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『イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。」』
(新約聖書・ヨハネの福音書 20章29節)
見ずに信じる者は幸いです。」』
(新約聖書・ヨハネの福音書 20章29節)
「で、トマスの話は、その後、どうなったの?」と、友人レタス(仮名)に聞かれたのは、もう、かれこれ1か月前だったような気がする。そのとき、こんな会話が繰り広げられた。
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キャベツ「かくかく、しかじか」
レタス「それは、わかった。
だが、そこで伝えたいのは、『見ずに信じる者は幸い』ってことなんじゃないの?
そもそも、『見ずに信じる者は幸い』って、どういう意味なんだ?
たとえば、逆に「見て、信じた者は幸いではない」のか?」
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キャベツ「いやいや、見ても見なくても、信じたら幸いだよ」
レタス「そもそも、ここでいう『幸い』って、何?
クリスチャン的には、「見たほうが幸い」(あの当時、直接イエス様に会いたかった)と思うんじゃないの?」
キャベツ「う~~~む・・・」
(いや~、こっちは、「イエス様がそういうなら、そうなんだろ」、と、それだけで十分だったからなぁ。確かに、どういう意味で、イエス様は、こうおっしゃったんだろう? いやはや、こういう友人がいるのはありがたい。)
キャベツ「…確かに、直接には理由は書いていないよね。山上の垂訓では、それを受け入れるかどうかは別として、『幸い』である理由を述べられているが…」
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う~~ん、う~~~~ん、と悩んでいるキャベツに、レタスはヒントをくれた。
レタス「じゃ、『見ずに信じる者』に該当する者は誰?」
キャベツ「そりゃ、あの当時、イエスを直接見ずに信じた人たち…使徒行伝から今に至るクリスチャン…私たち、でしょう。 あと、旧約の聖徒たち、かな。 彼らは、『これからメシヤ(救い主、キリスト)が来る』ということを、見ずに信じていたわけだから。
あれ、そういえば・・・」
キャベツは、聖書をめくり始めた。
(確か、そうだ、あそこに・・・)
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…というわけで、このあとは皆様の番です。
(あなたは、そのみことばについて、どう示されましたか?)
(ちなみに、キャベツはこのとき、ペテロ第一,へブル11章,創世記15章6節,ローマ4章と示されましたが、はてさて。
ここでは、その後は書かず、あえて、問題提起の部分まで、とさせて頂きます。)