その昔、「死」を経験しなくてすんだ人、たとえばエノク 1)やエリヤ 1)ではない私たちは、いつか「死」を味わうことになる。
それを想うとき、いくつかの話が思い出される。これは、そんな話の一つ。
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むか~しむかし、あるところにイスラエルと言う国がありました。
(今もあるんだよ。)
イスラエルには、とても有名な、ダビデ王という王様がおりました。
さて、あるとき、ダビデ王様の子どもが病気になってしまいました。
王様は、大変悲しみました。
悲しんで、悲しんで、
神様にその子どもが助かるよう心から願って、
断食をしたり、
一晩中、頭を地につけて祈りひれ伏していたり
・・・王様の家のおエライ方々が、どうにかこうにか、嘆き、祈り伏している王様を起こそうとしたが無理でしたし、もちろん、彼らと一緒にごはんを食べようとさえしないくらいに・・・、
それは、もう、とにかく大変な悲しみようでした。
しかし、そうした甲斐(かい)もなく、子どもは7日目にとうとう亡くなってしまいました。
王様の家来たちは、困ったぞ、と声をひそひそ相談し始めました。
「王様は、あの子が生きているときでさえ、私たちの言うことなんて耳をかさず、大変な嘆きようだった。
そんな王様に、
いったい、誰が、あの子が亡くなったことを知らせられるだろう
生きているときでさえ、あの様子だったのだから、
死んだとなれば、
なおさら何が起こるかわかったものじゃない。
もしかすると、知らせた者が、八つ当たりされることだって、何か恐いことがおこることだって、ありうるぞ。
おい、どうする・・・・・・」
そんな家来たちの様子が、ダビデ王にわからないはずはありません。
ダビデ王は、子どもが亡くなったことを悟り、家来たちに尋ねました。
「子どもは死んだのか?」
家来たちは、答えました。
「なくなられました・・・」
すると、王様は、今まで伏していた地から起き上がり、
身体をさっぱりと洗って、
着物も着替えて、
神様を敬う宮(みや)に入り、神様を礼拝してから、
家に帰り、
ごはんを食べ始めました。
そんな王様の様子に、家来たちはびっくり。
恐る恐る、尋ねました。
「王様。
いったい、これはどういうことですか
あなたのお子様が、まだ生きているときは断食をして泣かれていたのに、
今、なくなったと知ったら、起きて、お食事を召し上がられるとは・・・」
ふつう、死んだ後、嘆いてごはんがのどを通らなかったりするものなのに、確かに、王様のしていることは逆です。
家来たちには、王様が、どうしてそうするのか、全くわかりませんでした。
そんな家来たちに、ダビデ王はこう言いました。
「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、
もしかすると、主(しゅ:神様のこと)が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、
と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。
私はなぜ、断食をしなければならないのか。
あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。
私はあの子のところに行くだろうが、
あの子は私のところには戻ってはこない。」
(旧約聖書・サムエル記第二 12章)
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神様を知らずに亡くなった子どもや小さなものがどうなるか、
それは、よくわからない。
しかし、神様は憐れみ深い、愛に満ちたお方だ。
悪いようにはなさらないだろう。
むろん、神様は公平な裁き主でもある。
ゆえに罪を犯した者たちを、無罪とすることはできない。
だが、なんとか救うために、
御子(みこ)イエス・キリストを、人の身代わりに十字架につけるということを行い、
それによって、ただ信じるだけで、無罪とされ、天国に入るようにされた。
だから、天に召されたとき、神様を間近に拝見して、感謝したり、賛美しているかもしれない。
もしくは、「今頃、先に召された戦友たちと『やぁ、どうしていた?』とかって、逢ったり喜んだりしているんだろうか」
と、思いを馳せ、
地上にまだ残されたもの達は、慰め合う。
また、天国で逢いましょうと。
【注】
1)エノク、エリヤ:どちらも旧約聖書に登場する人物。エノクは300年のあいだ生きた後、死を経験することなく、エリヤは火の車に乗って天に召されたという。どちらも、神様に喜ばれた生涯であったという。
それを想うとき、いくつかの話が思い出される。これは、そんな話の一つ。
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むか~しむかし、あるところにイスラエルと言う国がありました。
(今もあるんだよ。)
イスラエルには、とても有名な、ダビデ王という王様がおりました。
さて、あるとき、ダビデ王様の子どもが病気になってしまいました。
王様は、大変悲しみました。
悲しんで、悲しんで、
神様にその子どもが助かるよう心から願って、
断食をしたり、
一晩中、頭を地につけて祈りひれ伏していたり
・・・王様の家のおエライ方々が、どうにかこうにか、嘆き、祈り伏している王様を起こそうとしたが無理でしたし、もちろん、彼らと一緒にごはんを食べようとさえしないくらいに・・・、
それは、もう、とにかく大変な悲しみようでした。
しかし、そうした甲斐(かい)もなく、子どもは7日目にとうとう亡くなってしまいました。
王様の家来たちは、困ったぞ、と声をひそひそ相談し始めました。
「王様は、あの子が生きているときでさえ、私たちの言うことなんて耳をかさず、大変な嘆きようだった。
そんな王様に、
いったい、誰が、あの子が亡くなったことを知らせられるだろう
生きているときでさえ、あの様子だったのだから、
死んだとなれば、
なおさら何が起こるかわかったものじゃない。
もしかすると、知らせた者が、八つ当たりされることだって、何か恐いことがおこることだって、ありうるぞ。
おい、どうする・・・・・・」
そんな家来たちの様子が、ダビデ王にわからないはずはありません。
ダビデ王は、子どもが亡くなったことを悟り、家来たちに尋ねました。
「子どもは死んだのか?」
家来たちは、答えました。
「なくなられました・・・」
すると、王様は、今まで伏していた地から起き上がり、
身体をさっぱりと洗って、
着物も着替えて、
神様を敬う宮(みや)に入り、神様を礼拝してから、
家に帰り、
ごはんを食べ始めました。
そんな王様の様子に、家来たちはびっくり。
恐る恐る、尋ねました。
「王様。
いったい、これはどういうことですか
あなたのお子様が、まだ生きているときは断食をして泣かれていたのに、
今、なくなったと知ったら、起きて、お食事を召し上がられるとは・・・」
ふつう、死んだ後、嘆いてごはんがのどを通らなかったりするものなのに、確かに、王様のしていることは逆です。
家来たちには、王様が、どうしてそうするのか、全くわかりませんでした。
そんな家来たちに、ダビデ王はこう言いました。
「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、
もしかすると、主(しゅ:神様のこと)が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、
と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。
私はなぜ、断食をしなければならないのか。
あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。
私はあの子のところに行くだろうが、
あの子は私のところには戻ってはこない。」
(旧約聖書・サムエル記第二 12章)
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神様を知らずに亡くなった子どもや小さなものがどうなるか、
それは、よくわからない。
しかし、神様は憐れみ深い、愛に満ちたお方だ。
悪いようにはなさらないだろう。
むろん、神様は公平な裁き主でもある。
ゆえに罪を犯した者たちを、無罪とすることはできない。
だが、なんとか救うために、
御子(みこ)イエス・キリストを、人の身代わりに十字架につけるということを行い、
それによって、ただ信じるだけで、無罪とされ、天国に入るようにされた。
だから、天に召されたとき、神様を間近に拝見して、感謝したり、賛美しているかもしれない。
もしくは、「今頃、先に召された戦友たちと『やぁ、どうしていた?』とかって、逢ったり喜んだりしているんだろうか」
と、思いを馳せ、
地上にまだ残されたもの達は、慰め合う。
また、天国で逢いましょうと。
【注】
1)エノク、エリヤ:どちらも旧約聖書に登場する人物。エノクは300年のあいだ生きた後、死を経験することなく、エリヤは火の車に乗って天に召されたという。どちらも、神様に喜ばれた生涯であったという。