先日、中東情勢緊迫という記事を書きました。
その前には、戦争ファンタジーという記事も書きましたが……どうも、また戦争が起きそうな気配が高まってきているように感じられます。
アメリカという国は、第二次大戦後、10~20年ぐらいのスパンでそれなりの規模の戦争を繰り返してきました。それを考えれば、いまアメリカがまた戦争を始めたとしても、残念ながら驚くにはあたらないでしょう。
もっとも緊迫しているのはイランとの関係ですが、世論調査によると、アメリカ人の半数が数年以内にイランと開戦すると予想しているのだそうです。アメリカの場合、戦争はファンタジーではなくて、ときどき起きるそれほど特殊でもない出来事になってしまってるんでしょうか……
そんな状況に異をとなえる反戦歌の一つとして、前回の音楽記事ではエドウィン・スターの「黒い戦争」を紹介しました。
今回もその流れで、戦争の愚かしさを歌う歌を紹介しましょう。
「花はどこへ行った」です。
ピート・シーガーの作った歌で、とても有名な反戦歌。ピーター、ポール&マリーをはじめとして多くのアーティストに歌われています。日本語詞もあって、このブログにたびたび登場する忌野清志郎も歌いました。
野に咲く花はどこへいった
とはじまるこの歌は、次のような短い詞の繰り返しとなっています。
花はどこへ行った
長い時がすぎて
花はどこへ行った
遠い昔に
花はどこへ行った
若い娘たちがつんでいった
ああ いったいいつになったら
わかるのだろう
この詩の単語をちょっとずつ変えながらの、繰り返しです。
「花はどこへ行った」→「若い娘たちがつんでいった」というところから、「若い娘たちはどこへ行った」→「夫たちのもとへ嫁いだ」、「夫たちはどこへ行った」→「兵士となった」、「兵士たちはどこへ行った」→「(戦死して)墓場へ行った」……そして最後に、「墓場はどこへ行った」→「花畑になった」となり、一周して元に戻るわけです。ここで、最初にあった「いったいいつになったらわかるのだろう」というフレーズの意味もはっきりするわけです。
いったい何度同じことを繰り返せば、その愚かしさに気づくのか――まさにいま、戦争が起きるかどうかという岐路にたっているアメリカの人たちに聞いてほしい歌ではあります。
その前には、戦争ファンタジーという記事も書きましたが……どうも、また戦争が起きそうな気配が高まってきているように感じられます。
アメリカという国は、第二次大戦後、10~20年ぐらいのスパンでそれなりの規模の戦争を繰り返してきました。それを考えれば、いまアメリカがまた戦争を始めたとしても、残念ながら驚くにはあたらないでしょう。
もっとも緊迫しているのはイランとの関係ですが、世論調査によると、アメリカ人の半数が数年以内にイランと開戦すると予想しているのだそうです。アメリカの場合、戦争はファンタジーではなくて、ときどき起きるそれほど特殊でもない出来事になってしまってるんでしょうか……
そんな状況に異をとなえる反戦歌の一つとして、前回の音楽記事ではエドウィン・スターの「黒い戦争」を紹介しました。
今回もその流れで、戦争の愚かしさを歌う歌を紹介しましょう。
「花はどこへ行った」です。
ピート・シーガーの作った歌で、とても有名な反戦歌。ピーター、ポール&マリーをはじめとして多くのアーティストに歌われています。日本語詞もあって、このブログにたびたび登場する忌野清志郎も歌いました。
野に咲く花はどこへいった
とはじまるこの歌は、次のような短い詞の繰り返しとなっています。
花はどこへ行った
長い時がすぎて
花はどこへ行った
遠い昔に
花はどこへ行った
若い娘たちがつんでいった
ああ いったいいつになったら
わかるのだろう
この詩の単語をちょっとずつ変えながらの、繰り返しです。
「花はどこへ行った」→「若い娘たちがつんでいった」というところから、「若い娘たちはどこへ行った」→「夫たちのもとへ嫁いだ」、「夫たちはどこへ行った」→「兵士となった」、「兵士たちはどこへ行った」→「(戦死して)墓場へ行った」……そして最後に、「墓場はどこへ行った」→「花畑になった」となり、一周して元に戻るわけです。ここで、最初にあった「いったいいつになったらわかるのだろう」というフレーズの意味もはっきりするわけです。
いったい何度同じことを繰り返せば、その愚かしさに気づくのか――まさにいま、戦争が起きるかどうかという岐路にたっているアメリカの人たちに聞いてほしい歌ではあります。