さすらうキャベツの見聞記

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The Fruit of the Spirit is ...

2007-04-08 23:28:58 | Sunday 写真&みことば
ふと思ったこと。
 Fruit of the Spirit、と聞いて、人は何をイメージをするだろう・・・?
 この言葉、アメリカの某大学の看護学のある教授が“Spiritual Care”という内容の講義の際、この箇所を引用していたことがあったっけ。それは、大学時代の、アメリカ南部の某大学に短期留学(←学部間で交換留学の協定がなされていた)で行ったときのこと。


 英語だと、こういう文;
  ・・・the fruit of the Spirit is love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control・・・


 そして、このことばは、実は新約聖書のここからだったりする↓

 私は言います。
 御霊(みたま) 1)によって歩みなさい。
 そうすれば、決して肉 2)の欲望を満足させるようなことはありません。

 なぜなら、肉の願うことは御霊(みたま)に逆らい、
 御霊(みたま)は肉に逆らうからです。
 この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 しかし、御霊(みたま)によって導(みちび)かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。 3)

 肉の行いは明白であって、次のようなものです。              
 不品行、汚(けが)れ、好色、

 偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)、魔術、敵意、
 争い、そねみ、憤(いきどお)り、
 党派心(とうはしん)、分裂、分派<あるいは異端>、

 ねたみ、酩酊(めいてい)、遊興(ゆうきょう)、
 そういった類のものです。
 前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。


しかし、御霊(みたま)の実は、
 愛、喜び、平安、
 寛容(かんよう)、親切、善意、
 誠実(せいじつ)、柔和(にゅうわ)、自制(じせい)です。

 このようなものを禁ずる律法はありません。

                    (新約聖書・ガラテヤ人への手紙5:16-23)



 御霊とともに歩む-神様とともに歩むということ、神様のみこころに沿って歩むということ。
   「人間40過ぎたら自分の顔に責任を持て(生き様や性格が顔に現れるぞ)」とは言われるが、年配の方々を見ると、-僭越ながら-確かに表れているように思い当たる節(ふし)がある。たとえば、忍耐強い方とか、柔和な方とか。こういう性質は、一日や数ヶ月で得られるものではない。

 ただ、う~~ん、キャベツの場合、今のままでは「甘ちゃん人間」という顔になりそうだ。(Q.どんな顔だ?   -A.しまりのない、たるんだ顔さ。)




 それにしても、最初に勧められていることでもあることだが、
  
   「神とともに歩んだ」(創世記5:24)

 と言われたら、クリスチャンとして最高の賛辞の一つだろう。

 そして、本当にそう歩んでいるなら、
 上の9つの性質(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)もまた、かぐわしい香りを放っているような気がする。


                                 


【注】
1)御霊:これは、助け主(ぬし)、聖霊、神の霊などとも聖書の各所で呼ばれ、クリスチャンとなった場合、内在してくださるお方のこと。三位(さんみ)一体( ←この言葉自体は聖書にはないが )の神の一つの位格。
 「父、子、聖霊の御名によって・・・」(マタイ28:19)
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」(コリントⅡ 13:13)


2)肉:聖書に親しみがない方々からすれば独特な使い方だが、これは贅肉(ぜいにく)のことを指しているのでも、肉体を直に指しているのでもないようです
   神様(のご性質)に逆らう人間の性質、と言えるかと。(なんとか、ニュアンスは伝わるかな・・・)


3)律法の下には…:律法とは、神様が示された法律のこと。
       天国に入るには、一応二つの方法がある。
       一つは、全ての律法を遵守(じゅんしゅ)すること。
       もう一つは、イエス・キリストを信じること。
       ただし、実質上律法を全て遵守するというのは人間に不可能(こちらプチ参考 その壱
                                                  その弐)。
          よって、信じることが肝要(かんよう)となる。
        ここでは、律法の行い(≒イイこと、善行)による救いと、信仰による救いについて話されてもいるので、ポツリと「律法」と出てきても、変な顔をしないでください


                             
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