ここ数日、テレビを観ていると、戦後70年ということで戦争を特集にしたものが多いです。
本当は、8月の一時期だけでなく、戦争の体験は、常日頃、伝えていくべきものでしょう。
私の両親は二人とも戦争体験者でしたが、戦争の話はあまりしませんでした。
それでも、父はある時、ガダルカナル島の話をしたことがあります。
当時、父は軍属として病院船の高砂丸に乗船していました。
船を動かす機関員としての立場での体験です。
ガダルカナル島は縮めてガ島とも言われ、餓島と当て字されることもあります。
無謀な作戦の結果、多くの日本兵の死者(戦死5000人、餓死及び傷病死15000人)をだしたことで有名な島です。
日本の病院船が到着したことは、すぐにガダルカナル島のジャングルに潜む日本兵に伝わったようで、餓死寸前の日本兵は、最後の力を振り絞ってジャングルから出てきたそうです。
その姿はとても生きている人間とは思えない、昔の地獄草子や餓鬼草子に描かれている亡者や餓鬼のような状態で、そういう人間が、ゾロゾロと無言のまま、行列を作って船に乗り込んできたそうです。
最初は、まだ歩ける人間が来たそうですが、しまいには這って来る人達もいたそうです。
彼らは船に乗り込むと甲板に自ら横たわり、そのまま安堵して死んでいったとのことです。
日本の病院船が来た、船に乗れば日本に帰れる、そう思って、最後の力を振り絞ったのでしょうね。
父にとっては、それは、忘れられない、衝撃的な情景だったようです。
ガダルカナルに限ったことではなく、当時の日本軍は、いつまでも最初の戦略、作戦にこだわり、撤退の決断を先延ばしして被害を拡大してしまうことを繰り返しています。
それは、今も変わらぬ日本人の国民性なのかもしれないとも思ってしまいます。
下の写真は、5年くらい前に私が門司に旅行に行った時、たまたま入った国の登録有形文化財である北九州市旧大阪商船ビルで見つけた高砂丸の模型です。
本当は、8月の一時期だけでなく、戦争の体験は、常日頃、伝えていくべきものでしょう。
私の両親は二人とも戦争体験者でしたが、戦争の話はあまりしませんでした。
それでも、父はある時、ガダルカナル島の話をしたことがあります。
当時、父は軍属として病院船の高砂丸に乗船していました。
船を動かす機関員としての立場での体験です。
ガダルカナル島は縮めてガ島とも言われ、餓島と当て字されることもあります。
無謀な作戦の結果、多くの日本兵の死者(戦死5000人、餓死及び傷病死15000人)をだしたことで有名な島です。
日本の病院船が到着したことは、すぐにガダルカナル島のジャングルに潜む日本兵に伝わったようで、餓死寸前の日本兵は、最後の力を振り絞ってジャングルから出てきたそうです。
その姿はとても生きている人間とは思えない、昔の地獄草子や餓鬼草子に描かれている亡者や餓鬼のような状態で、そういう人間が、ゾロゾロと無言のまま、行列を作って船に乗り込んできたそうです。
最初は、まだ歩ける人間が来たそうですが、しまいには這って来る人達もいたそうです。
彼らは船に乗り込むと甲板に自ら横たわり、そのまま安堵して死んでいったとのことです。
日本の病院船が来た、船に乗れば日本に帰れる、そう思って、最後の力を振り絞ったのでしょうね。
父にとっては、それは、忘れられない、衝撃的な情景だったようです。
ガダルカナルに限ったことではなく、当時の日本軍は、いつまでも最初の戦略、作戦にこだわり、撤退の決断を先延ばしして被害を拡大してしまうことを繰り返しています。
それは、今も変わらぬ日本人の国民性なのかもしれないとも思ってしまいます。
下の写真は、5年くらい前に私が門司に旅行に行った時、たまたま入った国の登録有形文化財である北九州市旧大阪商船ビルで見つけた高砂丸の模型です。