さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

我が家に一名増えました

2009-09-18 06:56:59 | 日々の雑感
 我が家に、ミリオンバンブー君が参加することになりました(写真左)。キャベツの一目惚れです。

(写真右は、コーヒーの木)



爽やかな秋空-ラジオ体操にも読書にもちょうど良さそうな朝のひととき。

 …今日が良い一日でありますように。

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ぼくを、きりとって

2009-09-17 23:40:31 | 日々の雑感
どきっ、としました



・・・同じ大学の同期の、ガーナからの便り。

元気でいてください。)

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ゴーギャン“Where Do We Come From? What Are We? Where…?”

2009-09-16 12:22:35 | Wednesday 芸術・スポーツ
 ゴーギャン展@東京国立近代美術館にて。

  ポール・ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903)の『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』(1897-1898)
 名前は知っていたが、初めて目にするこの作品は、
 愛娘アリーヌが亡くなったという知らせを受け取ったあと、手がけたという。

 右から左へ、時-とき-が流れている。

 眠っている赤子から、死に行く老婆へ。 
 誕生から、不可避かつ不可逆の死まで。

 また、
 真ん中の女性は、禁断の果実を採るエヴァとも言われる。
(その左下の女の子が食べている果実は・・・もしかして、それ?
 とはいえ、茶々を入れると、禁断の果実を食べるまでは、アダムもエヴァも『自分たちが裸である』とは知らなかったんだが・・・。
 言われる所以は、ゴーギャンの作品の『異国のエヴァ』-モデルは、タヒチの14歳の愛人なのかな…と邪推-とやや類似しているせいか)


 仙台から静岡に移り住んだ友人-先にこのゴーギャン展を観た人-が送ってきた葉書がきっかけで、重い腰を上げて観に行ったのだが、行って良かったようにも思う。
 ・・・平日だが混んでいて、ゆっくりはできなかったが。
 ・・・その日いろいろあり、しばらくの間、ため息もついたのだが。
 灰色の東京駅のビル街に不釣合いな黄色のシャトルバスを利用したら、運転手さんがプチ東京案内もしていたのもまた、良かった。


             .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*  
 

 この作品については、ゴーギャンが98年2月、友人のモンスレーに宛てて、手紙をしたためている(その最後の一部を抜粋)。


 『・・・福音書に比すべきこのテーマをもって、私は哲学的な作品を描いた。
  いいものだと、と思っている。そのうち元気が出たら、模写してあなたに送ろう。』

                  

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続・病(やまい)

2009-09-08 23:21:43 | Tuesday 病院
(前記事はこちらをクリック)
◇「病いの語り~慢性の病いをめぐる臨床人類学~」(アーサー・クライマン著、誠信書房、1996)から、一部抜粋。

注:<>は、キャベツが勝手につけたところである。また、ここでは、あとで読みやすいように、勝手に段落を変えていることをお断りする。



P.12-13 <痛みの表現>

 その結果、たとえば痛みについて話すとき、われわれはまわりの人びとに理解してもらうことができる。
 しかし表面的な意味でさえかなり微妙でとらえがたいこともある。各々の文化や時代において、たとえば頭痛についての数多くの異なった語り方がある。こうした相違によって、病者の周囲の人びとがその人に対して異なった仕方で反応することになる。
 北アメリカの社会で頭痛を訴えるたくさんの表現法を考えていただきたい。
「頭が痛む」
「頭がとても痛い」
「頭がガンガンする」
「偏頭痛がある」
「たんなる緊張性の頭痛だ」
「こめかみが詰まって重い感じがする」
「ひたいが輪のようなものでしめつけられているように痛い」
「副鼻腔が痛む」
「頭蓋骨がチリチリする」
「頭を動かすとめまいがする、ちょうど目の前をベールが通り過ぎるようだ」など。

 いずれの表現も、無味乾燥な「頭痛」という用語に陰影と色彩をほどこしている。
 慢性の頭痛がたどる長い経過において、いくつかのキーワードが、それを患う者や家族にとって特別な意味を帯びるようになるが、それは、はたで立ち聞く人には理解できないものだろう。
 こうした慣習的な病いの慣用表現や特別な用語をどれだけ有効に使用できるかは、人によって異なる。他人の行動に影響を及ぼすこうした秘められた力をもった言葉を、表現のなかにたくみに盛り込むことによって、支持を受けたり、他者を遠ざけたり、一人でいる時間を確保したり、怒りを伝えたり、羞恥心を隠したりするなどの欲求を満たすことに長けている人もいる。(中略)



         *************
         
P.18~20
<表現と理解>

 偏頭痛であるとか、あまりの「ストレス」による緊張性の頭痛だとか、それが「ひどい」(beastly)とか、「ぞっとする」(awaful)、「ガンガンする」(pounding)、「ドキドキする」(throbbing)、「削るような」(boring)、「うずく」(aching)、「破裂するようだ」(exploding)、「わけのわからない」(blinding)、「気が滅入る」(depressing)、「致命的」(killing)とか、あなたが自分の頭痛についてさまざまに訴えるのを聞いて、私はその経験のいくぶんかを解釈し、あなたがどのように感じ、私にどのように感じてもらいたいと思っているのかを解釈する(あなたもまた自分の訴える言葉と私の反応を解釈するが、それはあなたの症状に影響を与えるだろう)。

 症状を示す用語の表面的な意味について、これほど数多く並べたてた理解をわれわれが共有できることは、文化の微妙さというものを立証するものである(たとえばナイジェリアの精神科患者は、彼らの文化に独特の訴えである、頭の中を蟻が這っているような感じを訴えることが多い)(Ebigbo 1982)。

 熱い(hot)、冷たい(cold)という身体の状態についての〔古代ギリシャの医学者〕ガレノスの体系や、その体系にもとづいて西洋の民衆文化に内包されるようになっている体液の均衡や不均衡という考え方を、私はもはやはっきりとは理解できないだろう。
 しかし、あなたが「かぜ」(cold)をひいたならば、何か「熱い」(hot)ものを欲しがるだろうし、外気の「寒さ」(the cold)から自分の「かぜ」(cold)を守ろうとして、暖かく着こむ必要を感じるという点については了承できる。
 
 われわれは、包括的な文化的慣習にもとづいて理解するのであり、そのため「かぜには大食、熱には小食」(feed a cold, starve a fever)という格言は、このローカルな知識を共有しない者には理解できないものとなるだろう(Helman 1978)。

                        

 しかし、この外的なレベルの意味には、明らかに重大な不確実さもある。
 あなたが「頭が割れそうだ」というとき、、私はあなたが何を言おうとしているのか完全にははっきりとは理解できない。

 というのは、私はあなたの経験を完全に理解するほどあなたを十分知らないと思うからである。
 あなたが通常がまん強い人なのか、ヒステリー傾向の人なのか、心気的な人なのか、相手を操作するような人なのか。
 あなたがどういう人であるかを理解することが、私があなたの訴えをどう解釈するかに影響を及ぼす。われわれの関係によって、あなたの頭痛の訴えに私がどう反応するかということが特徴づけられるだろう。

 この関係は、われわれの現状に対するお互いの理解に加えて、私が今まであなたにどのように反応してきたか(そしてあなたは私にどう反応したか)というこれまでの歴史を含んでいる。
 つまり、慢性の病いの事例においては、その関係は、何百という訴えを経てすでに確立した反応と状況のパターンをもまた含んでいるのである。あなたが苦悩を伝え、私はそれを解釈するが、その解釈は、ふだんの生活で病気になったときにお互いにどのような行為をしあうのかという相互行為パターンによって構成されている。

 実際、あなたが訴える際の言語は、われわれの関係を表す言語の一部になっている。そのために、症状自体の表面的意味でさえ、われわれの日常的世界を構成する意味や関係のなかに埋め込まれていて、われわれが相互行為においてわれわれの自己をどのように再現するかということを含むことになる。こうしたことによって、表面的な症状から、多様な種類のコミュニケーションに役立つ豊かなメタファーのシステムが創り出されるのだ。(以下略)



         **********************


P.21

   …しかし、慢性の病いをもつ患者のケアを行う人で、効果的な治療者であろうとする者にとっては、病いの経験こそがまさにケアの本領なのであって、「それ自体を象徴するシンボル」(Wagner 1986)なのである。
   患者の病いの経験を正当に評価すること、つまり、その経験に権威を与え、その経験を共感をもって傾聴することは、慢性の病いをもつ患者のケアにおいてかぎを握る仕事である。
 しかし、それは特に難しい仕事であって、慢性であるということから、日常的に、一貫して、まったく辛抱強く行わざるをえないものである。(以下略)

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自分の人生

2009-09-06 22:44:47 | Sunday 写真&みことば
            『人は心に自分の道を思い巡らす。
             しかし、その人の歩みを確かなものにするのは
              主(しゅ)である。』

                   (旧約聖書・箴言16章9節)


  

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あと1か月で人生を終えるとしたら? 1位は「親孝行」

2009-09-05 03:07:08 | Friday -news-
もし、あと1か月で人生を終えることになったら?―― 誰もが1度は考えたことがあるであろう“最後にしたいこと”の、第1位は「親孝行」。

回答一覧「あと1か月で人生を終えるとしたら?」

これは、製薬会社・協和発酵キリンが、20代~60代の男女1000人を対象に行った「“いのちの大切さ”に関する意識調査」によるもの。

 「あと1か月で人生を終えるとしたら、あなたは何をしたいですか」の質問に、
   41%が「親孝行」と答えたという。
   次いで、「お世話になった人への恩返し」が36%、
  「世界中を旅行」が31%、
  「食べたかったものを食べる」が21%という結果となっている。

最後だからと、めいっぱい自分が楽しむための時間にする意見が多いかと思いきや、家族や恩人など、周りの人のために時間を使いたいという回答が1位・2位に入る形となっており、なかなか世の中捨てたものではないと思わせられる。

今調査は、同社が「私たちの志」として掲げる「たった一度の、いのちと歩く」というメッセージのもと、“敬老の日(9月21日)を前に、いのちの大切さを改めて考えるきっかけに”という思いで実施したものだが、まさに世のおじいちゃんおばあちゃんにお知らせしたいデータとなっているのではないだろうか。

ほか「“いのちの大切さ”を教えてくれた作品は?」の問いに対する回答は、映画部門が、1位「火垂るの墓」、2位「おくりびと」、3位「硫黄島からの手紙」、テレビドラマ部門が、1位「救命病棟24時」、2位「1リットルの涙」、3位「Dr.コトー診療所」という結果に。

また「“いのちの大切さ”を感じる人生のシーン」については、大半が「葬式」と答える中、20代女性だけは「出産」が1位だったという興味深いデータも。

“いのちの大切さ”―― 口にするには少々照れくさい言葉かもしれないが、一度改めて考えてみるのも悪くはないのでは?【東京ウォーカー】




  書籍部門「路傍の石」「レ・ミゼラブル」「スカーレット・ウィザード」、
   マンガ部門「ぼくの地球を守って」「エースをねらえ!」「生徒諸君!!」などなど、
   映画部門「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「I am Sam」

   などはなかったんかなぁ・・・とも思ったりもしつつ(いや、そもそもドラマ部門などはテレビを持たないキャベツにはわからんから、お互い様やんけ)、
 ほかの人はどんなことを思ったり、考えたりするんだろう、とも思いつつ。


 あと一ヶ月・・・キャベツなら・・・と思い巡らし、つぶやいてみる。

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あと一ヶ月・・・キャベツの場合

2009-09-05 03:04:08 | 日々の雑感
  あと一ヶ月と言われたら・・・キャベツは、手紙を書いたり、兄弟たちや友人たちと会ったり、仕事や丸秘ノート類を始末したり、温泉に皆で行ったり、パン裂き(聖餐式)などに出たり、・・・という感じで、いつもの生活に、ちょっとだけプラスがあるくらいだろうか-痛みもコントロールして、できる限り、自分のことは自分でできるように過ごせるならば。
  一ヶ月なんて、あっという間。
  一生も儚く過ぎていく。目の前は途方もなく遠いように見えて、振り返ればとても短い。



  その泡沫(うたかた)のようなときの中で
  私は、何を残せるだろう。
  その昔、「金銀われになし」と言ったパウロのように、
  私は、それを伝えたいのに。

  そもそも、私自身が、知らないのだ。
  ・・・ただ、とらえようとして追求し、
  それを得るようにと捕らえられたけれど。


  どんなに素晴らしいものか、私たちが目にしているものがどんなに奇(くす)しいことか。


  ピリピ3:8-12. 
  


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病(やま)い

2009-09-01 23:22:12 | Tuesday 病院
大学の頃に読み、興味深かった書籍、「病いの語り~慢性の病いをめぐる臨床人類学~」(アーサー・クライマン著、誠信書房、1996)から、一部抜粋。


<>は、キャベツが勝手につけたところである。また、ここでは、あとで読みやすいように、勝手に段落を変えていることをお断りする。

P.12
<症状の意味 based on 文化的な共通理解-ただし無意識的に>

 われわれが検討しようとする病いの意味の最初のものとしてふさわしいのは、症状自体の表面的な明示的意味(denotation)である。これは、たとえば背部痛や、動悸や、喘鳴のような症状が、能力低下や苦悩という直示的で慣習的な意味を表すということである。こうした自明な意味表現は「自然のままの」ものとして見なされがちである。

 しかし、こうして自然のままに見えるものは、特定の文化における共有された理解にもとづいており、異なった社会集団のあいだでは往々にして相違するものである。

 症状の意味は、あるローカルな文化システムにおける標準化された「真理」である。
 なぜなら、その集団のもつカテゴリーがその世界へ投影され、そのうえでその世界のなかに見出されるために、自然のままのものと呼ばれるからである。

 つまりわれわれは、ローカルな形での共通知識を当然のものとして受け入れている。
たとえば、胸のしこりはがんかもしれないとか、
     熱でほてるときはひどく冷たいものを飲まないように注意しろとか、
     日焼けした肌は健康のしるしであるとか、
     太っているよりやせているほうがよいとか、
     一日一回の規則正しい便通が正常だといったことである。
病気とはどのようなものであり、人が、身ぶりや顔の表情や声の調子や言葉などの既成のパターンによって病気の経験を表現する際、それが何を意味しているのかをわれわれが相互に正しく認識できるようになっているのは、こうしたローカルな共通理解のためである。





 その結果、たとえば痛みについて話すとき、われわれはまわりのひとb・・・








 オヤ、また、きーbオードが不調.
 continued.


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