今回は、音楽記事です。
このジャンルでは、前回スティングについて書きました。
そこからの延長で、スティングの在籍するバンドであるポリスについて書きましょう。
ポリスといえば、今では「スティングのバンド」というイメージだと思いますが、そもそもはドラムのスチュワート・コープランドが中心でした。そこにアンディ・サマーズという名うてのギタリストをつれてきたグループであり、おそらく三人のなかではスティングがもっとも無名だったでしょう。ポリスが大ヒットしたために、スティングも大物になったのです。
ポリスにはアンチも多いと思われますが、かのマーティー・フリードマンさんがいうところでは、その革新的な音楽性は後のアーティストに大きな影響を与えていて、ポリスが嫌いという人でも影響を受けていることが少なくないのだそうです。
それは一つには、彼らのミュージシャンとしての高いクリエイティビティによるものでしょう。
PVなんかを見てるとおちゃらけたアイドルグループみたいにも見えてしまうんですが、実際のところ、彼らはミュージシャンとして卓越した技巧をもち、それをきわめてクリエイティブな方向にむけているのです。
ギターのアンディ・サマーズは、以前ちょっと書いたような気がしますが、アニマルズに一時在籍していたことがあります。アニマルズがアメリカに拠点を移して、サイケデリック的な音楽をやっていた時期にギターを弾いていたのです。また、彼はソフトマシーンなどにも参加していた人で、そもそもそういう実験的な傾向を持っているわけです。たとえば、「孤独のメッセージ」で使われている独特のアルペジオは、アンディ・サマーズが考案した形だといいます。「見つめていたい」にもその変化形のようなものが出てきますが、ただの甘ったるいラブソングのように思える曲でもそういう革新性がみられるわけです。
また、ドラムのスチュワート・コープランドは、カーブド・エアというプログレ系のバンドにいたこともある人で、やはりそういう実験的な傾向があります。ポリスの曲にはちょっとトリッキーなリズムがよく出てきますが、その発想は彼に負うところも大きいでしょう。
そこに、もともとジャズ畑の人であり、ウッドベースを弾いたりもするスティングが加わります。
卓越したテクニックと実験性が、ポリスの基盤にあるのです。
そして彼らは、その高い音楽能力で、レゲエとパンクの融合をハイレベルで成し遂げたと評価されています。
70年代に勃興した音楽ジャンルとして、パンクとレゲエがありますが、パンクをレゲエと融合させようという試みは、クラッシュ以来ずっとありました。ポリスは、その一つの到達点と目されているのです。
また、音楽性以外の部分でも、ポリスは非凡なところを見せてくれます。
たとえば、その歌詞。教師だったというスティングの知性が垣間見えます。
それがもっとも顕著にあらわれていると私が感じるのが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダという歌です。
The Police - De Do Do Do, De Da Da Da (Official Music Video)
この歌の何がすごいかというと、もう詞の技巧を否定してしまってるというところですね。
饒舌が自分の手を離れると、その論理が自分を縛り上げてしまう……それで、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというのが自分のいいたいことのすべてだというんです。それは何の意味ももたず、無垢であり、真実なのだと。
「言葉は極限まで突きつめるとスキャットに行きつく」というのが私の持論ですが、その理論でいくと、スティングもまた言葉の極限まで行きついているわけです。それでもう一周してしまって、技巧を放棄するという……これは、文学史上におけるダダイズムと同じ発想でしょう。「ダダ」という言葉も入ってるし。
実際には、他の楽曲と同様この歌でも押韻が多用されていて、そういう意味では“技巧的”なんですが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというところでそれを否定します。
あらゆる言葉は、これまでに誰かが語った言葉である。したがって、本当の言葉を語ろうと思ったら、誰も使ったことのない言葉を使うしかない――そういうリアルの追求です。
そんなふうに考えると、前にスティングの記事で紹介した口パク拒絶のエピソードも、リアルの追及なのかもしれません。
口パクが行われていた場合、普通に放送されている限りでは、口パクなのかそうでないのか確かめるのは困難です。しかし、流れている音声とあきらかに違う動きをしているというような“放送事故”があると、それが白日のもとにさらされます。リアルというのは、こういうイレギュラーがあってはじめて明らかになるわけで、リアルの追求は、予定調和を破壊する“事故”と背中合わせなのです。
その意図がどうであれ、ポリスはここで“リアル”を見せてくれたわけです。
背景はだいぶ違いますが、かつて忌野清志郎がやったFM東京事件もそうだと思うんです。
ああいうふうに、事前の取り決めが無視される、調和が破られることで、リアルが垣間見える――そういうリアルを見せてくれる存在こそが、真のロックンローラーでしょう。スティング、そしてポリスは、そういう意味でリアルなロックンローラーなんだと思います。
このジャンルでは、前回スティングについて書きました。
そこからの延長で、スティングの在籍するバンドであるポリスについて書きましょう。
ポリスといえば、今では「スティングのバンド」というイメージだと思いますが、そもそもはドラムのスチュワート・コープランドが中心でした。そこにアンディ・サマーズという名うてのギタリストをつれてきたグループであり、おそらく三人のなかではスティングがもっとも無名だったでしょう。ポリスが大ヒットしたために、スティングも大物になったのです。
ポリスにはアンチも多いと思われますが、かのマーティー・フリードマンさんがいうところでは、その革新的な音楽性は後のアーティストに大きな影響を与えていて、ポリスが嫌いという人でも影響を受けていることが少なくないのだそうです。
それは一つには、彼らのミュージシャンとしての高いクリエイティビティによるものでしょう。
PVなんかを見てるとおちゃらけたアイドルグループみたいにも見えてしまうんですが、実際のところ、彼らはミュージシャンとして卓越した技巧をもち、それをきわめてクリエイティブな方向にむけているのです。
ギターのアンディ・サマーズは、以前ちょっと書いたような気がしますが、アニマルズに一時在籍していたことがあります。アニマルズがアメリカに拠点を移して、サイケデリック的な音楽をやっていた時期にギターを弾いていたのです。また、彼はソフトマシーンなどにも参加していた人で、そもそもそういう実験的な傾向を持っているわけです。たとえば、「孤独のメッセージ」で使われている独特のアルペジオは、アンディ・サマーズが考案した形だといいます。「見つめていたい」にもその変化形のようなものが出てきますが、ただの甘ったるいラブソングのように思える曲でもそういう革新性がみられるわけです。
また、ドラムのスチュワート・コープランドは、カーブド・エアというプログレ系のバンドにいたこともある人で、やはりそういう実験的な傾向があります。ポリスの曲にはちょっとトリッキーなリズムがよく出てきますが、その発想は彼に負うところも大きいでしょう。
そこに、もともとジャズ畑の人であり、ウッドベースを弾いたりもするスティングが加わります。
卓越したテクニックと実験性が、ポリスの基盤にあるのです。
そして彼らは、その高い音楽能力で、レゲエとパンクの融合をハイレベルで成し遂げたと評価されています。
70年代に勃興した音楽ジャンルとして、パンクとレゲエがありますが、パンクをレゲエと融合させようという試みは、クラッシュ以来ずっとありました。ポリスは、その一つの到達点と目されているのです。
また、音楽性以外の部分でも、ポリスは非凡なところを見せてくれます。
たとえば、その歌詞。教師だったというスティングの知性が垣間見えます。
それがもっとも顕著にあらわれていると私が感じるのが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダという歌です。
The Police - De Do Do Do, De Da Da Da (Official Music Video)
この歌の何がすごいかというと、もう詞の技巧を否定してしまってるというところですね。
饒舌が自分の手を離れると、その論理が自分を縛り上げてしまう……それで、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというのが自分のいいたいことのすべてだというんです。それは何の意味ももたず、無垢であり、真実なのだと。
「言葉は極限まで突きつめるとスキャットに行きつく」というのが私の持論ですが、その理論でいくと、スティングもまた言葉の極限まで行きついているわけです。それでもう一周してしまって、技巧を放棄するという……これは、文学史上におけるダダイズムと同じ発想でしょう。「ダダ」という言葉も入ってるし。
実際には、他の楽曲と同様この歌でも押韻が多用されていて、そういう意味では“技巧的”なんですが、ドゥドゥドゥ・デ・ダダダというところでそれを否定します。
あらゆる言葉は、これまでに誰かが語った言葉である。したがって、本当の言葉を語ろうと思ったら、誰も使ったことのない言葉を使うしかない――そういうリアルの追求です。
そんなふうに考えると、前にスティングの記事で紹介した口パク拒絶のエピソードも、リアルの追及なのかもしれません。
口パクが行われていた場合、普通に放送されている限りでは、口パクなのかそうでないのか確かめるのは困難です。しかし、流れている音声とあきらかに違う動きをしているというような“放送事故”があると、それが白日のもとにさらされます。リアルというのは、こういうイレギュラーがあってはじめて明らかになるわけで、リアルの追求は、予定調和を破壊する“事故”と背中合わせなのです。
その意図がどうであれ、ポリスはここで“リアル”を見せてくれたわけです。
背景はだいぶ違いますが、かつて忌野清志郎がやったFM東京事件もそうだと思うんです。
ああいうふうに、事前の取り決めが無視される、調和が破られることで、リアルが垣間見える――そういうリアルを見せてくれる存在こそが、真のロックンローラーでしょう。スティング、そしてポリスは、そういう意味でリアルなロックンローラーなんだと思います。