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天の川銀河の中心部では、複数の“野良ブラックホール”が飛び交っている!?

2017年07月29日 | ブラックホール
天の川銀河の中心には超大質量ブラックホール“いて座A*”があります。
この“いて座A*”周辺に、異常な速度をもつ小さな分子雲が発見されたんですねー

分子雲は、なぜこのような振る舞いをするのか?
疑問を解く鍵は孤立した“野良ブラックホール”にあるようです。

“野良ブラックホール”が巨大分子雲に高速で飛び込み、
重力で引き寄せられた部分が局所的に加速された結果らしいですよ。


恒星質量ブラックホール

天の川銀河内には、
太陽の数倍から十数倍の質量を持つ軽いブラックホール“恒星質量ブラックホール”が、
数億個存在すると理論的に予言されています。

でも、これまでに発見されている候補天体の数は60個ほど…
見つからない理由は、多くのブラックホールが伴星を持たず孤立した“野良”状態にあるようです。

恒星質量ブラックホールは、
その周囲に広がる降着円盤から放出されるX線を検出することで発見されてきました。

ただ、降着円盤を継続的に輝かせるのには、
ブラックホールのすぐ近傍に物質供給源となる伴星が必要になるんですねー

なので“野良”状態だと、降着円盤からX線が放出されず発見が出来ないということです。
  中間質量ブラックホールは球状星団の中心に隠れていた
    


特異分子雲を発見

今回、研究チームでは、
天の川銀河の中心核“いて座A*”から約30光年以内の領域をサブミリ波で分光観測。

東アジア天文台のジェームズ・クラーク・マックスウェル電波望遠鏡を用いて、
“いて座A*”周辺の分子ガスの運動と物理状態を調べています。

観測の過程では同領域内に、直径3光年程度と小型で、
周囲の既に知られている分子雲とは明らかに異質な運動をしている2つの分子雲を発見。

そして詳細な解析から、これらの特異分子雲はそれぞれが太陽の十数倍の質量を持ち、
太陽が1秒間に放出するエネルギーの約20兆倍もの膨大な運動エネルギーを持っていることが分かります。
  超大質量ブラックホールのそばに新種の分子ガス雲を発見
    


運動エネルギーはどこから?

膨大な運動エネルギーの起源として挙げられるのは、
超新星爆発との相互作用や重い原始星からの双曲流などです。

でも、2つの分子雲にその痕跡は見当たらなかったんですねー

このことから、既知の天体現象以外の“何か”が、
特異分子雲の駆動源になっていることが示されることになります。

そこで研究チームが考えたのは、
“点状重力源が巨大分子雲へ高速で突入し、
重力で引き寄せられた部分が局所的に加速されることで生じる”
っというシナリオでした。

この“突入モデル”によると、
  1.太陽と同程度の質量を持つ天体が、秒速約1000キロの超高速で分子雲に突入。
  2.太陽の十倍程度以上の質量を持つ天体が、秒速約100キロの高速で分子雲に突入。
のいずれかの場合に、発見されたような特異分子雲が発生するそうです。

1番目の場合、突入天体の候補としては、
天の川銀河の重力を振り切るほどの超高速度で運動する軽い恒星“超高速度星”が挙げられます。

でも“超高速度星”は、これまで天の川銀河中心部には発見されておらず、
大質量星やブラックホールの数に比べて極めて少ないことが理論的に予言されているので、
可能性は低いんですねー

一方、2番目のモデルでは、
突入天体の候補は大質量星か恒星質量ブラックホールと考えられています。

さらに、分子雲方向に大質量星のような強力な放射源の存在は確認されていません。

なので、今回発見された2つの特異分子雲の駆動源は、
“いて座A*”の周りを飛び交う“野良ブラックホール”という可能性が高いことになります。

天の川銀河中心部を飛び交う“野良ブラックホール”(イメージ図)

今回の研究は、天の川銀河の中心の超大質量ブラックホール近傍を、
複数個の“野良ブラックホール”が飛び交っている可能性を、
初めて観測的に示したものになります。

天の川銀河の中心核から30光年以内の領域には、
1万個以上ものブラックホールが潜んでいるという理論予測もあり、
その一端をとらえたという点で有意義な成果になるそうですよ。


こちらの記事もどうぞ
  駆動源は野良ブラックホール? 天の川を打ち抜く超音速の弾丸
    


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1 コメント

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- (無明寺)
2017-07-31 10:08:45
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
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