのではないかと思います。
実際、支援者による暴力も伝えられています。

今回の選挙、兵庫県民の良識が問われる選挙になってしまいましたが、なんで知事選挙に関係あるとは到底思えない変な人達が湧いて出たのか。
兵庫県民だけでなく日本国民の良識が問われています。



男子新体操・ジェンダー・LGBTQ

2024年11月03日 | 男子新体操とジェンダー
なんだかややこしそうな題ですが、実際ややこしい事柄について書いてみたいと思います。
長いし、興味のない人はスルーしてください。

私は2年前に「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」という記事を①②③④と4つ分割してアップしました。

日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ① - 緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

“Themostbeautifulsportontheplanet”この英語のセンテンスは、私がある男子新体操の演技をYouTubeの動画で見ていて、そこのコメント欄で見つけたものです。⇒ここ(2014年の花...

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我ながら長いんですが、日本の男子新体操が、その歴史を含めどのようなスポーツか、今現在どういう問題を抱えているか、とりわけ男子新体操がジェンダーやLGBTQの問題とどう関わるのか書こうとすると長くなるのです。

今回のこの記事と「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④は、一連のものなので、“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーでまとめ、また読みやすいように記事の順序としても並べておきました。
興味のある人は読んでください。

今回はこのテーマで、ややこしい論証はすでに前の記事でしてますので、少しまとめる形で書いてみたいと思います。
きっかけになったのはフォローしているブログ「アルファロメオと小倉唯」さんの以下の記事でした。

ジェンダー・トラブル - アルファロメオと小倉唯

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブルフェミニズムとアイデンティティの攪乱』を読了。 といっても、前に書いたように、全体の6~7割しかきちんと「読めて」...

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この記事でブログ主のバロリスタさんは、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの書物「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」について書かれてます。

ジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティーの攪乱」は、なんでもフェミニズムについての今までの考えをひっくり返すような革命的で刺激的な本らしいです。
ただ、読むには難解を極めていて、大半の人がお手上げらしい。

そんなお手上げな本、ちょっと私にも読めません。
で、一番良くないパターンかも知れませんが、ネット検索でだいたいの内容を調べてみたりしました。
結果、一番詳しく書いておられたのは、 Wikipedia 以外だとバロリスタさんではないかと思いました。

いずれにしても、検索した記事に目を通しただけでも、私はその本とは別に、それなりに刺激を受けました。
というのも、私は男子新体操におけるジェンダーとLGBTQの問題にずっと関心(寒心かもしれない)を抱いていたからです。
それで、改めてそのテーマを私なりに整理し、新たな情報も書いてみたいと思ったのです。

それは、日本の男子新体操が国際化に際し、どのような障壁があるかを具体的に示すことになります。
実は男子新体操は16年の長きにわたり国スポ(旧国体)から外されていて今年ようやく復帰しています。(一度国体から外された競技がもう一度国体に復帰することは奇跡に近いそうです)

国体を外された理由というのが、国内でもやっている人が少ないし国際化されていないということだったようです。
日本の男子新体操は日本でしか行われていなかったからですが、今も事情はほとんど変わっていません。
日本以外で日本式の男子新体操を行っている国はロシアだけのようです。
やり始めようとしている国はあるそうです。

では男子新体操はそんなにも魅力のない競技なのかというと、そうではないのです。
たとえば、以下の、おそらくアメリカ人によるものと思われるコメントは14年前の花園大学の演技動画についていたものです。

ここでも、演技そのものについては素晴らしいものだと認めているのです。
でもアメリカでは通用しないと言います。
このコメントだけ読むと謎のようなコメントです。
ですが、他の多くのコメントから類推すると、要するに男子新体操はどんなに素晴らしくてもアメリカのジェンダー規範に反しているから受け入れられないということです。

つまり、信じられないような話ながら、先進国中ジェンダーギャップ指数が最下位の日本ですが、意外にも男子新体操は、世界におけるその分野のジェンダー平等の先駆け的存在であり、それが日本の男子新体操というスポーツの困難になっているのです。

というのも、私も驚いたのですが、欧米西側諸国の文化的側面におけるジェンダー規範はとてつもなく強烈なものだからです。
具体的には、踊ること=ダンスは女性が行う行為だとみなされていることです。
たとえば、器械体操の床運動で、音楽付きで演技するのは女性だけですし、ヨーロッパ発祥の新体操は長年の間、女性のみのスポーツだとされてきました。

もちろん、実際には欧米でも男性は踊っているのですが、どうやら衣装がレオタードのようなのが特にダメみたいです。(レオタードはそもそも軽業師の男性が着始め、今ももちろん男性用があるのですが、なぜか男性用レオタードに対して物凄い嫌悪感が示されます。)

男性が踊る場合、集団、個人を問わず、男女を対とするヘテロセクシャル(異性愛)な雰囲気の中で女性をサポートするなど、男性が男性であることがはっきりしている場合に許容されているようです。(例えば社交ダンス)

欧米系の素晴らしいダンスとしてすぐに思い浮かぶミュージカルでは、演者はダンサーというより俳優とみなされているようです。
ストーリー自体がたいてい男女の恋愛もので、その中で男性の演者は役柄や衣装等で男性であることが明示された上で歌い、踊っています。
でなければ「キャッツ」や「ライオンキング」のように動物にしてしまう。

あと、異なる社会的文脈を背景にして成立していると思われるブレイキンなど、ストリート系のダンスも男性が踊ってもおかしくないようです。(昔ならばタップダンスなど、いわゆるダンスとは別物という認識なのか? よく分かりません)
さらに異なる民族・文化圏に属することがはっきりしている民族舞踊は、自分達とは全く別物の文化としてなのか、これも許容されるようです。

そういう例外はあるものの、私が調べた限り、ジェンダー、つまり社会的文化的な性別役割の、このダンスに対する一部欧米人の意識は、一日本人である私の想像をはるかに絶する強烈なものでした。

私が前の記事で論証していったように、性別が示されていない形で男子新体操の演技を見た人々の中には、演者が姿形から男性であることが容易に想像できるのに女性だと思いこんでいる人達がとても多くいました。
彼らが女性だと思った理由は、彼ら自身も無意識で分かっていないようなのですが、選手達が踊っているからです。

その前に男子新体操はダンスなのか? ですが、音楽に合わせて演技するという意味ではダンスです。
実際は、男子新体操はアクロバット+徒手体操+ダンスです。
ただ、選手達は演技することを踊ると言うそうです。

井原高校男子新体操部の練習風景の動画では「自分には、選手たちが演技している時は少女に見え、それ以外の時は少年に見える」というような外国人のコメントもありました。
踊っている時と、そうでない時で、同じ人物の性別が変わるのです。
踊っていれば、脳が自動的に女性と認識してしまうほど、ダンスは女性がするものと思われているのです。
よく言われるアンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)も、そこまでいくと恐ろしいです。

一般日本人なら、演技内容や選手の姿形から男性だと分かると思うのですが、彼らにとっては踊っている人は女性であり、踊ることは女らしさそのものなのです。
曖昧なものは役割や服装で性別をはっきりさせるのです。
それが彼らの譲ることのできないジェンダー規範のようなのでした。
性別判断において、男性の身体を持っていることより、踊っていることの方(=ジェンダー)が重視されるのです。

この辺り、生物学的性差(セックス)がジェンダー(社会的性差)を作り出すのではなく、ジェンダーがセックスを決めるみたいなことを言っているらしいジュディス・バトラーの考えを図らずも立証しているようです。

そして男子新体操はその名の通り男性が行っているものです。
なのにリズムに合わせて踊っている。
踊っているのが女性ではないと知ると彼らの脳はどう反応するのか。

そこで二義的に出てくるのがLGBTQという概念です。
要するに、踊る男を見ると、ネットスラングを借りるならば脊髄反射的に「そいつはゲイだ」と言うわけです。

前に論証として、2009年、青森大学の男子新体操の動画のコメントから挙げましたが、私が言っていることが大袈裟でないと理解してもらうために、もう一度日本語に翻訳したコメント欄のスクショをほんの一部ですが挙げてみます。




























誤解なきよう付け加えておくと、2009年の青森大学の演技はその芸術性とスキルの高さゆえに伝説的な演技であり、初めて国外でバズった動画です。
もちろん、国内外の多くの人達に賞賛されています。
(ゲイだと決めつけるコメントでも演技の素晴らしさには気づかれています)

実際、前にも書いたように、この動画を見た世界的なサーカス集団であるシルク・ドゥ・ソレイユのプロデューサーは直ぐに日本にリクルーターを送り、その時は7名の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユに採用され、それ以降継続的に日本の男子新体操の選手がシルク・ドゥ・ソレイユで活躍するきっかけになっています。

ですがその一方で、上記のような「これはゲイだ」と決めつけるコメントが大量についたのです。(※注 前の記事を書いた2年後の現在、2009年の動画に付いていたその種のコメントは多くは削除された模様。その種のコメントを批判するコメントは残されているところをみると、クレームを受けた可能性有り。)
全体を見るならば、この状況は基本的に変わっていません。
意外なことかもしれませんが、欧米諸国のポリコレやLGBTQの権利擁護の流れの元、もっと酷くなっている印象さえ受けます。

上記のようなコメントを読むと、単純にこれはLGBTQ差別の問題かと思われそうですが、そうではありません。
LGBTQは本来全く関係ないのです。
それはあくまで二義的で、偏見に偏見を重ねているにすぎません。

ここでの本質的な問題は、ゲイだと決めつける人達が持っている、ダンスは女性がするものであり女性性(女らしさ)の表出だという固定化され、確信を持たれているジェンダー規範の方です。
実際、そこで言揚げされているゲイは、どこよりもそう決めつける人たちの脳内に住んでいるのです。

むろん、今も昔もそのことに気づいている外国人は多くいます。
たとえば、2009年の井原ジュニアの演技動画についた次のようなアメリカ人のコメントや、2018年の福岡大学の演技動画についたブラジル人のコメント。






前提として説明しておくと、RGとは、Rhythmic Gymnastics(リズミック・ジムナスティック)の略で新体操を意味します。
要するに男子新体操は、どんなに素晴らしい演技をしても、欧米西側諸国の「ダンスは女がするもの」という偏見から「ゲイだ」と決めつけられてしまい、結果的に国際化は極めて難しいのです。(ジュディス・バトラー流に言うなら“排除”されてしまうのです。)

そして、この問題を複雑にしているのがスペインの男子新体操です。

前にも触れたように、日本の男子新体操は日本が発祥のスポーツです。
オリンピックスポーツである女子の新体操はヨーロッパ発祥で、名称のみ新体操と同じですが、実質は異なるスポーツです。
(個人的には私は、日本の男子新体操(Mens Rhythmic Gymnastics)はヨーロッパ発祥の女子の新体操と名称を同じくするのではなく名称変更すべきであると考えています。)

スペインにも男子新体操があるのですが、スペインの男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操と同一ルールです。
だから、もし女子の新体操に対応する男子の新体操を求めるのならスペインのそれです。
今ではスペインの近隣国もスペイン式の男子新体操をやり始めているようです。
(ここでは便宜上、スペインの男子新体操、もしくはスペイン式男子新体操と称します)

ところでスペインは、ジェンダーやLGBTQの問題に先進的に取り組んでいる国です。
それだけなら私も、女子の新体操と対になるものとしてスペイン式の男子の新体操を応援したいところですが、実態を見ると考えこまざるをえないものがあったのでした。

あらかじめ断わっておくと、私にはスペインの男子の新体操について書くことは情報自体が乏しく、YouTube等で知るだけなので正確なことはいえません。
そのことを理解の上で以下を読んでください。

たとえば以前にも触れたように(今現在もそうなのかは分かりませんが、)スペインの男子新体操では、成人男性が女子の新体操と同じレオタードを着て試合に参加していました。



女子の新体操のレオタードは、女性である私が見ても過度に女性的と言わざるをえないものがあります。
私は、それをあえて着る男性はドラァグクイーンであると思います。

ドラァグクイーンとは、LGBTQの一つのQ(クイア)に属する人達で、過度に女性的な服装を着る、多くはゲイでもある男性達のことです。
ドラァグクイーンだけでなく、異性装、つまり異性の服を好んで着る人達はQに属するのですが、ドラァグクイーンと呼ばれる異性装者の場合、過度に女性的な服装を着た自分が人々の注目を浴びることに満足を得ます。

つまり、ドラァグクイーンは異性装を行う人達の中でも特に自己顕示欲求の強い人達なわけで、注目を浴びる新体操の試合はうってつけの場所になるわけです。

私は日本のテレビで、一人のドラァグクイーンの男性が、努力して空中ブランコを習得し(!)、実際のサーカスで演技する番組を見たことがあります。
もちろん日本でのことで、テレビ局も協力している1回限りのことのようでした。

派手な女装の男性“ドラァグクイーン”が木下大サーカスの空中ブランコに挑戦 伝えたい思いとは? 衣装も手作り 名古屋【SDGs】 | TBS NEWS DIG (1ページ)

シリーズSDGs「地球を笑顔にするウィーク」です。LGBTQへの理解を広めようと、名古屋のドラァグクイーンがサーカスの空中ブランコに挑戦しました。無事、成功したのでしょう...

TBS NEWS DIG

 


空中ブランコをした彼にも、スペインで新体操をする男性達にも、同じような動機があるのかもしれません。
ただ、サーカスの空中ブランコは、そもそも見世物ですから問題はありません。
ですが新体操は見世物ではなくスポーツです。

ドラァグクイーン自体は特に非難されることではないですが、スポーツ競技の場に実質としてLGBTQのイベントを持ち込んでいいのか、そこが私には疑問でした。
スペインはLGBTQに理解があるのでOKなのか、情報不足で分かりません。
ただ、スペインのその種の動画は一頃 YouTube等で多く流され、男子新体操のイメージに大きな影響を与えていました。

スペインの男子新体操は、もちろん女性用のレオタードを着た成人男性だけがやっているわけではありません。
むしろ男性用のレオタードを着て演技する少年や青年の選手の方が多いと思われます。
断言できないですが、彼らは全員ゲイというわけでもなさそうです。

ですが、彼らの演技がまた問題なのでした。
前の記事でも書いたように、スペインの男子新体操は、それでよく批判されてもいるのですが、完全に女性の新体操のコピーだったからです。

女性の新体操は最初から女性に特化されて出来ており、女性の身体の特性を強調したスポーツです。
それを男性の選手が忠実にコピーすればどうなるか。

同じスポーツなんだから男女が同じことをして何がおかしいと思われるかもしれません。
確かにサッカーであれ、卓球であれ、ボクシングであれ、水泳であれ、ほとんどのスポーツは男女同じことをします。
ですが身体表現そのものである芸術スポーツや体操は、基本の要素は同じであっても男女同じではないのです。

たとえば芸術スポーツであるフィギュアスケートは男女まったく同じ演技をしているかというとそうではありません。
そもそも筋肉量がまったく違うので、それに合わせてやることも微妙に違ってくるのです。
スポーツから離れて、舞踊芸術であるバレエを見ても、男性のバレエダンサーは女性のバレエダンサーとまったく同じ踊り方をしているわけではありません。
(それをやってるバレエ団もありますが、コメディバレエ団です。)

結果として、スペインの男子新体操は、新体操が芸術スポーツであるにもかかわらず、男性選手の女性化がまるで目的になっているかのようでした。
そこには、男子が行う新体操において、当然期待される独創性(オリジナリティ)も、創造性もありませんでした。
男子新体操としての可能性が見えなかったのです。

スペインの男子新体操がそうなった原因については、すでに前の記事に指摘したように、おそらく欧米西側諸国の一員である彼らは、欧米のダンスを巡るジェンダーの軛を逃れていなかったからと考えられます。
彼らもまた、意識裡か無意識裡かは分かりませんが、ダンスを女性性の表現、もしくは表出と考えて、男性が踊っても、その範疇で演技したのではないかと思います。

私がここでスペインの男子新体操について書いていることは分かりにくいかもしれません。
日本の男子新体操と対比させると、あるいは理解しやすいかもしれません。

たとえば日本の男子新体操は、欧米人と思しき人達からしばしば、以下のように「男らしさを損なうことなく優雅である」とコメントされています。

これは逆に考えると、彼ら欧米西側諸国の人達にとっては、ダンスと女性性が不可分である以上、ダンスにおける優雅さや美しさは、女らしくあらねば(=男らしさを放棄せずには)表現出来ないと考えられていたということではないでしょうか。
その結果がスペインの男子新体操だったと言えます。
だからこそ彼ら欧米西側諸国の人達は、日本の男子新体操では選手達が男らしさを失わず優雅で美しいことに驚いているのです。

もう一つ、私が以前に記事として挙げた「男子新体操の女子選手」ですが、日本の男子新体操を行う女子選手は男の子みたいに見えるでしょうか。
見れば分かりますが彼女達は男の子のようには見えず、自然な少女らしさを保っています。
男性選手の場合も「男らしさを失わず」といっても、これ見よがしな男性性を誇示しているわけではなく、あくまで自然体です。
それが日本における、ジェンダーを気にしない、らしさにこだわらないということのようです。

ただ、スペインの男子新体操も、一部ですが女らしさにこだわらない独創的で芸術的な演技をする選手が出てきており、スペインの男子新体操に批判的な人からも高評価を得ています。
正直、数年前に観たスペインの男子新体操と、今回改めて観たスペインの男子新体操とでは選手達の体形一つとっても変化が見られます。(以前の選手達の体形は、私の記憶では、まるで紙人形のようにペラペラでした。)

スペイン式の男子新体操は生成の過程にあるのかもしれませんが、この点に関しては私は確定的なことを記すことはできません。
いずれにしろ、スペインの男子新体操は、ドラァグクイーンと思しき選手の参加や、選手達の過度に女性的な演技など、何のことはない、日本からみれば、それは男性が踊ることに対する欧米の偏見だとしか言いようのない在り様をそのまんま体現していたのでした。

もっとも、以上のようなことを指摘したところで、根強いジェンダー規範を持つ欧米西側諸国の人達にとっては、ジェンダー的な意味合いで女性的なスペインの男子新体操も、ジェンダーにこだわらない日本の男子新体操も、両者に違いはないのです。
というのも日本の男子新体操で、仮に勇壮な戦士を思わせる男らしい演技をしたところで、根強いジェンダー規範を持つ人達から見れば、踊っているというただそれだけで女性的とみなされるからです。

         


ここから書くことは最近のことになります。

2年前の記事では差別的な意味合いで男子新体操が女性的とみなされ、ゲイであると決めつけられていると指摘しました。
しかし、パリオリンピックを見ても分かるように、欧米のジェンダー平等やLGBTQ問題への向き合い方は少なくとも表面では積極的です。
この流れは日本の男子新体操にとってプラスになっているでしょうか。

ここでは日本と同様、男性が踊ることに偏見を持たないロシアの存在も視野に入れつつ考えてみます。
(日本の男子新体操を巡る日本とロシアとの関係は複雑なものがあるようですが、ここではこの記事のテーマに沿ったことのみ記します。)

私もよく知らないのですが、かつて日本の男子新体操の関係者が世界に日本の男子新体操を広めるべく単身外国に赴いたことがあったそうです。(5人の侍といわれたらしい)
その試みはほぼ失敗に終わったとのことですが、そうした日本の試みとは別に、一国だけ日本の男子新体操が根付いた国がありました。
それがロシアだったのです。

この背景として、ロシア(だけでなく東欧)は、日本と同様に男性が踊ることに対して偏見を持たないことが挙げられます。
もちろんそこに住んでいる全員がそうだというわけではなく、西欧化した意識の持ち主は東欧にもいます。
いずれにしろロシアは日本の男子新体操を気に入り、今ではロシア国内で競技会も開かれているとのことです。

そこまで行われるようになった背景には、ロシアの女子の新体操界の大御所であるイリーナ・ヴィネルという女性の存在も大きいようです。
ロシアは、新体操に関しては長年にわたり絶対王者として君臨しており、そのためロシアの大御所であるということは世界の新体操界の大御所でもあるということです。

彼女は、ロシアの新体操界の過酷な内実を取材したドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」にも、まるでラスボスのような風格と迫力で登場しています。

そして、欧米諸国がスポーツにおけるジェンダー平等をあれこれ主張し始める以前から、日本の男子新体操をヨーロッパ発祥の女子の新体操の男性版として推していたのがイリーナ・ヴィネルだったのです。
彼女はロシア国内でも日本式の男子新体操を行う男子選手の育成に力を注いでいました。
彼女の意向は当然新体操界では重く受け取られました。

過去の記事でも私が何度か触れたように、日本では歴史的経緯から男女異なるスポーツを合わせて新体操と称しています。
そのせいか英語では日本の男子新体操は“ men's rhythmic gymnastics ”と訳されてしまい、様々な誤解や混乱を招いています。
イリーナ・ヴィネルが考えた、ヨーロッパ発祥の新体操の男性版に、本来異なるスポーツである日本の男子新体操を当てようというのもその一つだったのかもしれません。

もちろん、プロ中のプロであるイリーナ・ヴィネルは、一目見て日本の男子新体操がヨーロッパ発祥の新体操とは異なるスポーツだということを理解したでしょう。
それでも彼女は日本の男子新体操を推したのでした。
これはスペイン式の男子新体操を推す人達から反感をかいました。
困ったことに、その反感は提案した当人ではなく日本の男子新体操に向かったみたいです。

以下の動画はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場から男子新体操の問題を取り上げたものです。(もちろん日本のものではなく英語圏のもの。)


私はこの動画「Men's Rhythmic Gymnastics」について、2年前の記事でも取り上げましたが、今回改めてこの動画を見て、前の記事を訂正しないといけないことに気づきました。
というのも、この動画自体が大幅に編集し直されているからです。
コメント欄も問題があるものは削除したのではないかという印象です。

実はスポーツにおけるジェンダー平等推進の立場にあるこの動画は、以前は日本の男子新体操について非常に敵対的でした。
その理由は、もし日本の男子新体操が女子の新体操の対となる男子の新体操として採用されるならば、新体操は名目上は男女平等が達せられますが、日本の男子新体操が女子の新体操と異なるスポーツである以上実際には男女平等は達せられないからです。

それだけではありません。この動画の管理者や以前にコメントを書いた人達は大きな誤解をしていたみたいです。
彼らは、日本の男子新体操はヨーロッパ発祥の女子の新体操を剽窃したものだと思っていたらしいのです。
要するに、日本人がヨーロッパ発祥の女子の新体操を見て、勝手に似て非なるものを作り上げ、男子新体操と名乗っていると思ったようなのです。

もちろん事実は、既に日本の男子新体操の歴史で触れたように全く異なります。
上記の動画はジェンダー平等という、それなりに真面目な意図をもって配信されていたものですから影響も懸念されました。
それで、なのかどうか分かりませんが、SNS上で日本の男子新体操を応援し、動画や記事を配信している「Ouen MRG」の管理人がコメント欄でそのことを指摘しました。
その結果、コメント欄でのそれまでの敵対的な姿勢は止みました。

私の2年前の記事はその時点で書いたものでした。
その後に、この動画の管理人は大幅な再編集を行ったものと思われます。
これは私の推測ですが、たぶん慎重に事実関係を調べ直し、結果、ロシアとイリーナ・ヴィネルの存在に行き当たったのかもしれません。

ところで再編集の結果、欧米西側諸国の男子新体操に関わるジェンダーやLGBTQについての意識もコメント欄で散見できるようになりました。(以前は、動画のテーマが rhythmic gymnastics におけるジェンダー平等でありながら日本の男子新体操を問題視することが主眼になっていた。)
そこから窺えることについて触れてみます。

そもそもYouTubeやX(旧ツィッター)のコメントや書き込みは、深く考えたり調べたりせず思ったことを書き込んでおり、内容に事実と反することは当たり前のようにあります。
そこには、人々が何をどう考えているかが、簡単には敷衍化できないにしろ反映されています。
つまり人々の偏見もまた浮かび上がるのです。

たとえば以下のようなコメント。


このコメントの書き手はロシアのイリーナ・ヴィネルがスペインの男子新体操を受け入れなかったことからロシアの保守性を指摘しているわけです。
ですが、このコメントは誤りだらけです。

たとえばロシアがバレエ大国であることは私でも知っていますし、歴史的にもロシアの男性バレエダンサーの活躍は目覚ましいものがありました。
ロシアがバレエや男性ダンサーを受け入れないなんて偏見もいいところです。

それ以前にこのコメントの一番の偏見は、言うまでもなくダンスする男性とLGBTQを疑問も持たず結びつけていることです。
その上でロシアはLGBTQ問題に限らず保守的だから男子新体操を受け入れないと主張しているわけです。
そこでは、動画の中ではっきり語られている、ロシアが日本の男子新体操を受け入れている事実もなぜか無視されています。

何度も記しますが、ダンスについての根強いジェンダー規範を持つ人にとって、スペインのそれも日本のそれも関係がないのです。
イリーナ・ヴィネルが日本の男子新体操を推している事実はそれだけでこのコメントの主張を覆しているのです。

実際、この動画には以下のようなコメントもついていました。


このコメントはGoogleの翻訳が分かりにくいですが「自分のロシアのRG体操選手を言葉で脱がす云々」の意味は、先に触れたドキュメンタリー映画「オーバー・ザ・リミット」に現れているイリーナ・ヴィネルのパワハラを指していると推測されます。
後段、イリーナ・ヴィネルが男性がRGに参加することを支持云々は、彼女が日本の男子新体操を女子の新体操の男性版として参加させようとしていることを指しているようです。

この動画自体はスペイン式の男子新体操を推す立場ですので、上記のコメントにはイリーナ・ヴィネルが推しているのは日本の男子新体操である(だから評価には値しない?)という返信コメントもありました。
が、いずれにしても上記のコメントは、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルが日本のそれであれ男子の新体操を受け入れていることを評価しているわけです。

ただその種の評価もまた、いささか的が外れていて、ロシアという国を知らなさすぎると言えます。
というのも、ロシア人であるイリーナ・ヴィネルは、そもそも男性が踊ることに対する西側の欧米人が持っているような偏見を持ちあわせていないからです。
言葉を換えれば上記二つのコメントをした人達は自分達自身の偏見を無自覚なまま相手(ロシアやイリーナ・ヴィネル)に投影しているということです。

付け加えると、確かにイリーナ・ヴィネルは日本の男子新体操を推していますが、彼女はスペインの独創的で芸術的な演技をする男子新体操の選手も評価しています。
ならばなぜ、彼女はスペイン式の男子新体操を推さないのかというと、スペインではその種の独創的で芸術的な演技が全体の方向性や水準としては確立されていないからだと思います。

新体操の芸術性を重視するロシア的な価値観はどうやら西側諸国のジェンダー平等を推進しようとする人達やLGBTQへの差別を排そうとする人々には理解できないようです。
それ以前に彼ら、いわゆるリベラルな人達は、自分達の文化の価値観でロシアなり日本なりの異なる文化を持った人達を評価しようとする間違いを犯しているようにも感じます。

私はこの記事のハッシュタグに“エスノセントリズム”という言葉を付けました。
エスノセントリズムとは自分が生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化や社会を評価する考え方のことです。

ジェンダーやLGBTQについて、私たちは無意識に欧米西側諸国が一番進んでいると考えてしまいがちです。
でも、そこに彼ら自身のエスノセントリズムが入り込んでいることもあります。
実際、ジェンダー平等やLGBTQの権利を主張するリベラルな人達の中には、逆の意味で差別的な感じさえ受けることがあります。

たとえば、2019年の花園大学の演技動画には以下のようなコメントが付いていました。

いくつか説明しておくと、このコメントの原語はスペイン語のようで、スペイン語圏の人によるもののようです。
コメント中のネオコンの意味は新保守主義のことです。
分かり辛いもう一つの言葉「アルファメール」の原語は“machos alfa”で、意味は「群れのボス猿」みたいな感じです。

そこから意訳すると、コメントの内容は、日本のアニメが好きなような同性愛嫌悪を持つ保守的人種は、彼らがボスと仰ぐ男権的な日本で、LGBTQイベントに他ならない男子新体操というスポーツがあるなんて考えも及ばないだろうハハハハハハと笑っているのです。

このコメントを書いた人は、おそらく日本で言う意識高い系のリベラルな人なのでしょうが、踊る男性=ゲイという自分の所属する文化の持つ偏見には完全に無自覚なようです。
日本のアニメに、ここで指摘されるような同性愛嫌悪があるかどうかも疑問です。
考えるに、どうやら西側欧米諸国にとっては、ロシアも日本も、自分達とは異なり、政治的意識(いわゆるポリコレ)に未だ目覚めない遅れた国という認識なのかもしれません。

以上、ざっと見たところですが、男子新体操は、欧米の今時のジェンダー平等やLGBTQ問題の流れの中では、仮に相手に聞く姿勢があったとしても、よほど上手く説明したり説得したりしないと理解されないのではないかという印象を持ちます。

ただそういった状況も含め、理解している人は理解しています。
実際、日本国内で10年以上国体から外されていた男子新体操が国スポ(旧国体)に復帰できたのも、関係者の努力が国外での高い評価につながり、それが国内での見直しとなったからでしょう。

多くの外国人が男子新体操を観て「なぜこのスポーツがオリンピック種目にならないのか」と素朴に疑問を持ちます。
最近も、以下のようなコメントがありました。(このコメントは、先のコメントと同じ2019年の花園大学の演技に付いたものです。)


このコメントにあるように、男子新体操が国際化しない理由は欧米のジェンダー規範であり、それがもたらす性差別であることは、欧米西側諸国にとっては既知の事柄なのです。
コメント主が欧米のジェンダー規範を当然としている場合も含め、それはもう何度となく多くの人達が動画のコメント欄で書いていることなのです。

翻って日本は、欧米西側諸国のその偏見にどの程度気づいているのか。

ここからは日本のことを書いてみます。
ある程度大人の当事者たちは色々言われていることは知っていたと思います。
ただ、それらからは目を逸らしていたというのが実情ではなかったでしょうか。
そりゃあ「自分達は欧米ではゲイだと見なされている」なんて誰も思いたくはないでしょう。
それ以前に、ここで述べたような欧米のジェンダー規範の強烈さには思い至らなかったと思います。

日本人にとっては、それは理解や想像の範疇をはるかに超える事柄だからです。
何度も書きますが私にとっても驚きでした。
自分自身についての、あまりに事実とかけ離れた他者の思い込みは自分とは無関係だと思ってしまうのです。(確かに無関係なんですが・・)
男子新体操の動画についた無数のコメントを意識的に読まなかったら、私も気が付かなかったと思います。(Googleの翻訳機能は万全とは言えないけれど、他国の人達の生(ナマ)の意識を知る上で役に立ちます。)

実際、ジェンダー平等というと女性が被害者のように思われがちですが、男子新体操においては男性が差別され、偏見の矢面に立たされています。
またジェンダー平等やLGBTQ問題で遅れていると思われているロシアや日本に偏見がなく、進んでいると思われている欧米西側諸国に強い偏見があります。
固定観念に囚われていたらその種の事実は見えません。

しかも男子新体操におけるジェンダー問題は現在進行形で、女子の新体操との関係でどのように日本の男子新体操を位置づけられるか、未だ決着がついていないのです。
でも欧米での議論は相当にあるようなので遠からず大きく動くかもしれません。
日本はその時、欧米の差別的なジェンダー規範の存在に無知で無自覚なままで、欧米やロシアの言い分に巻き込まれず、どれくらい主体的に動けるのでしょうか。

日本の男子新体操は日本体操協会に属していますが、男子新体操に関しては資金も人材も乏しく、登録されている選手数も2000名程度と、まさにマイナースポーツの典型です。
実際、日本体操協会の中でも長年冷や飯食いの状態のようです。

国際化に関しては、長い年月、関係者は努力していたけれど、極東の小さなスポーツ団体が欧米の強固なジェンダー規範を新体操の部分だけ変えるなんて、どだい無理な話だったのです。
そしてグローバルスタンダードを任ずる欧米が動かなければそれ以外の国々も動きません。
だから国際化がうまくいかなかったことは、日本の関係者の責任ではありません。
それくらい欧米のジェンダー規範は途方もなく強いものだからです。

じゃあどうするんだって話ですが、それでももし本気で国際化を望むのなら、欧米のジェンダー規範という敵をしっかりと見すえた上で戦略を立てねばならないでしょう。
相手(日本以外の国々、とりわけ実質的に決定権を握っている国々)が自分のことをどう思っているか、まったく気づかないまま国際化なんてありえないのです。
幸い、日本はともかく欧米西側諸国では、日本の男子新体操が性差別によって正当に評価されていないことに気づかれています。

ここで私の勝手な考えを書くならば、国際化を目指すなら、日本の男子新体操についての欧米とは異なる社会的・文化的コンテキストを積極的に示すことではないかと思います。
先に書いたように、ストリート系のダンスなど、欧米でも男性がダンスすることは当たり前にあるからです。
要は社会的・文化的な文脈(コンテキスト)の問題です。

そこから考えると、海外で、mens rhythmic gymnasticsと、英語表記で自らを名乗っていることは相当な悪手でした。
なぜなら rhythmic gymnastics は、欧米ではスポーツにおける女性文化そのものだからです。
あえて酷い言い方をするなら、まるで関係ないのにわざわざ「おかまキャラ」を買ってでているようなものです。
もちろん、そういう見方自体が差別的なのですが、国際化とか普及といった面から見ると悪いネーミングだということです。

たとえば外国人のコメントを読んでいて、よく見かけるのは日本の男子新体操は武道から生まれたのではないかというようなことです。
要するに外国人で、男子新体操を見て魅力を感じるなど肯定的な思いを持った人は、男子新体操は武道から派生しているのではないかと言いたいようなのです。

中でもロシアの男子新体操の指導者は、はっきりと武道から派生したみたいなことをいい、オリエンタルなものだと言ってます。
ロシアはそういう嘘を平気で言うから信用できないのですが、意図は分かります。
背景の文脈を変えて、受け入れ可能なものとして諸外国の認知を図ろうとしているのです。
むろんそれは間違ってます。

日本の男子新体操は、徒手体操の部分はヨーロッパの体操を基礎にしているので、全然武道とは関係なく、伝統的でも民族的でもオリエンタルなものでもないのです。
そして最大の特徴であるアクロバットつまりタンブリングは、選手間の言い伝えによれば、元々は戦前の日本の軍隊での、航空兵の空間認識能力を高めるための訓練だったそうです。
ただその起源は選手間の言い伝えとしてのみ残っていて、公的には語られていません。
起源として正式に語られなかったのは、おそらく終戦直後のGHQ対策だったと推測できます。

ちなみに青森大学の2019年のドイツ(?)遠征時の演技動画を見たあるイギリス人のコメントは興味深いものです。



2行目、「演技と演技」は原語では“display and routine”です。
このコメントの主は1950年代から1960年代初頭に英国空軍に所属していたとのことですので相当にご高齢のようです。

このコメントから分かることは、イギリス空軍でもアクロバットのショー的な演技が行われていたことです。
コメント主は青森大学の演技を観てそれを思い出しています。
これは日本の男子新体操の起源の言い伝えの信ぴょう性を高めるものでしょう。

そして国際化を考えるのなら、「航空兵の訓練」といった文脈は有効です。
なぜなら、男子新体操が好きでも「ゲイだと思われるのが怖すぎる」というアメリカ人のコメントが現実にあるからで、「航空兵の訓練」は彼らに刷り込まれている「ゲイの求愛ダンス」とは別の文脈を提供するからです。
そして実際の演技の、サーカス並みにスリル満点の超絶性はその文脈を充分すぎるほど補強します。

要は欧米各国でも心理的な抵抗なく男子新体操をやってもらうことが重要なのです。
そのために欧米流の文脈から離れることが必要なのです。
ジェンダー平等の闘士ならば「それはゴマカシだ」と言って怒るかもしれません。
もちろんジェンダー差別は重要な論点ではあるけれど、日本の男子新体操が欧米のジェンダー問題を直接的に解決するには余裕も義務も無さすぎるのです。

もっと基本的なところでは、少年達が行うスポーツとしての男子新体操を知ってもらうことですが、アニメの「バクテン!!」はそれが成功した例だと思います。

アニメの「バクテン!!」は、フィクションであっても、日本の社会の日常性の中で、男子新体操に夢中になる高校生達をリアルに描いていました。
海外に配信されたアニメの「バクテン!!」を見て、本物はどんなものかと実際の男子新体操の動画を見てコメントしてくる海外の若い世代の人達には、私が読んだ限りジェンダーに関わる否定的なコメントは一つもありませんでした。

彼らは実際の演技がアニメで見たものよりも凄いことにシンプルに感心し、男子新体操というスポーツをクールだと書いています。
自国のジェンダー規範で見ているのではなく、「バクテン!!」が提示した文脈で見ているのです。

アニメの「バクテン!!」はどちらかといえば国内向けに男子新体操というスポーツの認知度を上げることを目指していたのでしょうけど、国外に向けても良い宣伝になったと思います。
なにより本来の日本の文脈での男子新体操がどういうものか、海外でも知らしめる効果がありました。

国際化に関しては、今はどうなのか知りませんが、おそらく日本の関係者は女性の rhythmic gymnasticsの男性版にするというイリーナ・ヴィネルの提案に期待をかけていたと思います。
実は私も最初に聞いた時は「そうなればいいな」と思っていました。
ですが色々と知るにつけ、その方法は良くないと思うようになりました。

理由は、女子の rhythmic gymnastics と競技内容を同じくするスペインの男子新体操があるからです。
そこに競技内容がまるで異なる日本の男子新体操を持っていく必然性などないのです。
逆に、仮にもし日本の男子新体操を rhythmic gymnastics の男性版とすると、スペインの男子新体操の選手達や日本で男子新体操をやっている少女達の行き場がなくなります。

海外のコメントを読むと日本式とスペイン式の両者を融合させようとする意見もありますが、それではどちらの独自性をも失わせます。
というより、力の弱い日本は相手に吸収されてしまうでしょう。
実際、私が知る限りでも、過去において日本の男子新体操は rhythmic gymnastics にすり寄り、競技内容まで変えようとした形跡があります。

独創性においても、創造性においても、世界に誇り得る競技でありながらヨッロッパ発祥の rhythmic gymnastics の権威に縋ろうとしたのは、それによって得られる国際化が目的だったのかもしれません。
それは良く分かるのですが、でもそれは実際には国際化とは繋がらず、競技のアイデンティティをも危機にさらす姿勢だったと思います。

スポーツにおけるジェンダー平等とか、LGBTQ問題というのは、私がここで書いたように決してスローガンだけ唱えていればよいものではないし、また教科書的な理解で済まされるものでもないです。
実際、このテーマは私のような素人には荷が勝ちすぎています。
日本のスポーツジャーナリストやジェンダー問題の専門家には、もう少しは男子新体操に目を向けてほしいものだと思います。

最後になりましたが、疑問点や間違っている部分などありましたら、遠慮なく指摘してください。
また、このテーマに興味のある人のために、分かりやすいように2年前に書いた前段に当たる「日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操」①②③④と纏め、新たに“男子新体操とジェンダー”というカテゴリーの中に収めました。
そちらも読んでくだされば幸いです。

日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ④

2024年11月02日 | 男子新体操とジェンダー

私はここで、欧米の一部では男性が音楽に合わせて演技することに特殊で強力な偏見があることを示しました。
でもそれは具体的にどこの文化なのか。
コメントにはっきりと国名が書かれていますので、その文化にアメリカは確実に含まれます。

ただ大半を占める国名を書いていないコメントではどこの国かは分かりません。
否定的なコメントは英語が多いのですが、英語は世界共通語的な面があり、英語だから英米人とも限りません。

逆に好意的なコメントは東欧・南米・東南アジアです。
それらは国名や国旗が示されているか、文字や名前で地域が分かる国々です。
それらから多少乱暴に推測すると、偏見があるのは、ヨーロッパでも、おそらく南欧と西欧の国々ではないかと思います。
【*注 私はここで好意的なコメントが多い地域として南米をあげましたが、実際には南米でも男性が踊ることに強い偏見を持っている人が多いとのことです。
南米の人達は男性が踊ることを否定的に見ていても、アメリカ人のようにあえて悪く書くようなことはしないみたいです。】

つまり、いわゆる先進国で、それらの国々の価値基準が時にグローバルスタンダードと見なされている地域です。

たとえば、私は二十歳の頃にリリアーナ・カバーニ監督のイタリア映画、厳密には伊米合作で、かのルキノ・ビスコンティも絶賛した「愛の嵐」という映画を観ています。
そこでも、レオタードのような衣装でダンスする男性が主人公の男性を誘惑しているシーンがありました。

半世紀近く前の話なので、はっきりとは覚えていないのですが、私の記憶では、なかなか巧みなダンスだったように思います。
男子新体操はああいったものと見なされているのかもしれません。
つまりゲイの求愛パフォーマンスです。
スポーツとして認めれば体操の品位を落とすとコメントされたのは、彼らにはそのようにしか見えないからかもしれません。

もう一つ、女子と同じスタイルの新体操をするスペインの男子新体操では、ドラァグクイーンと思しき男性が女性用のレオタードを着て新体操をしている動画が以前はたくさんありました。
今では削除されたのかほとんど見当たりません。
(削除したのはスペイン方式の男子新体操をスポーツとして普及させたい関係者か? もちろんスペインでも大半の選手は男性用のレオタードを着ています。)

今回、私が一つだけ見つけることができた女装した選手の動画。⇒ココ
確かに、いかにLGBTQに理解を示すべきと言われても、演技する目的が新体操というより、新体操の女性用レオタードを着ることにあるような男子新体操の選手をアスリートと呼ぶのは難しいです。
(女装自体は好きにしたらよいのですが、スポーツのイベントで目的が女装なのは疑問だということ。)

スペインは、私は新体操とは関係のないところで、非常にジェンダーフリーが進んだ国と聞いたことがあります。
スペインに女子と同じスタイルの男子新体操があるのも、そうした流れの中のものと思われます。
女装した選手達を受け入れていたのも、同じく進んだ社会の現れだったのかもしれません。

ただジェンダーフリーが進んでいるといっても、女装の選手達も含め彼らは、彼らの「ダンスは女性らしさの現れ」という社会的文脈の中で男子新体操をしているみたいです。
そうした在り様を本当にジェンダーフリーと言えるのかどうかは私には判断できません。
余計なことかもしれませんが、私には、スペインではそのジェンダーの軛がスペインの男子新体操を創造性や芸術性から遠ざけているようにも見えます。
(正確を期せば、一部の選手はそこから逃れつつあるようです。)

ところで、先進国だとされている欧米の価値観、物の見方は、ともすれば最も進んだ正しいこととして世界中に大きな影響力を持っています。
たとえば私は、ロシアを含む東欧の人達は、日本の男子新体操に対して好意的であると書きました。
それでも中には知識として欧米文化の影響を受けたと思われるコメントはあるのです。
たとえば、原文ではキリル文字の以下のコメント。


これは2016年の井原高校の演技についていたコメントです。
この人の場合、知識として欧米の価値観を持っていて「男性がこんなパフォーマンスをしていいのだろうか」と思ったみたいです。
でもそれはあくまで知識であり、本来のその人自身とは距離があります。

距離がなければ、選手達が少女に見えたり、男子新体操の演技を女性らしさの表れと思ったり、あるいは、パブロフの犬のように選手たちをゲイだと断言するでしょう。
ですが彼は、東欧という異なる文化的背景を持っていたが故に自分の戸惑いがステロタイプだと気づき、選手達をカッコいいと感じられたのではないでしょうか。

では同じように文化的に距離のある日本人ならどうでしょう。
イタリアで演じられた国士舘大学の男子新体操の動画に、次のような日本人のコメントがありました。⇒ここ


今さら私が指摘するまでもなく、サッカーやラグビーをはじめ、男ばかりで行うスポーツは珍しくありません。
でもサッカーやラグビーは男ばかりでも欧米ではゲイ集団だとはみなされていません。
それは欧米ではサッカーやラグビーが男らしいスポーツだと見なされているからです。
③であげたコメントの中にも、「だからゲイ・・なぜ男はこれをするのですか・・彼らはサッカーのようにゲイではなくハードなことをすることをできませんか」とはっきりと書いています。

要するに男ばかりの集団だからゲイだと決めつけられているのではないのです。
何度も指摘しますが、男子新体操は音楽に合わせて演技するから女のようだと思われ、その結果、ほぼイコールとしてゲイだと見なされているのです。

欧米のその種の文化的偏見に、日本の男子新体操が、わざわざ女子を入れて防衛的に追随する必要はあるでしょうか。
それ以前にこのコメントは、ゲイに対するネガティブな見方を当然として成り立っています。
また、ゲイだと見なされないために女性を加えようという発想も問題ありです。

②で、日本の男子新体操の歴史で見た通り、そもそも男子新体操の前身である団体徒手体操は、欧米の女性の新体操と異なり、当初からどちらか一方の性を排除したものはありませんでした。
新体操と名称変更してからも、高校や大学では新体操部として一緒に活動している学校は少なからずあるようです。

実際、男子新体操の動画でも男子新体操の選手が練習している直ぐ背後で女子の新体操の選手達が練習しているのをよく見かけます。
学園祭などのイベントでは男女が集団で創作演技を披露しています。
コメントを読む限り、海外の視聴者には目新しいのでしょうか、そうした創作演技も好評のようです。
全国にある民間の体操クラブでも同様で、クラブの発表会では男女一緒の集団創作演技が行われています。

それらは女子の場合、女子の新体操なのですが、近年では民間の体操クラブで、小学生くらいの少女達が女子の新体操ではなく、男子新体操に興味を持って男子新体操を行うケースが増えてきているそうです。
男子新体操では、すでに男女混合のミックスのチームが生まれ、競技会にも出場しています。⇒ここ

日本の男子新体操のジェンダーフリーは、外野がゴチャゴチャいうより前に、実態はずっと先に進んでいるのかもしれないのです。
もちろん、民間の体操クラブが男子新体操に少女達を受け入れたのは、大上段にジェンダーフリーやダイバーシティを掲げてのことではなく、少子化に対応するクラブの経営戦略として顧客のニーズに応えただけかもしれません。
あるいは傍からは伺い知れない問題があるかもしれません。

私は日本という国がジェンダー問題に理解があるとは少しも思っていませんが、こと男子の新体操に関する限り欧米西側諸国の方がはるかに遅れているように見えます。
これは単純に日本人が、音楽と合わせて演技することに男も女もないことを知っているからだと思います。
結果、自然体でジェンダーフリーに向かうことになってしまったのではないでしょうか。


長々と書きましたがこの辺で纏めていきます。

私は男子新体操の動画に付けられたネガティブなコメントを敢えて取り上げて、その背後にあるものを探りました。
ですがここ数年は絶賛しているコメントの方が圧倒的に多いのです。
欧米でもネガティブなコメントをしている人達は旧世代と言っていいでしょう。

日本の高校の男子新体操をテーマにしたアニメ「バクテン!!」を見た海外の若い視聴者は、YouTubeで実際の男子新体操を見て「アニメより凄い!」と感嘆しています。
そこでは先にあげたようなネガティブな言葉はありません。

思えば男子新体操は、どう考えても加入が認められない時期にFIGに対して加入のアピールをしていたのだと思います。
よく言われているように「団体演技で手具を用いないから新体操とは認められない」とか「タンブリングがあるから新体操ではない」といったこと以前に、もっと根本的な部分でスポーツとして認めるのは論外だと思われていた節があります。

ですが現在、そうした対外的な問題よりも大きな問題は、日本国内において男子新体操が70年の歴史と国際的な評価があるにもかかわらず、その競技内容が一般に知られていないマイナーなスポーツだということです。
それは、見てもやっても面白くないスポーツだからではなく、一般の人がほとんど見る機会がないからです。

大手テレビメディアが男子新体操をスポーツとしてきちんと取り上げてくれたらよいのですが、テレビで男子新体操が取り上げられるのは、お笑いタレントが学校のクラブ訪問するようなバラェティ番組が大半です。
それでもないよりマシですが、視聴者の理解と認知に繋がるような取り上げ方ではないのです。

実際、日本においてスポーツとしての男子新体操は、何十年にもわたり大手メディアで取り上げられることはなく、ほぼ無視されていました。
高度のスキルと芸術性を備えながら国際的にも認められず、国内的にも無視され、その結果なのかどうかは分かりませんが、国体からも外されていたことは①で述べた通りです。

メディアが取り上げなかった理由は、私には分かるようで分かりません。
大手メディアのスポーツ記者達は、もちろん男子新体操というスポーツの存在を知っています。
なぜなら、何度か触れたように新体操の試合は、何十年もの間、同じ会場で男女交互に演技が行われているからです。
長く続くその“黙殺”の状況は異常な印象さえ受けます。
あるいはここにも日本におけるジェンダー問題があるのかもしれません。

評判の悪かった2021年の東京オリンピックでは、スポーツにおけるジェンダーフリーやLGBTのスローガンが随分と語られました。
要はスポーツの場における多様性を認めよう、ないしはスポーツを通じて多様性を理解しようということだったと思います。
実は日本の男子新体操について語ることこそ、その種のスローガンの理解に繋がることではなかったかと思います。

私自身、男子新体操というスポーツの存在は長く知りませんでした。
このブログでは、動画のコメント欄から私が知り、推測できたことを書きました。
多々間違いもあるかもしれませんが、間違いと思われることはコメント欄や私への直接のメッセージで指摘してください。
このブログの記事が日本の男子新体操の認知と理解に繋がることを願っています。


日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ③

2024年11月02日 | 男子新体操とジェンダー
今回のテーマは調べれば調べるほど深いものがあって、我ながら大変な記事を書き始めてしまったなと思います。
もし私が大学の社会学科の学生か何かだったら卒業論文に取り上げたいくらいです。

論文ならば常に論拠となるエビデンス(証拠)を示さなければならないのでしょうが、ここではスマホで撮ったスクショ画面をエビデンスとして貼り付けることにしました。
必要な部分だけ切り取りましたので見辛いかもしれませんが我慢してください。
というわけで以下は①②からの続きです。

ジェンダーフリーの推進という最近の傾向を除けば、欧米では男子新体操に対し、長年にわたり抵抗があったようですし、今もあるみたいです。
多分それが分かれば、かつて日本の新体操がFIGに加盟のアピールをしたにもかかわらず認められなかった原因も分かると思います。
今回はそれについて私の考察したことを書きます。
(男子新体操は、今現在は加盟のアピールより国内での普及活動に力を入れているようです。)

以下に例として、実際のコメント欄から三種のコメントのコピーを挙げてみます。
どれも同じ2020年の吉留大雅選手の個人演技の動画のコメント欄にあったものです。動画はここです。

コメントは演技に対する感想が多いのですが、ときおり男子新体操そのものに対するコメントがあり、ここで挙げるのはそういうものです。
グーグル翻訳の日本語訳ですので、意味が分かり辛い部分もありますが、詳しく知りたい人は動画サイトの原文を当たってください。

一つ目は応援するものです。

原語は英語で、名前とプロフィール画像から判断すると女性のようです。

この人は日本の男子新体操が国際的に認められていないと知ると、ロビー活動のお手伝いや、署名活動があればそれへの参加を表明しています。
「FIGが加入を認めないのはおかしい」とコメントで書いている外国人は多いのですが、この人の場合は随分と積極的・能動的です。

それに対してもう一つは拒否的な意見です。


グーグルが翻訳しなかった「ダム」というのは、「くそっ」のような罵倒語です。

②で紹介した日本の男子新体操の応援サイトの「応援!男子新体操」さんの記事【「これは、新体操じゃない」から2年半】でも、「これは、新体操じゃない」というコメントと並び「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントが当初は多かったそうです。
これはその種の女性の側からの意見です。
(このコメントには直ぐに反論のコメントがありました。)

②で私は、コーチとして女子の新体操の第4回の世界選手権大会(ブルガリア)に赴いた藤島氏について書きました。
その藤島氏へのインタビュー動画(ここ)によれば、1969年の第4回当時、審判・監督会議に参加できるのは女性だけだったそうです。
要するに選手も監督もコーチも審判もすべて女性で、男性は会議に参加することすらできなかったみたいです。

女性のみというようなことが今も続いているかどうかは分からないですが、当時のスポーツ界はほぼ男性によって牛耳られており、その中で新体操だけは男性が入ることのできない女性の聖域だったのではないかと推測されます。
ジェンダーフリーが急速に進展している今の時代からみて、それは過渡的に必要とされた在り方だったのかなと思います。

さて、三つ目ですが、これが一番の問題。

RGというのは Rhythmic Gymnasticsの略で、 要するに新体操のことです。
親指を下に向けた絵文字は「いいね」の反対ですね。

このコメントに対し動画サイトの運営者である「応援 男子新体操」を始め、幾つかの反論の返信コメントがあります。
それに対し彼は次のようにコメントしてます。


そして、最終的に彼は以下のようにコメントしています。


15年間も真面目に体操に取り組んでいたという人の否定的な意見は、一般の人の判断より欧米の体操界の男子新体操を見る目に近いかもしれません。
それにしても品位を落とすとは酷い言い方です。
でもなぜ男子新体操が男性の体操選手の品位を落とすのか、はっきりとは書かれていません。

少なくとも演技に問題があるわけではないのです。
ここでの吉留選手の演技は、あくまで素人目ですが、スキルと芸術性において優れたものです。
少なくとも品位において問題になるようなものではありません。

コメントしているPauro某氏は、吉留選手の演技ではなく、男性のRG全般に対して品位を問題にしているようです。(演技は見ず、men’sのRGという言葉に反応しただけかもしれません。)
そして品位を問題にすることは、彼の中では説明の必要もないほどの常識だった・・・。

前に書いたように、私は一部の外国人のコメントに違和感を感じてその意味を探りました。
当初、私はYouTubeのお勧めで見始めた井原高校の男子新体操の演技を主に見ていました。
男子新体操は、国内外を問わず、自分達の認知と普及を目指して、演技だけでなく練習風景や国内外で行った様々なイベントや練習風景の動画も発信しています。
井原高校も例にもれず練習風景の動画を幾つか発信しています。

そうした動画のコメントの中で「自分には演技している選手達は少女に見え、演技していない時の選手達は少年に見える」というものがありました。
私は『えっ???』って感じでした。

いくら欧米人より日本人が華奢だとしても体型から見て演技中の井原高校の選手達はどう見ても少女には見えないからです。
それに“演技中だけ”少女に見えるとはどういうこと??
でも男子新体操では、この種の訳の分からない事柄はよくあるのです。

たとえば私の記憶に残るネットの記事でも、ある日本人が、男子新体操の個人選手の演技を外国人に見せたところ「こんなにも女性的にならなければいけないのか」と言われ、「一体この選手のどこが女性的なのか」と怒っていたのがありました。
多分それも、その選手が女性的なわけでも、また演技が女性的なわけでもなかったと思います。

私がその意味をやっと理解したのは2018年の青森大学の演技(ここ)に付いたコメントからでした。


演技を見て貰えば理解できますが、2018年の青森大学の演技は「古代の戦士達のようだ」というコメントがあったくらいで、優雅でありながら力強いものでした。
それを「女性らしさの表れ?」と問いかけるのはオカシイのです。
さすがに他の人もオカシイと思ったのか以下のように「女性らしさ?」と問い返すコメントもありました。


それで私もやっと気が付いたのですが、欧米の一部の人達にとっては、音楽に合わせて踊ることは女性以外にありえないと考えられていることです。
だから筋肉質の若い男たちが古代の戦士のように踊っても「女性らしさの現れ」になってしまうのです。(疑問符をつけているところを見ると自分でも変だと思っているみたいですが)

そのダンス自体が女性的か男性的か、はたまた性別とは無関係なものなのかは全く関係ないのです。
踊っている人=女性、踊ること=女らしい、なのです。

そんな馬鹿なと思われるかもしれません。
私も意外でした。
だって昔の映画で見たジョージ・チャキリスは、フレッド・アステアは、ジーン・ケリーは、男性ですが踊っていたではないですか。(我ながら古い・・💦)
(もっとも、ジーン・ケリーは子供の頃、ダンスを習っていて、近所の子供に「女々しい」とからかわれ、一時期ダンスを辞めていたらしい。)

しかし考えてみれば彼らの場合は歌も歌い、演技もし、要するにミュージカルの中のダンスです。
しかもストーリーはほぼ男女の恋愛もので、相手役の女性も登場します。
フレッド・アステアの場合、当初は姉とコンビを組んで踊っていましたが、姉が結婚して引退後はコンビの相手探しに苦労しています。
衣装も普通の男性の衣装です。
おそらくそれ故に、ダンスを踊っても彼らは男性なのです。

私は日本以外で生活したことがない日本人で、正直なところ欧米文化のコアに関わる知識は持ち合わせていません。
ただ彼らの発言から推定できることを書きます。
どうやら、レオタードのような衣装を身に付けた男性の、音楽に合わせたダンスや体操に対する偏見があるみたいです。

器械体操の床運動でも、女性選手は音楽付きで演技しますが、男性選手は音楽無しです。
要するに男性は踊っているように見えてもいけないのです。
逆に女性は踊ることが求められているみたいです。
女性のみ、“体操の要素”としてリズム感があることが問われるのです。

でも、筋肉の量や質の違いから男性にのみ吊り輪やあん馬があるのは分かるのですが、リズム感が女性にのみ求められるのは、それこそ欧米だけで通じる社会的・文化的性差=ジェンダーなのではないでしょうか。
いずれにしても、これが新体操(Rhythmic Gymnastics )が長い間女性のみのスポーツであった理由だと思われます。

②で紹介した男子新体操の応援サイト「応援!男子新体操」の【「これは、新体操じゃない」から2年半】では、「これは新体操ではない」というコメントの次に多かったのは「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントだったそうでが、その背景にあるのもこの考えだと思われます。
彼らにすれば、音楽に合わせて演技するのは女性であることは疑問の余地もない当然のことなのです。

(余談ですが、ブレイクダンスのようなストリート系のダンスは、次回のパリオリンピックで追加競技となったように男性がダンスしても許容されています。
おそらく社会的な文脈がまったく異なるのでしょうね。
それ以前に、オリンピックでストリート系の競技が増えてきているのは、現在、世界的にオリンピックに対する関心が薄れてきているので、ストリート系の競技を積極的に取り入れることで若い世代のオリンピック離れを止める為だと言われています。)

話を元に戻すと、はっきりと次のようなコメントもありました。(このコメントは同じ吉留選手の2019年の動画からです。⇒ここ)


私は日本において男性がダンスする、音楽に合わせて踊ることが不名誉なことか考えたこともなかったですが、少なくとも私は67年間生きてきて「男が踊るとは何事だ」みたいなことが言われているのを聞いたことがありません。
ダンスすること、舞踊は、男女を問わずいつもポジティブに捉えられていたように思います。

ただ、女の子が習うものだとされているバレエや男子新体操についてのみ、時にからかいの対象になるようです。(男子新体操については女子の新体操との混同による無知からきています。)
それも子供か、頭の中が子供レベルの大人の世界だけの話です。
だから、伝統的には男性だけで踊ることを不名誉とする文化は日本には存在しないのではないかと思います。

では踊る男性を一部の欧米の人達はどう見なすのか。
女性的な男性、「ゲイ」だとみなすのです。
以下のコメント。


当然そのように見られることを恐れているコメントも。


私はここでは主に2019年と2020年の吉留選手の演技の動画に付いたコメントを紹介しました。
こうした動画がYouTubeにアップされるのは、実際に演じられた1、2年後ですので、コメントはスクショ画面からも分かるようにここ1、2年に書かれたものです。

よほど世の中の動きに疎い人でない限り気づいているように、ここ数年で先進国と言われている国々のジェンダーやセクシュアリティに関する考えは急激に変わってきています。
だから(誰も自分が遅れていると思われたくないので)、ある意味コメントは曖昧で、肝心な部分はぼかされているのです。
それがまた私を怪訝な感じにさせた理由でもありました。

「ダンスを踊るなんて女以外ありえないだろう。男が踊るとしたら、そいつはゲイだ」と、はっきりと書いてはいないのです。
もしはっきりとそう書いてあったら、言っている事のおかしさを指摘するのはそれほど困難ではないでしょう。

ではここ1、2年ではない、ずっと以前のものならどうなのか。
最も古く、YouTubeで世界レベルでバズった男子新体操の動画は、この記事のシリーズの①で取り上げた2009年の青森大学の演技ですが、その動画は転載されて複数あります。

ここでは、同一の動画が「The Worlds Most Amazing Asian Synchronized Dancers」と題されたもの(ここ)と、「Men's RG.Aomori univ.Oct-2009」と題されたもの(ここ)でアップされているので、その二つの動画のコメント欄の違いを見てみます。

前者の題の意味は「世界で最も驚くべきアジアの同期したダンサーたち」であり、説明も演技者をダンサーとしていて、アジアであることだけ分かりますが、国名も、誰が演技しているのかも、どういう状況なのかも分かりません。

後者の題の意味は「男子新体操 青森大学 2009年10月」で、説明でも全日本選手権で優勝した演技であるとされています。
要するに前者ではダンスということになっており、後者では男子新体操であることが分かるようになっているのです。

この二つの、そもそもは同じ動画のコメント欄を読んで何がわかるのか。
前者の「ダンサーたち」とのみ説明されていた場合、そのダンサーの性別を女性だと思い込んだ視聴者が多くいたのです。

中にはコメントを書く段階でも男性だと分からなかった人もいます。





私はわざと選手の写っている画面も入れましたが、女性に見えるでしょうか。

男性か女性か迷っている人もいました。









途中で女性だと思い込んでいた自分の間違いに気づく人達もいます。














日本人ならまず間違えないと思いますが、彼らはなぜこんなにも性別を間違えるのか。
それはやはり音楽に合わせて演技する人は女性でしかないと思い込んでいるからでしょう。

彼らにとってはダンサーが女性であることは自明の理であり、無自覚かつ無意識の、極めて強力な思い込みのようです。
だから男性ダンサーがどんなダンスを踊ろうとも、彼らにとってはそのダンスは女性的になってしまうのです。
そこまで強力な社会的な何かがあるとしか言いようがありません。

では後者の動画ではどうか。
後者ではMen's RGという形で最初から演技者が男性であることが明かされています。
(前者ではコメント数が1879か1880、後者では474と書かれていますので、そこで前者と後者の区別をつけられます。)
するとコメント欄は古いものであればある程、「ゲイだ」「ゲイだ」になります。

















もちろん前者の性別が明かされていない動画のコメントでも、演技者が男性だと気づくと「ゲイ」ということになります。










偏見に基づく妄想の世界がどんなものか知りたかったら、これらのコメントを読めばいいのです。
私自身こういうコメントは、引用していても気分が悪くなるので、ここらへんで止めときます。

それらの妄想的認識は「ほとんど病気」というより、既に「病膏肓に入っている」感じのものです。
いずれにしても、ある一つの文化圏の血肉と化した偏見・ステロタイプを打ち砕くことが容易ではないことは理解できます。

もちろんコメントは以上のようなものばかりでなく、大半は賞賛です。
ゲイだと決めつけているコメントにうんざりしているコメントもあります。












ゲイだと決めつけているコメントでも「ゲイだが素晴らしい」と、一方で賞賛しながらゲイだと決めつける混乱したコメントもあります。
男性が踊っているとゲイだと決めつけるのは、彼らにとって“パブロフの犬”のごとき反応なのかもしれません。

ちなみにコメント中で書かれているエスノセントリズムとは、自分の生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化・社会を評価する考え方のことです。

誤解なきよう付け加えておくと、私がここで問題にしているのは、私自身がゲイをネガティブな存在だと捉えて、コメントをしている人達が男子新体操の選手達をゲイだと決めつけていることではありません。

私が問題にしているのは、同性愛であれ異性愛であれ、およそ人の性的指向を勝手に決めつけていることです。
その上、彼ら自身にとってはゲイはネガティブな存在であり、そういうレッテル貼りを平気で、確信をもって、時に面白おかしく行っていることです。

LGBTQについて論じられる場合、多くはそれを性的マイノリティである人達に対する差別の問題として語られています。
ですが日本の男子新体操の場合、そもそもゲイあるいはゲイの文化とは無関係で、多くいる選手達の中に確率的にゲイの選手がいたとしても、男子新体操自体が性的マイノリティと関係があるとは言えません。

だからといって、そこにはLGBTQに対する差別の問題は存在しないとは言えないのです。
なぜなら差別する人達は日本の男子新体操の選手達をゲイだと確信していて、その上で差別しにかかり、男子新体操をスポーツではないとさえ言っているからです。

しかもそのベースにあるのは「音楽に合わせて演技するのは女性以外にありえない」という特異なジェンダー観、男らしさや女らしさにまつわる思い込みです。
もちろんそこにはコメントで指摘されているようにエスノセントリズムもあります。
すなわち文化の多様性に対する無理解です。
実際、文化によってはLGBTQさえ問題にならなかったことは歴史上明らかでもあるのです。

長くなりそうなので一旦切ります。



日本発祥の美しいスポーツ 男子新体操 ②

2024年11月02日 | 男子新体操とジェンダー
いわゆるジェンダーフリーの流れを受けて、オリンピックでも一方の性だけの競技を無くす気運が高まっています。
結果、今まで男性のスポーツとされていたボクシングや、女性のスポーツとされていたアーティスティックスイミングにも、女子ボクシングや男子がアーティスティックスイミングにMIXとして入るといったことが行われ始めました。

では女性のスポーツとされていた新体操はどうなるのでしょうか。
当然、男子新体操が必要となります。
ジェンダーフリーのこの流れは今までFIG(国際体操連盟)から加盟が認められていない日本の男子新体操にとって、国際的にも認められる追い風になるのでしょうか。

実は、そうはならないみたいです。
それどころか、ジェンダーフリーを推進したい人達にとっては、日本の男子新体操はスポーツにおけるジェンダーフリーをなし崩しにする性差別的な存在として、敵役のようにさえ見られています。⇒ここ

その理由は日本の男子新体操は新体操と言いながら、女子の新体操と同じ内容ではないからです。
日本の男子新体操は、団体では手具を持たないですし、個人の場合も手具が異なります。
(“手具”とは、女子の場合はリボンやフープなど選手が手に持って演技する物のことです)
また日本の男子新体操ではタンブリング(バック転・宙返り等の回転技)が必須ですが、女子の新体操では禁止事項です。

彼らの言い分では、新体操と称するからには女子が行っている新体操と同じ内容でなければならないのです。
もし、日本の男子新体操が、新体操の男性バージョンとして認められるようなことになれば、新体操は名目上はジェンダーフリーを達成したことになりますが、実質的にはジェンダーフリーにはならないというわけです。
むしろ日本の男子新体操は、ジェンダーフリーをなし崩しにする存在だということになります。

当然、日本の男子新体操に対する眼差しは厳しいです。
「何を好き勝手なことをしてるんだ」って感じです。

そのYouTubeのサイトでのネガティブな雰囲気を察知して、日本の男子新体操の応援サイトを立ち上げている「応援!男子新体操」の管理人が、そこのコメント欄で、日本の男子新体操が日本に女子の新体操が入ってくる以前から存在していたこと、新体操という言葉が翻訳上誤解を与えることを書き込んでいます。
それで、ようやく日本の男子新体操が、女子の新体操とはそもそも別物と理解されたようです。

ここで整理するために、もう少し詳しく、日本の新体操の歴史を書いておきます。

日本の新体操には、前身として団体徒手体操というものが戦前からあったそうです。
それはスウェーデン体操、ドイツ体操、デンマーク体操の要素を組み合わせた、団体で行う日本独自の体操競技でした。
1940年代、健康促進のために日本の学校に男女別のその競技の規定演技が導入されています。

団体徒手体操は1949年に開催された国民体育大会で正式に公式種目として採用され、1950年には全日本学生選手権(インターカレッジ)の、1952年には高校総体(インターハイ)の種目ともなり、ずっと続いてきました。

一方、海外に目を転じれば、新体操は女子のみのスポーツとして1963年に最初の世界選手権が行われています。
そして、1967年、団体徒手体操の当事者であった藤島八重子氏と加茂佳子氏が新体操の第3回世界選手権大会(コペンハーゲン)を視察します。

視察した二人は新体操に感動し、その当時の新体操のルールを持ち帰りました。
当時、女子の団体徒手体操の関係者は、国内だけでなく世界で戦いたいと言う希望もあって、新体操を行うことを提案しました。
そしてヨーロッパで行われている「Modern Gymnastics(当時の新体操の洋名)」と、女子の団体徒手体操の競技性の類似点に着目し、日本体操協会内で検討された結果、1968年に女子の団体徒手体操は団体徒手体操からヨーロッパ発祥の「新体操」として新たなスタートを切ったのだそうです。

さらに、早くも翌年の1969年には第4回世界選手権大会(ブルガリア)に参加し、日本は団体で5位に入賞しています。(これは単純に凄いです!)
その大会には先の藤島八重子氏はコーチとして、加茂佳子氏は選手として参加しています。

ところで、ヨーロッパ発祥のModern Gymnasticsは女性のスポーツであり、男性は行われていませんでした。
ですが日本体操協会はこれまで男女共に発展してきた「団体徒手体操」の流れを継承し、国内においては男女共に「新体操」と改名しました。
同時に、女子の新体操との整合性を持たせるためなのか、男子新体操も個人種目を創設し、個人種目のみ手具を持つようになりました。

ただし、手具は女子のそれに倣わず(リボンやフープを用いず)、新たにスティックやクラブ(女子のそれとは大きさが異なる)といった種目を作っています。
もちろんルールも、女子のそれは参照したと思われますが異なっており、元々あった団体徒手体操のルールを個人競技用に敷衍化したものです。
ですから個人種目でも徒手体操の動作が重視され、タンブリングも必須なのです。

日本の新体操の場合、団体徒手体操の時代から男女が共に行うという意識は強いようで、実際、日本の新体操の公的な競技会(全日本・インカレ・インハイ等)では、女子用のマットと男子用のマットが並べて敷かれ、男女交互に演技が行われることが多いのです。

男子新体操が個人競技を創設したのは、女子のみ個人種目が加わると、競技としての多彩さの上でも、また競技会においては時間的にも演技数の上でも、著しく男女不均衡になるということがあったのかもしれません。
いずれにしても、手具を持った個人種目の創設は女子の新体操の影響と思われます。

そのようにして今日の日本の男子新体操が競技として出来上がったようです。
今から54年前、1968年、おそらく男性が新体操するなど欧米の関係者が発想すらしなかった頃の話です。(発想しなかった、その理由については後述)
以上、私が調べた限りですが、間違いがあればコメント欄にてお知らせください。訂正します。

そして現在です。
日本の男子新体操は、国内より国外の方が認知度が高いと言えるほど、You Tube 等のsnsを通じて、世界各地で視聴されています。
きっかけとなったのは、一人のドイツ人が、自分のFacebookに井原高校男子新体操部の演技を載せたことだったようです。

先の日本の男子新体操の応援サイトを立ち上げている「応援!男子新体操」によれば、それは文字通りバズったのですが、同時に「これは新体操ではない」というコメントが最も賛同を集めていたということです。⇒ここ

当初は「日本ではそうなんだ」と、そのFacebookの管理者を含め、何度説明しても理解は得られなかったそうです。

ところが、その「応援!男子新体操」の記事は2019年のものですが、【「これは、新体操じゃない」から2年半】と題されているように、2年半で急速に理解され始めています。
私の推測ですが、その背景には視聴者の属する文化圏が西ヨーロッパから世界へと広がったことがあると思います。
中南米やアジア、とりわけ東欧の視聴者は、そんなことはあまり気にしないみたいです。

西欧以外、新体操には馴染がないからという理由ではないようです。
ロシアを含む東欧は、新体操の本場であり、世界で最も盛んで、かつ強い国々で、思い入れもあると思われますが、それでも私が読む限り「これは、新体操じゃない」というコメントはほとんど見かけなかったように思います。(東欧かどうかはキリル文字なので私にも分かります)
むしろ絶賛していますし、特にロシアは事実として日本の男子新体操の強力な推進者です。
目の肥えた彼ら(東欧)は芸術スポーツとしての価値を第一義に置くようです。

西欧の場合、「新体操とは」という理屈が先に立っています。
特に、先のジェンダーフリーを推進するサイトの場合、ジェンダーを巡る政治的な思惑が優先されています。

特にコメント欄では、スポーツに対する愛も、アスリートファーストの姿勢も、アスリートへのリスペクトも、私には感じられません。
時代は古いですが、1968年当時の、「世界を舞台に戦いたい」という女性アスリートの熱い思いを受けて、彼女たちが国際舞台で活躍できるように尽力した日本体操協会の方がずっとアスリートファーストだったように思います。

というわけで、FIGが最終的にどう判断するか分かりませんが、日本の男子新体操を一つの正当なスポーツとして認めようという世界的な気運は確実にあるようです。
それでも様々な問題が片付いたわけではないです。
一つはMen's Rhythmic Gymnastics として表記される名称の問題です。

実は、新体操の名称は日本では1968年からずっと「新体操」ですが、国際的には何度も名称変更しています。
日本の男子新体操は女子の新体操に合わせて、その時々の新体操の名称に訳されてしまうことになっているようです。
私は、国外向けには、男子新体操のみ、冒頭にJapaneseを必ず付けるように名称変更しても良いのではないかと思います。

そしてもう一つ、重大な問題があります。
そもそも私がこのテーマで記事を書きたいと思ったのは、スマホで徒然なるままに男子新体操の演技に寄せられるコメントを読んでいて、一部欧米系のコメントに奇妙な違和感を覚えたからです。
それは文化の違いと言ってしまえば簡単ですが、先のジェンダーフリーの推進とは別次元の、欧米文化に内在する性差別の実態であり、LGBTQの問題です。

一番書きたかった所にやっと辿り着いたのですが、長くなりそうなので③に続きます。

<付記>
私がこの記事を書いた2年後、記事内で上げたサイトここに大きな変更が加えられていることが分かりました。
よって、そのサイトについての、この記事の内容も正確ではなくなりましたが、とりあえずそのまま残しておくことにします。